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プロローグ



――まあ、死んだはずなんだけどな、俺。


 自分の人生を車にたとえるなら、そこそこ年季の入った中古車だったと思う。


 走行距離はそれなりに伸びていて、外装には小傷もあって、エンジンルームを開ければ交換しておいた方がいい部品がいくつか見つかる。けれど、オイル管理は悪くないし、足回りもまだ粘るし、何より持ち主が愛着を持って整備してきた車だ。あと十年、いや、整備次第では二十年くらいは走れるだろうと、本人は勝手に思っていた。


 ところがどっこい。


 人間の身体というやつは、車検証みたいに分かりやすく状態を教えてくれない。


 異音が出たときにはもう遅い。警告灯が点いたときには、かなり面倒なところまで話が進んでいる。病院の白い天井を眺めながら、片桐修司、四十歳、自営業、自動車整備士、独身、趣味は長距離ドライブと工具売り場の徘徊という俺は、そんなことをぼんやり考えていた。


 癌だった。


 しかも、なかなか性格の悪いやつだった。


 こっちが「ちょっと待て、まだ店のローンも残ってるし、あの古いランドクルーザーのレストアも途中なんだ」と言っても、向こうは聞いちゃくれない。医者は真面目な顔で説明してくれたし、看護師さんは優しかったし、友人たちは見舞いに来てくれた。ありがたいことだった。ありがたいことではあったけれど、結局のところ、壊れた部品を注文して交換すれば済む話ではなかった。


 俺はずっと、車を作りたかった。


 市販車を買って、足回りを変えて、内装をいじって、寝られるようにして、調理できるようにして、工具も積んで、どこかで困っている車があれば直せるようにして、仕事の合間に少しずつ手を入れて、いつかそいつで日本中を回るつもりだった。


 北海道の道を走って、朝の霧の中でコーヒーを淹れて、知らない港町で魚を食って、山道でエンジン音を聞いて、夜は車内で寝袋にくるまりながら雨音を聞く。子供の頃に読んだ冒険譚とはずいぶん地味な夢かもしれないけれど、俺にとっては十分に大冒険だった。


 その夢は、店の片隅に置かれたまま、埃をかぶった。


 工具箱も、部品棚も、溶接機も、全部あそこにある。作りかけのベッドキットも、まだ仮組みのままだ。あれを見た同業の友人が「お前、これ本当に完成させる気あったのか」と笑っていたけれど、俺としては大真面目だった。人間、仕事が忙しいと夢は後回しになる。後回しにしても夢は逃げないと思っていた。まあ、逃げたのは俺の寿命の方だったわけで、そこはちょっと笑えない。


 最後の日のことは、案外ぼんやりしている。


 痛かったような気もするし、痛くなかったような気もする。眠かったような気もするし、やたら頭だけ冴えていたような気もする。病室の窓の外には曇り空があって、どこか遠くで車の音がした。あれは軽トラだったと思う。エンジンの回転が少し荒くて、マフラーもくたびれている感じだった。死ぬ間際までそんなことを考えているあたり、我ながら筋金入りだと思う。


 俺は目を閉じた。


 ああ、もう一度だけでいいから、自分で組んだ車で遠くへ行きたかったな。


 そんな未練を最後に、俺の意識は、工具箱の引き出しを静かに閉めるみたいに落ちていった。


 ……はずだった。


 それなのに、どういうわけか、俺は騒音で目を覚ました。


 最初に聞こえたのは、人の声だった。怒鳴り声、笑い声、客引きの声、荷物を運ぶ男の掛け声、どこかで泣いている子供の声。次に鼻をついたのは、鉄と油と雨上がりの石畳が混ざった匂いで、これがまた妙に生々しい。病院の消毒液の匂いとはまるで違う。ついでに言うと、天国の匂いでもない。天国に油臭い石畳があるなら、それはそれで俺向きではあるけれど、一般的なイメージからはだいぶ外れている。


 目を開けると、空があった。


 青い空ではない。灰色がかった雲の隙間から、薄い光が差し込んでいる。雨上がりらしく、空気は湿っていて、頬に冷たさが残っていた。俺はどうやら地面に座り込んでいるらしい。背中は石壁に預けていて、尻の下には濡れた石畳がある。腰が冷える。非常に現実的な不快感だ。死後の世界にしては、尻に厳しい。


