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深海勲章  作者: 伊阪証


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第一部「ノーティス・ノーチラス」前編

TRPG第三弾です。

第一弾「届かねばならぬ場所」

第二弾「諸国民の神」

に続けて…って思ったんですけど今作はホラー重視、ホラーゲーム制作の為のジャンプスケア禁止を頑張って鍛えてます。

控えてる第四弾がクトゥルフ飯なのはどうにかすべきかもしれない。


プレイヤー二人が意地でも進めない為に私のシナリオ妨害して長くしてるとこを想像しながら読んだら気が楽になります。空白含まない字数66686字らしいよこの一話。

人類は長らく、救いを「上」に求めてきた。 天国は雲の彼方にあり、魂は死と共に高く昇るものだと信じて疑わなかった。 だが、それは広大な虚無に目を眩まされた、哀れな地上の迷信に過ぎない。 いや、本能的に逃げていたのだ。真実の空は、地の底にある。遍く星々が散らばる外宇宙が「剥製」であるならば、この星の深淵こそが、熱を帯びた「中心」だ。 人は天国へ近づくために、死骸を地に埋めるのではない。 中心という名の空へ、その魂を届かせるために送り込むのだ。植えるのだ。今、君たちは深海という名の境界線に立っている。 潜水艦ノーチラス号のハッチは、既に水圧と、それ以上の食物連鎖という摂理によって閉ざされた。窓の外を見よ。 そこにあるのは暗黒の海水ではない。 重力に押し潰され、歪み、それでもなお輝きを放つ、もう一つの宇宙だ。ここでは、死は救済ではない。 意識は肉体という檻に留まり、腐敗することさえ許されず、ただそこに在るという事実だけを保存される。 君たちの英雄、ネモ船長もまた、その沈黙の先駆者となった。この旅の終わりに待つのは、名誉か、それとも告発か。 君たちの胸に刻まれるのは、生還の証か、それとも永遠の沈黙か。それは、世界の中心を目撃した者にのみ許される、最も重い呪いだ。

「深海勲章」第一部 はじまりはじまり 第一話


金属の天板に、缶詰の脂が薄く広がっていた。スプーンを引くたびに、油膜がずれて灯りを歪める。誰かが缶切りを回し、刃が縁を削る音が狭い食堂に残った。

温め直した煮込みの匂いは、船の中の匂いと混ざる。消毒薬と機械油と、乾いた布の埃。湯気が立つと、その上に人の息が重なる。空調は一定のはずなのに、喉が妙に乾いた。

観測窓は、壁というより穴だった。厚い透明板の向こうに、暗さが詰まっている。外灯が細い円錐を作り、その先で水が微細な粒となって舞う。黒の中に、白い粉を散らしたような浮遊物が流れていく。

誰かが箸を止めた。

光の中を横切った影が、魚の速さではなかった。滑るでも泳ぐでもなく、押し出されるように移る。次の瞬間、闇が割れ、長い腕が伸びた。吸盤の列が灯りを掠め、白い点として並ぶ。

その腕に、別の影が絡みついた。

巨体が、窓の外を満たした。頭の形がわずかに前へ張り出し、背がうねる。尾が一度だけ振られ、周囲の浮遊物が巻き上がる。ここでは音が届かないはずなのに、ノーチラス号の床が低く鳴った。骨の奥に、重い振動だけが残る。

スプーンが皿に落ちた。小さな金属音が、外の巨大さに飲まれずに残ったのが不自然だった。

「……見えるか」

声は低い。恐怖を隠したい低さではなく、単に体温が落ちている低さだった。問いに答えたのは、窓に最も近い席の者だ。唇を動かしたのに、言葉の前に一拍だけ空気が止まった。

「見えてる。あれは、イカだ」

白い吸盤が、今度ははっきりと観測窓の光を掴んだ。腕が絡み、ほどけ、また絡む。巻きつく力の方向が変わるたびに、巨大な影の形が一瞬だけ違う生き物に見える。短い間隔で、外灯の光が遮られる。闇と光が交互に落ち、食堂の人間の顔も、同じ間隔で陰になる。

誰かが笑いそうになって、途中で止めた。喉の奥がひきつれた音だけが漏れた。

「やめろ」

叱る声ではない。止めないと自分の呼吸が壊れる声だった。

外で、影が反転した。尾が大きく振られ、イカの腕が引きちぎられるように伸びる。伸びた腕の先が、灯りの中で一度だけ明るくなった。吸盤が外灯に照らされ、ぬらりと光る。そこに、別の腕が重なった。絡み合いは一瞬でほどけ、代わりに太い胴体が沈み込む。