 ゆっくり身体を起こそうとして、俺はまず自分の手を見た。


 知らない手だった。


 分厚い。指が長い。節が硬い。手の甲には古い傷がいくつも走っている。整備士の手とはまた違う。俺の手はオイルで汚れることはあっても、こんなふうに刃物で切られたような傷跡はなかった。爪の形も違う。手首も太い。ついでに腕も太い。なんなら、病院で痩せ細っていた俺の腕とは比べ物にならないくらい、筋肉が詰まっている。


 いや、誰だよ。


 思わず声に出そうとして、喉から出たのは低くかすれた声だった。


「……うわ、渋い」


 自分の声に対して最初の感想がそれなのもどうかと思うけれど、本当に渋かった。居酒屋のカウンターで日本酒を飲みながら「昔はな」と語り出しても違和感がない声である。いや、前世の俺も四十だったから若々しい声ではなかったけれど、これはまた別方向に貫禄がある。少ししゃべっただけで、過去に三回くらい傭兵団を壊滅させていそうな声だ。


 俺は周囲を見回した。


 そこは路地の出口近くで、少し先には大きな通りが広がっていた。石造りの建物が並び、壁には金属製の配管が這い、ところどころから白い蒸気が細く漏れている。店先には布の屋根が張られ、果物や焼き菓子や謎の干し肉らしきものが並んでいた。人の服装は、革の上着や厚手の布、金属の留め具が多い。中には、腰に剣を提げている者もいる。剣。現代日本で普通に通りを歩いている人間が腰に剣を提げていたら、即座に通報案件である。


 さらに驚いたのは、人間だけではなかったことだ。


 猫のような耳を持つ少女が走っていった。犬のような尻尾を揺らす大柄な男が荷車を押している。背の低い、ひげの濃い頑丈そうな男が、巨大なスパナを肩に担いで歩いている。耳の長い女性が露店で薬草らしき束を選んでいる。俺はしばらく黙って眺めたあと、なるほど、と心の中でうなずいた。


 これは、あれだ。


 異世界だ。


 理解が早すぎると思われるかもしれないけれど、こちらとしてはもう死んだ覚えがある。死んだ覚えがある人間が、知らない身体で、知らない街で、獣耳や長耳やひげの職人たちを見たら、選択肢はそう多くない。夢、幻覚、死後の世界、異世界転生。幻覚にしては尻が冷たいし、夢にしては匂いが濃いし、死後の世界にしては露店の焼き串がうまそうすぎる。となれば、異世界転生である。雑な結論に聞こえるかもしれないが、現場判断というのは大体そんなものだ。


 問題は、俺がどこの誰なのかということだった。


 自分の名前は覚えている。片桐修司。生年月日も、店の住所も、最後に見た病室の天井の染みも覚えている。父親の顔も、母親の声も、店に来ていた常連の面倒な注文も覚えている。前世の記憶はちゃんとある。ところが、この身体の持ち主の記憶は、妙に曇っていた。


 頭の奥に、知らない名前が浮かんでいる。


 ガルド。


 それが、この身体の名前らしい。


 名字は分からない。いや、もしかしたらあるのかもしれないが、思い出そうとすると、頭の中で古いラジオの雑音みたいなものが走る。職業らしきものも浮かんだ。ハンター。獲物を狩る人間。魔物を討伐し、危険地帯を調査し、依頼を受けて報酬を得る職業。要するに、異世界版の危険作業員兼傭兵兼便利屋のようなものだろう。


 なるほど、ハンターか。


 俺は自分の腕をもう一度見た。


 たしかに、整備士にしては仕上がりが凶悪すぎる。肩回りの筋肉が、工具箱どころかエンジンブロックを片手で持ち上げそうな雰囲気を出している。前世の俺がこれを手に入れていたら、ミッション降ろしがずいぶん楽だっただろう。いや、そういう問題ではない。


 立ち上がろうとして、俺は予想以上に軽く身体が動くことに戸惑った。


 病院のベッドで弱っていた感覚が身体に残っていたので、立つだけでも苦労するつもりだった。ところが、膝に力を入れた瞬間、身体がすっと持ち上がった。ふらつきもしない。息切れもしない。腰も痛くない。四十歳の整備士としては感動的なコンディションだ。朝起きて腰が痛くないだけで人は神に感謝できる。死んで若返ったのか、身体を乗り換えたのかは分からないが、少なくとも肉体の整備状態は極上だった。