床が、もう一度鳴った。今度は食堂の椅子がわずかに擦れた。誰かが体重を移したのだろう。そう思った瞬間、椅子の脚が自分の足元でほんの僅かに震えているのに気づく。船全体が震えている。椅子のせいではない。

「昨日も、こんな揺れだったか」

問いが投げられ、返事が遅れた。返事をする者は、匙で缶詰の底をこそげる手を止めずに言った。

「昨日は静かだった。潜航してから、ずっと」

「違う。昨日は、外灯を点けてない」

言ったのは同じ人物だった。言い終わってから、自分の言葉に眉が動く。自分の口が勝手に順序を入れ替えたような顔だった。隣の者が、視線だけを動かした。指摘はしない。指摘する方が、その場の空気を壊すと知っている顔だった。

観測窓の外で、マッコウクジラが頭を振った。イカの腕が、光から外れて闇へ消える。消えた腕が二本、三本と続く。消えるたびに、闇の縁で白い泡のようなものが散った。泡ではない。何かが裂けたときに出る小さな光だ。

いちど決着がついたように見えた。イカの胴が、長い腕ごと沈んでいく。沈む速度は遅い。落ちるというより、引かれている。引いているのが重力か、水の流れかはわからない。見えているのは影と光だけだ。

食堂に戻るべき時間だった。誰かが缶詰の蓋を重ね、皿を寄せた。スプーンを握り直した手が、無意味に同じ場所を二度こすった。動かしていないと、息が詰まるから動かしただけの動きだった。

「勝ったのは、あっちか」

勝ったという言葉が、ここでは軽すぎた。窓の外の巨大さに対して、語彙が薄い。薄い語彙のままでも、口に出さずにはいられない。

マッコウクジラが、闇の方へ向きを変えた。外灯の円錐から外れかけ、影の輪郭が溶ける。いつもの深海に戻るはずだった。

戻らなかった。

頭が、途中で止まる。尾も止まる。巨体が水の中で静止したまま、ゆっくりと方向だけを変えた。観測窓の正面に、顔が向いた。

灯りがその頭部をなぞる。皮膚の白い斑点が、まるで古い傷跡のように浮く。そこから、外灯が届かない闇へ視線が伸びているように見える。視線などないのに、見られている感覚が先に来る。

次の瞬間、船の中に音が入った。

水の音ではない。機械の音でもない。床から、壁から、天板から、短い連続の打撃が響く。細かく、硬い。金属に骨で叩きつけたような音だ。マッコウクジラが発したはずのものが、船体を介して内側へ伝わってくる。

缶詰の汁が、皿の縁で波を打った。わずかに揺れた液面が、灯りを歪める。

誰かが、椅子を引いた。足の裏が床を探し、いったん踏みしめてから、また位置を変えた。立ち上がる動作の途中で止まり、観測窓から目を離せない。

外で、巨体が近づいてくる。距離の変化が、影の大きさでわかる。ゆっくりなのに確実だ。外灯の中に入ってきた頭が、観測窓の前で止まった。

透明板の向こうに、闇ではなく、皮膚がある。目の位置がはっきりしない。だから余計に、どこで見られているのかわからない。

打撃がもう一度、近くで響いた。今度は観測窓の枠が、手のひらの中で震えるほどだった。皿が鳴り、スプーンが跳ねた。

食堂の誰も、次の一口を飲み込めなかった。湯気だけが、冷めていく速度を見せていた。


椅子の脚が床を擦った音が、やけに大きく響いた。金属の枠がまだ震えている。観測窓の前で止まった巨体は、外灯の光に照らされても輪郭が曖昧なままだった。皮膚の斑点だけが、そこに物体があることを主張する。

誰かが呼吸を整えようとして、吸い込む量を間違えた。咳が出る前に喉を押さえ、唾を飲み込む。飲み込めたのは唾だけで、湯気は冷めた匂いに変わっていく。

「離れないな」

言った者は立ち上がらなかった。立てば足が取られると知っている動きだった。代わりに、机の縁に指を置き、震えの残りを確かめる。指先の感覚が遅れて戻ってくる。

短い連続の打撃が、もう一度入った。

今度は一回で終わらない。窓枠から食堂の壁、床の骨組みへと揺れが走る。皿が震え、缶詰の汁が縁を越えそうになって戻る。水の中の音は聞こえないはずなのに、船体が鳴っている。内側の金属が、外側から叩かれている。

「点検」

誰かが言い、席を押した。椅子が後ろへ跳ね、倒れそうになって止まる。立った者は観測窓を見たまま背中で方向を探し、扉の位置にぶつかる寸前で身を捩って抜けた。動きは慎重なのに、焦りの速度が混ざっている。

食堂を出ると、廊下の空気は冷たかった。冷たいというより、温度が均一で、体温だけが浮いている。足音が反射し、天井の低さを思い出させる。誰かが後ろで扉を閉めたとき、ラッチが噛む音が小さく、そこで初めて「閉じる」という行為が不自然に感じられた。

打撃は廊下でも続いていた。音の方向が分からない。前から来る気もするし、背中から来る気もする。壁の中で鳴っているようにも、床の下で鳴っているようにも聞こえる。

管制区画に近い通路で、計器のある壁面に手を当てた者がいた。掌に伝わる振動は、規則的ではない。間隔が揺れる。一定の力ではなく、触れて確かめているような力だ。

「外だ」

言い切った声があった。言い切った直後、言った本人が瞬きを一度だけ増やした。確信というより、確信したい顔だった。

別の者が頷く前に、通信の端末を叩いた。応答はない。叩き方だけが荒くなる。叩けば通じるものではないと分かっているはずなのに、手がそれを求める。

「外に出る」

そう口にした者がいて、すぐに誰かが首を振った。首の動きは小さいのに、否定の幅は大きい。

ハッチのある区画へ向かう足音が増えた。廊下の途中で立ち止まり、互いの位置を譲り合うように見えて、実際は誰も先頭に立ちたくないだけだった。先頭に立てば、最初に外を想像することになる。

ハッチの前に着くと、手摺が濡れていた。濡れているというより、冷えている金属に指が触れたときの湿り気だった。触れた者は指を引き、見た。指先に何も付いていない。それでも拭う動作だけが残る。

操作盤の灯りはついている。ロック表示は赤いままだった。解除の手順を踏んでも、表示が変わらない。解除の音もない。油圧の反応もない。ボタンを押した指だけが白くなる。

「手動は」

工具が出された。手動解放のレバーに手を掛けた瞬間、レバーが動かないことが分かった。力を入れていないのに、動かない。力を入れても、動かない。動かないことに対して、筋肉が余計に力を出し始める。肩が上がる。息が漏れる。汗が出る。

レバーの根元を見た者が、目を細めた。

「歪んでる」

歪みはわずかだった。だが、わずかで足りる。金属は余裕を持って噛み合っていない。余裕がないところに歪みが入れば、動くものが動かなくなる。

「水圧で押さえつけられてるだけだろ」

反論のように出た声は、慰めに近かった。慰める対象は他人ではない。自分の喉の奥だった。言った者の目が、表示灯の赤を見ているのに焦点が合っていない。

打撃が、ここで近くなる。

ハッチの向こう、外側からではない。ハッチの周囲の壁、船体の曲面のどこかを叩く音だ。音が移動する。一定の速度で、横へ滑っていく。叩いているのがマッコウクジラの頭なら、こんな動きはしない。頭は点で当たる。これは線で擦っている。

誰かが壁面の温度計に目をやった。温度は変わっていない。圧力の表示も大きくは動かない。計器は平常を示している。平常が、今の状況を説明しない。

「食物連鎖だって言ったな」

低い声が背後からした。食堂で言葉を発していた者とは違う声だった。言った本人も、言葉が出たことに驚いているように口を閉じる。空気が動くのが嫌で、唇を動かしたくないのに動かしてしまう。

打撃が止まった。

止まった瞬間の方が怖かった。音がないのではない。音があるはずの場所が、空白になった。空白が、耳と皮膚に張り付く。

誰かが観測窓の方角を見た。見てもここからは見えない。それでも目が向く。目が向いたまま、背筋が固まる。

天井の配管から、細い音が落ちた。ぽとり、と金属に触れて弾ける音。水ではない。結露でもない。音が軽すぎる。落ちたものが何かを確かめようとして、皆が同時に視線を床へ落とした。