 俺は通りに出た。


 そして足を踏み出した瞬間、思わず立ち止まった。


 視界に飛び込んできた情報量が多すぎたのだ。


 大通りは、俺の知っているどんな商店街とも違っていた。道幅は広く、中央には荷車や馬車が行き交う車道のような空間があり、両側には歩行者用の石畳が敷かれている。建物は四階建てから六階建てほどが多く、石と煉瓦と鉄骨が混ざった重厚な造りをしていた。壁面には歯車を模した看板や、魔石灯らしい青白いランプが吊るされている。あちこちに配管が走り、建物の屋根からは煙突が伸び、蒸気が白い帯になって空へほどけていた。


 その街は、生き物のように音を立てていた。


 車輪が石畳を叩く音。鉄を打つ音。遠くで鳴る鐘。どこかの工房から響く低い機関音。蒸気が逃げる鋭い音。人々の声。市場のざわめき。それらが混ざり合い、街全体が巨大なエンジンになっているようだった。俺は思わず足を止めた。こういう音は嫌いじゃない。いや、むしろ好きだ。動いている機械には癖がある。音を聞けば、調子の良し悪しがなんとなく分かる。街にもそれがあるのかもしれない。


 ふと、頭上に影が落ちた。


 見上げると、遠くの空を巨大な船のようなものがゆっくり横切っていた。船体の横に翼のような安定板があり、底部には青い光を帯びた機関がいくつも並んでいる。大きなプロペラが回り、白い蒸気を吐きながら、まるで重さを忘れた鉄の城みたいに雲の下を進んでいた。


 飛空艇。


 その言葉が自然に浮かんだ。


 すごい。


 たしかにすごい。男の子なら誰でも一度は目を輝かせる光景だ。空を船が飛んでいる。ロマンの塊だ。俺も思わず見とれた。見とれはした。見とれはしたのだが、そこで俺の視線は、飛空艇から大通りの向こうへゆっくり下がっていった。


 そして、見つけた。


 鉄の車体。


 四つの車輪。


 前方に丸い魔石灯。


 荷台のある箱型の車両。


 蒸気と、魔力光らしき青い輝きを排気口からちらつかせながら、そいつは石畳の上をゆっくり走っていた。車体の横腹には商会の紋章が描かれていて、後部には木箱が山ほど積まれている。運転席に座った中年の男が大きな円形ハンドルを握り、足元のペダルらしきものを踏み替えながら、横断する歩行者に向かって怒鳴っていた。


「どけどけぇ! 西門便が通るぞ! 踏まれてから文句言うなよ!」


 俺は口を開けたまま、その車両を見送った。


 空飛ぶ船より、そっちに全部持っていかれた。


 この世界にも、車がある。


 もちろん、俺の知っている自動車とは違う。エンジン音が違う。燃焼のリズムではない。蒸気圧と回転機関と、何か魔法的な補助が混ざっている感じだ。サスペンションも怪しい。車輪の動きからして、乗り心地はあまり良くなさそうだ。荷台の揺れ方を見る限り、固定がだいぶ甘い。後輪の片側にわずかなブレがある。たぶんベアリングか軸受けが傷んでいる。排気に青い火花が混ざっていたので、魔石回路の接点も怪しい。あれは早めに見た方がいい。


 ……いや、なんで初見の異世界車両に整備目線でダメ出ししてるんだ、俺。


 自分で自分にツッコミを入れながらも、胸の奥がじわじわ熱くなるのを止められなかった。


 車がある。


 なら、直せる。


 直せるなら、作れる。


 作れるなら、走れる。


 走れるなら、旅ができる。


 前世で置いてきた夢が、濡れた石畳の上で急にエンジンをかけた。


 俺はしばらくその場に突っ立っていた。通行人の邪魔だったらしく、後ろから荷物を背負った若い男に「おい、でかいの、ぼさっとすんな」と肩を押された。押されたと言っても、俺の身体はほとんど動かず、相手の方が「あれ?」という顔をした。こちらとしては申し訳ない。本人の中身は病み上がりどころか死亡明けの元整備士なので、そんな頑丈ボディの扱いには慣れていないんだ。