床に、濡れた跡が一つあった。

靴跡の形ではない。丸く、指で押したように、浅く広がっている。さっきまで誰もそこに立っていなかったはずの位置だ。見ているうちに、その丸が少しだけ伸びた。流れてはいない。広がっている。

誰かが息を吸い、吐く前に止めた。

「戻るぞ」

そう言った者がいた。命令の形だったが、命令する余裕は声にない。声が出たこと自体が、もう限界の合図だった。

廊下へ引き返す背中が増える。足音が重なり、金属の反響が増える。増えた音の中に、さっき止まったはずの打撃が混じった気がした。誰も振り返らない。振り返れば、そこに何かがいると決めてしまう。

食堂の扉が見えたとき、観測窓の外灯が一瞬だけ揺らいだ。

揺らいだのは灯りではない。灯りを遮るものが、もう一度、外から近づいたのだ。


扉を開けた瞬間、食堂の匂いが戻ってきた。温め直した煮込みは冷え、脂の甘い匂いが金属の壁に張り付いている。湯気が消えた分だけ、消毒薬と機械油が前に出ていた。

観測窓の前に、椅子が一つ増えていた。

増えている、と目が言った。だが、増えていない、と同時に頭が言った。さっき椅子を蹴った者の椅子が倒れかけて止まっている。あれが動いたから、配置がずれた。ずれただけだ。ずれただけなら、数は変わらない。

視線が机の上へ落ちる。

皿が一枚、机の端に寄っている。さっきまで中央にあったはずの皿だ。寄せた覚えは誰にもない。寄せた動きがあれば、椅子が擦れる音が出る。音は出ていない。音は、さっき止まった。

誰も口を開かなかった。言えばそれが固定される。固定されれば、次の瞬間に違う形で裏切られる気がした。

観測窓の外は暗かった。外灯の円錐が揺れている。揺れているように見えるだけで、実際は光の中を微細な粒が流れている。粒の流れ方が一定ではない。巻き込まれている。

外側に、まだ何かがいる。

マッコウクジラの斑点は見えない。あの巨体は消えた。消えたのに、暗さが戻っていない。暗さの密度が違う。闇が濃くなったように見えるのは、そこに闇より黒いものが重なっているからだ。

「……座れ」

誰かが言った。命令の形を借りた提案だった。立っていると、足が浮く。浮くと、音が増える。音が増えると、自分がここにいることが強調される。強調されたくないのに、体がそれを選ぶ。

椅子に触れた手が、一瞬だけ止まった。

冷たい。冷たいのは当然だ。金属は冷たい。だが、冷たいのに、どこか湿っている。湿っているのに、指には何もつかない。何もつかないから、湿っていないと結論を出したくなる。結論を出す前に、指が勝手に拭う動きをした。

机の上の缶詰の蓋が、わずかにずれていた。刃で切った縁が立っている。誰かが触れば切れる。触っていないのに、ずれている。ずれた理由を探すと、目が過去を探し始める。過去を探し始めると、今が崩れる。

誰かが匙を握り、動かすふりをした。音だけが欲しかったのかもしれない。匙は皿に触れ、金属音が出た。その音が出た瞬間、全員が同じ方向へ視線を動かした。音に反応したのではない。音が、ここで起きていい音かどうかを確かめた。

窓の外灯が、ひと呼吸ぶん、暗くなった。

影が通ったのではない。影が、そこに留まった。留まる影は、泳いでいない。漂っているでもない。貼り付いている。

観測窓の透明板の向こうに、薄い膜のようなものが見えた。水の膜ではない。外灯の光を撫でるように反射し、反射が遅れて動く。生物の皮膚のようでもあり、布のようでもある。輪郭が掴めないのに、存在だけが強い。

誰かが呼吸をした。息がガラスに当たって曇る距離ではない。それでも、曇りが目に浮かんだ。目が勝手に、窓の内側に曇りを置いた。曇りはなかった。

「外……」

声が出かけて止まった。止まったのは、声を出すと何かが返事をする気がしたからだ。

食堂の奥、配膳棚の陰で、紙が擦れる音がした。

誰もそこを触っていない。誰もそこに行っていない。音は小さいのに、確実に近い。機械の音ではない。人の動きに近い音だ。だが、人が動くなら、足音が出る。足音は出ていない。

視線だけが、棚の方へ集まる。

棚の下段に置かれたノートが、開いていた。さっきは閉じていたはずだ。閉じていた、と言い切るほど、さっきそこを見ていない。見ていないのに、閉じていたはずだと思う。思う理由がないのに、そう思う。そう思うこと自体が、ここで一番危険だった。

立ち上がった者がいた。椅子の脚が床を擦り、音が出た。その音が出た途端、窓の外の膜が、ほんの少しだけ動いた。反応に見えた。反応に見えた瞬間、立ち上がった者の足が止まった。

「戻れ」

別の者が言った。戻れと言ったのは、棚へ向かう足に対してではない。立ち上がったという行為に対してだ。行為が増えるほど、外が近づく。

棚の近くにいた者が、代わりに手だけ伸ばした。手が伸び、指がノートの端を掴む。掴んだ瞬間、指の関節が固まった。固まったのは痛みではない。紙の感触が、紙ではなかった。

「……濡れてる」

言い終わってから、言った本人が自分の指を見た。濡れていない。濡れていないのに、濡れてると言った。濡れてると言ったことは、濡れている感覚があったということだ。感覚があるなら、原因があるはずだ。原因を探せば、答えが出る。答えが出たら、もう戻れない。

窓の外で、外灯の光がさらに削れた。

膜の向こうから、細い線が一本、こちらへ伸びた。腕ではない。触手でもない。線だ。線が伸び、透明板の表面に触れた。触れた瞬間、音がした。

きい、と短い音。

船体を叩く打撃ではない。擦る音でもない。薄い硬さが、きしむ音。透明板そのものが、押されている。押されているという事実が、音として入ってくる。

誰かの喉が鳴った。飲み込めていないのに、飲み込む動きだけが出る。

ノートを掴んだ手が、震えながらページを一枚だけめくった。めくったのではない。ページが勝手に浮いて、指の動きに合わせて落ちただけだ。

そこに書かれていた時刻を見て、皆が黙った。

現在の時刻だった。

現在の時刻で、しかも、秒まで一致していた。書いたのは誰か。いつ書いたのか。今ここで書いたなら、筆記音が出る。出ていない。出ていないのに、書かれている。

窓が、もう一度、きい、と鳴った。

今度は少し長い。音の終わりが、食堂の壁に吸われる前に、床の下へ落ちていく。透明板の向こうの線が、もう一本増えた。増えた線が、最初の線と同じ場所をなぞるように動く。なぞる動きが、測っている動きに見えた。

誰かが口を開いた。声を出す前に、舌が乾いて張り付く。

その瞬間、食堂の奥の扉が、内側から叩かれた。叩いたのは一度だけ。助けを求める叩き方ではない。合図の叩き方だった。

扉の向こうにいるはずの人間を、誰も配置していない。

それでも叩かれた。叩かれた音は、確かに近かった。


叩かれた音が消えたあとも、扉の板だけがその場に残っているように見えた。耳が遅れて追いつく。叩かれたのは確かに一度きりで、力の加減が一定だった。助けを求める荒さではなく、誰かが「そこにいる」と知らせるための軽さだった。

誰も動かなかった。観測窓の外では、薄い線が透明板をなぞっている。きい、と音がするたびに、食堂の空気が一段ずつ締まっていく。机の上のノートは開いたままで、秒の一致が視界の端に刺さり続けている。扉はその刺さったものに、別方向から手を添えるみたいに叩かれた。

「今の、聞いたな」

声が出た瞬間、言った本人がしまったという顔をした。言葉は空気を揺らす。揺らせば、外の線が反応するように動く気がしてしまう。だが誰かが答えないと、その場が崩れる。

「聞いた」

返事は短く、喉の奥で削ったような音だった。椅子から半分だけ腰を浮かせた者が、足を引いた。立ち上がり切らない。立ち上がり切ると、扉の前へ行かなければならない。

叩かれた扉は、食堂の奥の通路へ繋がる補助扉だった。普段は物資棚と配膳棚の間を抜けるための扉で、誰かが入っていることを確認する必要がない種類のものだ。だからこそ、叩かれた。入っているはずがない場所から、叩かれた。