「ああ、すまん」


 俺がそう言うと、男は俺の顔を見て、なぜかぎょっとした。


「ひっ……く、黒狼……?」


「黒狼?」


 なんだその、いかにも面倒そうな二つ名は。


 男は返事もせず、荷物を抱え直して人混みに消えていった。俺は首をかしげた。黒狼。頭の奥で、その言葉に反応するものがある。どうやら、この身体の持ち主であるガルドは、ただのハンターではなかったらしい。周囲の視線も少し変わっている。さっきまで通行人Aだった俺に、何人かがちらちら目を向けている。


 困った。


 俺は目立ちたいわけではない。新しい人生が始まるなら、できれば静かに、できれば平和に、できればまず飯を食って、風呂に入って、寝床を確保して、それから工具と作業場について考えたい。異世界に転生した初日から「伝説の黒狼」とか呼ばれて、危険な依頼を押しつけられる未来は遠慮したい。俺は魔王を倒しに来たのではない。車をいじりに来たのだ。


 腹が鳴った。


 実に現実的な音だった。


 異世界転生だろうが、元凄腕ハンターだろうが、空に飛空艇がいようが、腹は減る。生きている証拠だ。病院ではろくに食えなかったので、この空腹感すらありがたい。俺は通りの屋台を見た。肉を串に刺して焼いている店がある。香辛料の匂いがたまらない。肉の正体は分からない。牛か、豚か、鳥か、あるいは異世界らしく六本足の何かかもしれない。正体不明の肉に恐怖心がないわけではないが、前世でも深夜のサービスエリアで妙に安い唐揚げを食べてきた男である。今さら怖がるほど上品な胃袋ではない。


 問題は金だ。


 懐を探ると、革の財布らしきものがあった。中には銀色や銅色の硬貨が入っているが、価値は分からない。適当に出してぼったくられるのは避けたい。かといって、いきなり物価調査から始めるのも面倒だ。俺は屋台の横に立ち、前の客が支払う様子を観察した。焼き串二本で銅貨四枚。なるほど。俺は銅貨を四枚取り出して、店主に差し出した。


「それを二本くれ」


 店主は俺の顔を見るなり、眉を上げた。


「お、おう。黒狼の旦那じゃねぇか。久しぶりだな」


 また黒狼だ。


 やめてほしい。俺は修司だ。いや、この身体はガルドらしいので、今はガルドなのかもしれない。どちらにせよ、黒狼という通り名は荷が重い。犬派か猫派かで言えば、どちらかというと犬も猫も好きだが、自分が狼扱いされる覚悟はない。


「ああ、久しぶり……らしいな」


「なんだそりゃ。酒でも抜けてねぇのか?」


「まあ、色々あってな」


 便利な言葉である。色々。死んで転生したとか、記憶が曖昧とか、身体の持ち主が有名人らしいとか、説明すると長くなる事柄をまとめて誤魔化せる。店主は笑いながら串を渡してくれた。俺は受け取り、少し匂いを嗅いでからかじった。


 うまい。


 肉は噛み応えがあり、脂は少なめで、香辛料が強い。塩気もしっかりしている。表面は少し焦げていて、その焦げの苦みがまたいい。病院食からの振れ幅が大きすぎて、脳が拍手している。俺はあっという間に一本食べ、二本目に手をつけながら、通りの車両を目で追った。


 魔導車、と呼ぶのだろうか。


 大通りにはそれほど多くない。主流は馬車と荷車で、自走車両は商会か工房のものらしい。大型のものは低速で、音も荒い。小型の三輪車のようなものも一台走っていた。前輪一つ、後輪二つ。運転しているのは作業服姿の女性で、荷台には工具箱が積まれている。あれは整備士かもしれない。いいな。非常にいい。こっちの世界にも同業者がいる。


 食べ終えた串を返却箱らしきところに入れ、俺は歩き出した。


 まず必要なのは情報だ。自分が誰で、ここがどこで、どこに行けば寝られて、どうすれば車を触れるのか。順番としては身元確認、宿、食事、仕事、車。いや、食事はもう済ませたから宿か。車を先にしたい気持ちはあるけれど、転生初日に野宿は避けたい。せっかく頑丈な身体を手に入れたのに、いきなり風邪をひくのは間抜けすぎる。