「誰が、あっちにいる」

問いは問いの形をしていたが、答えを求めていなかった。答えが出れば、その人物が確定してしまう。確定すれば、次に起きることも確定する。

窓が、またきい、と鳴った。外灯の光が削れ、透明板の向こうの線が三本目になる。なぞる場所が少しずつずれていく。測るという動きが、測り終える方向へ進んでいる。

叩かれた扉の取っ手が、ほんの僅かに動いた。

動いたのは見間違いかもしれない。取っ手は金属で、照明の反射で角度が変わっただけかもしれない。そう思った瞬間、取っ手がもう一度、今度は確実に沈んだ。内側から押した力ではなく、回した力だった。回すなら人間の手だ。だが回すなら、次に開くはずだ。開くなら、扉の向こうに空気の動きが入る。空気が動く前に、誰かが息を止める音がした。

「……鍵は」

誰かが言い、言い終わる前に自分で首を横に振った。鍵はかけていない。鍵をかけた記憶がない。記憶がないことが、今は頼りにならない。

もう一度、叩かれた。一度だけ。間隔は先ほどと同じだった。扉板の中心ではなく、取っ手に近い位置。合図の叩き方が、次は「開けろ」に寄っている。

立ち上がった者がいた。今度は止まらない。足音が一歩、床に落ちる。次の一歩の前に、背後から手が伸びて肩を掴んだ。掴んだ手が強いのではない。掴まないと自分が倒れるから掴んだ力だった。

「近づくな。まず、確認」

確認という言葉の後に続くはずの手順が出てこない。手順を口にすると、手順が破れる。破れれば、誰が責任を取るかが決まる。責任を取る役割は、ここでは皆が嫌っている。

棚の上から工具が一つ取られた。食堂の道具というより、整備用に紛れ込んだ金属の棒だった。握った手の皮膚が白くなる。握る強さで、自分の心拍を抑えようとしている。

窓の外の線が止まった。止まったのは動きではなく、擦る音だけだった。きい、が消える。消えた瞬間、透明板の向こうの闇が一段近づく。

扉へ向かった者が取っ手に手をかけた。触れた瞬間、指が一度だけ引きつった。冷たい。冷たいのは当然だ。だがその冷たさが、外の海の冷たさに近すぎる。船内の金属の冷たさではない。

「開ける」

言ってしまったあと、口が乾いた。言わなければよかったという顔になる前に、取っ手が回された。軋みが出る。扉板が少しだけ内側へ動き、食堂の空気が奥へ吸われる。

隙間の向こうは暗かった。照明が落ちている。落ちているのではなく、最初から点いていない暗さだ。暗さの中に、何かの形が立っている。

その形が一歩、光の縁へ出た。

制服の上着。首元のボタン。髪の乱れ。そこまで見えて、やっと人間の輪郭になる。人間の輪郭になった瞬間に、背筋が拒否した。拒否したのは姿ではない。姿の中身に対してだ。

「遅いな」

声は普通だった。普通の声が、ここでは異物だった。呼吸が荒れていない。汗もない。何より、視線が観測窓へ向いていない。さっきまで食堂の全員が、窓から目を離せなかったのに、その人物だけは窓を見ない。

「外、静かだぞ」

その言葉が落ちた瞬間、食堂の誰かの手からスプーンが滑った。金属が皿を叩く音が、やけに鋭い。窓の外で静かではありえないものを見たばかりなのに、静かだと言った。嘘か、勘違いか、記憶の断絶か。どれでも嫌だった。

その人物の袖口が、ほんの少しだけ濡れていた。水の色ではない。光を吸う濡れ方だった。本人はそれを気にする素振りもなく、食堂の机の上のノートへ視線を落とした。落としたのは一瞬で、すぐに誰かの顔へ戻った。

「……それ、誰が開けた」

ノートを指さしたわけでもない。指は動いていない。視線だけで、開いている事実を拾い上げた言い方だった。拾い上げ方が、さっきまでの誰の拾い上げ方とも違う。必要なものを必要な速度で拾う拾い方だった。

観測窓が、音もなく、わずかに沈んだ。きい、ではない。音がない沈みが、透明板の向こうの線の代わりに、食堂の空気を圧してくる。

扉の向こうから来た人物が、食堂の中へもう半歩入ろうとした。入ってきた足の裏が床に触れる前に、誰かが棒を持つ手を少しだけ上げた。上げたのは威嚇ではない。自分が崩れないための姿勢だった。

その人物は、足を止めたまま首を傾げた。表情は柔らかい。柔らかいのに、そこに理由がない。

「どうした」

問いが落ちた瞬間、食堂の奥の補助扉が、今度は内側からではなく、外側から叩かれた。叩かれた位置が同じだった。同じ合図の叩き方だった。さっき開けた扉が、閉まっていないのに、叩かれた。扉の向こうに、もう一つの「そこにいる」が重なった。


叩かれた音は一度で止まらなかった。二度目が来ないまま、音の余韻だけが扉板に残る。叩いた場所が同じだから、音の立ち上がりも同じになる。似ているのではなく、同じだった。

扉の隙間から見える廊下は暗い。暗いのに、さっき立っていたはずの影がある。影の中身は、食堂の中にいる。食堂の中にいるのに、影だけが廊下に残っているように見える。目が勝手に残像を作ったのか、暗さが勝手に輪郭を作ったのか分からない。

食堂に入ってきた人物が、叩かれた音へ顔を向けた。首の動きはゆっくりで、視線の切り替えに迷いがない。迷いがないことが妙だった。

「誰かいるのか」

その声が廊下へ落ちた瞬間、観測窓の向こうで、薄い膜が一度だけ波打った。波打ったのは水の流れではない。透明板に貼り付いた線が、ひとつだけずれていく。ずれたあと、きい、という音は鳴らない。鳴らないのに、板の角がわずかに沈む。

食堂の机の端に置かれた皿が、震えの残りで一度だけ鳴った。匙が皿の縁に当たり、細い金属音が伸びて壁に吸われる。

「動くな」

棒を持つ手が、さらに少しだけ上がった。刃のある道具ではない。だが、そこに金属があるだけで空気が変わる。上げた者は構えたのではなく、上げざるを得ない角度に肘が決まっただけだった。

食堂に入ってきた人物は、棒を見ない。棒を見ずに、棒を持つ手首だけを見る。手首の脈が早いかどうかを見ている目だった。見られた側が息を止め、止めた息が肩に残る。

「俺だ」

名乗りが落ちた。名乗りの言い方が軽い。軽いのに、その軽さで相手を落ち着かせようとしていない。自分が正しい位置にいると信じている軽さだった。

叩かれた音が、もう一度来た。

今度は扉板ではなく、扉枠のさらに外側、廊下の奥から響いた。近い。近いのに距離感が掴めない。反響が多すぎる。金属の箱の中で鳴る音は、方向の情報を削ってしまう。

食堂にいる者の誰かが、廊下へ向けて声を出しかけた。出しかけた声が喉の奥で止まる。止めたのは恐怖ではない。声を出すと、返事が二つ返ってくる予感が先に立ったからだ。

「……こっちにいるのは誰だ」

棒を持つ者ではなく、別の者が言った。言った直後に唇を噛み、言葉が空気に残るのを嫌がる動きをする。嫌がっても遅い。言葉は残ってしまう。

食堂に入ってきた人物が、躊躇なく答えた。

「さっきまで、外灯の調整を見てた」

「外灯はさっき、揺れた」

「だから見てた」

返答が噛み合う。噛み合うのに、噛み合い方が早すぎる。質問が出た瞬間に答えの形が出来ている。記憶を探る間がない。

廊下の奥から、今度は声が返ってきた。

「誰だ、そこ」

声は食堂にいる者の声ではない。だが、食堂にいる者が知っている声だった。名前を呼べる声だった。だからこそ、誰も名前を呼ばない。呼べば、二つの声のどちらかがその名前で成立してしまう。

食堂に入ってきた人物が、扉の隙間へ半歩近づいた。足が床に触れる直前で止まる。止まったのは棒のためではない。廊下の奥の声のためだった。止まった瞬間、廊下の暗さが少しだけ濃くなる。照明が変わったわけではない。目が絞った。

「おい」

食堂に入ってきた人物が呼びかけた。廊下の奥へ向けた声なのに、食堂の中へ落ちたように聞こえる。声の角が硬い。さっきまでの普通が消える。

廊下の奥の声が返す。

「おい、こっちだ」

返事の間隔が短い。短いのに、焦りがない。焦りがないのに、音が多い。足音がひとつ鳴り、その足音が途中で止まる。止まった場所が見えないのに、止まったと分かるのは床の反響が変わったからだ。

食堂の中で、誰かがノートに目を落とした。秒の数字が、まだ動いていない。動いていないのではなく、書かれた数字は固定されている。固定された現在が机の上に置かれている。