 街角の看板に、見慣れない文字が並んでいた。


 読める。


 不思議なことに読める。文字の形は前世のどの言語とも違うのに、意味が頭に入ってくる。これはありがたい。異世界転生特典というやつだろうか。チート能力が言語理解だけだと地味に見えるが、実生活では最強クラスである。車の整備書が読めない世界など地獄だ。


 看板には「ラグナート中央街道区」と書かれていた。


 ラグナート。


 ここの街の名前らしい。


 さらに歩くと、都市の全体案内板があった。中央市街区、工業区、街道区、東門、西門、車両停泊場、機関整備組合、ハンターギルド、商会取引所。俺はその中の一つに目を留めた。


 旧西機関廃棄区。


 括弧書きで、通称・廃鉄区。


 名前だけで、油と鉄の匂いがする。


 行くしかない。


 宿のことを考えていた理性が、そこで静かに工具箱の奥へ押し込まれた。仕方ない。自動車整備士が、異世界の工業都市で、廃鉄区などという場所の名前を見て素通りできるはずがない。ラーメン好きの前に名店の暖簾が出ているようなものだ。釣り好きの前に朝まずめの湖が広がっているようなものだ。抗う方が不自然だ。


 案内板に従い、西へ向かった。


 進むにつれて街の空気が変わっていく。商店や宿屋の多かった通りから、工房や倉庫が増え、建物の壁は煤け、地面には鉄粉と油染みが目立つようになった。道端には部品箱が積まれ、作業服の職人たちが忙しそうに行き交っている。大きな扉の奥では、赤く熱された金属を叩く音が響き、別の工房からは低い唸りを上げる魔導機関が運び出されていた。


 俺は楽しくなってきた。


 異世界に来た不安はある。前世を失った寂しさもある。自分の身体の事情も分からない。黒狼とかいう物騒な呼び名もある。普通なら頭を抱える場面だろう。ところが目の前に工房があり、知らない機械があり、車輪があり、回転軸があり、工具を持った職人がいるだけで、俺の心は勝手に前へ進もうとする。人間の性根というのは、死んでもあまり変わらないらしい。


 やがて、道の先に巨大な鉄門が見えた。


 門と言っても、城門のような立派なものではない。太い鉄骨を組み、錆びた板を継ぎ合わせ、上部に歯車の装飾を取りつけた、無骨な境界線だった。門の向こうには、廃棄された魔導機関や車両の残骸が山のように積まれている。蒸気が白く漂い、魔石灯が薄暗い通りを青く照らし、どこかで誰かが大声で値段交渉をしていた。


 看板には、こう書かれていた。


『旧西機関廃棄区。無許可解体、魔石抜き取り、違法炉心売買を禁ず。命が惜しければヘルメットを被れ』


 最後だけ妙に現場感が強い。


 俺は思わず笑った。


 ここだ。


 前世で見たかった夢とは形が違う。日本中を走るはずだった車は、もう店の片隅にない。俺の店も、工具も、作りかけのキャンピングカーも、あちらの世界に置いてきた。取り戻せないものはある。戻れない場所もある。後悔も未練も、きっと消えない。


 それでも、目の前には知らない街がある。


 知らない機械がある。


 知らない道がある。


 そして、この世界にも車がある。


 俺は錆びた鉄門を見上げ、ゆっくり息を吸った。油と鉄と蒸気の匂いが肺に入る。病室では味わえなかった匂いだ。生きている匂いで、働いている匂いで、何かを作ろうとしている匂いだった。


「さて」


 俺は自分の手を開き、傷だらけの指を握り込んだ。


「まずは、走れる車を探すか」


 死んだはずの整備士、片桐修司。


 異世界での名は、どうやらガルド。


 元の身体は凄腕ハンターらしいけれど、そんなことは今のところ、わりとどうでもいい。


 俺が欲しいのは剣でも名声でもなく、エンジンと車輪と寝床と調理台、ついでに雨漏りしない屋根である。


 こうして俺の二度目の人生は、英雄の凱旋でも、神託でも、王女様との運命的な出会いでもなく、ラグナートの廃鉄区の入り口で、中古車探しから始まった。


 うん。


 我ながら、実に俺らしい。


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