観測窓が、また沈んだ。今度はほんの僅かに長い。沈んだ分、透明板の表面に細い白い筋が走る。筋は割れではない。外からなぞられた跡だ。跡が増えるたびに、食堂の空気が薄くなる気がする。

「閉めろ」

誰かが言い、扉へ手が伸びた。伸びた手が、取っ手に触れる前に止まる。扉を閉めれば、廊下の奥の声を閉じ込める。閉じ込めれば、次に扉が叩かれる。叩かれれば、さっきと同じ合図がまた来る。

廊下の奥の足音が、もう一歩だけ近づいた。近づいたのに、その足音の上に別の足音が重なった気がした。重なったのは反響かもしれない。反響なら、耳が勝手に増やしただけだ。

食堂に入ってきた人物が、扉の隙間へ顔を寄せた。寄せた瞬間、袖口の濡れが光を吸い、黒く見えた。濡れは水ではない。水なら、こんな色にはならない。

「今、誰が一人で動いてる」

棒を持つ者が言った。問いは食堂に入ってきた人物へ向けている。だが、廊下の奥へも向いている。答えがどちらから返ってきても、答えが成立してしまう問いだった。

食堂に入ってきた人物が口を開いた。

同時に、廊下の奥の声も口を開いた。

二つの声が重なり、言葉の頭だけが同じ形で落ちた。続きは重ならない。重ならないのに、どちらも同じ言葉に聞こえる。聞こえるのは耳が壊れたからではない。金属の箱が、音の違いを削ってしまう。

観測窓の外で、薄い線がまた一本増えた。増えた線が、今度は透明板の中央をなぞり始める。なぞる速度が少しだけ早い。

食堂の誰も、次に動くべき足を決められなかった。


二つの声が重なった瞬間、空気が一度だけ薄くなった。薄くなったのは酸素ではない。耳が言葉の輪郭を掴めずに、呼吸の方へ逃げただけだ。

重なった頭の音がほどける。

「俺は――」

食堂に入ってきた人物の声。

「俺は――」

廊下の奥の声。

同じ始まり方だった。言葉の続きだけが違うのに、続きもどこかで似ているように聞こえる。金属の箱が音を混ぜるのではない。混ぜられた方が、勝手に同じ意味を探しにいく。

棒を持つ手が、少しだけ震えた。震えを止めるために、握りが強くなる。握りが強くなると、手首の筋が浮く。その筋を、食堂に入ってきた人物が見ていた。

「落ち着け」

その人物が言った。落ち着けと言う声の高さは普通だった。普通なのに、言葉の選び方だけが慣れている。慣れているというより、言えばそうなると知っている言い方だった。

廊下の奥の声が、同じ言葉を返した。

「落ち着け」

同じ高さ。同じ間。言い終わりの息の抜け方まで似ていた。似ているのに、二つある。

扉の隙間の暗さが、動いた。

暗さの中で、影が一歩ぶんだけ近づく。近づいたのに、足音が遅れる。足音が遅れて、床の反響だけが先に変わる。変わった反響が、影の距離を教える。

食堂の中の誰かが、机の上の皿を無意味に寄せた。寄せたのは手の置き場が欲しかったからだ。皿の底が金属の天板を擦り、短い音が出る。出た音に、窓の外の線が一瞬だけ止まった気がした。

止まった気がした、と思った瞬間、観測窓がきしんだ。

きい、ではない。もっと低い。板の端が押される音。透明板の向こうで、薄い線が中央をなぞる速度が上がる。なぞる速度が上がると、食堂の中の誰かの心拍も上がる。上がった心拍が喉に触れ、唾が出ない。

「閉める」

扉に手を伸ばした者が言った。言った声が掠れた。掠れたのは乾きのせいだ。

食堂に入ってきた人物が、扉の前へ半歩だけ出た。扉を閉める手の前に、体が入る。遮るつもりの動きに見えた。だが遮るなら、視線が手へ行くはずだ。視線は廊下の奥の暗さへ向いたままだ。

「開けるな」

廊下の奥の声が言った。命令ではない。怒鳴りでもない。静かで、静かすぎた。

「閉めるな」

食堂に入ってきた人物が言った。こちらも同じ静かさだった。

二つの静かさが並ぶと、どちらも同じ人物の口から出ているように錯覚する。錯覚した瞬間、背中が冷える。冷えた背中に汗が出る。汗が出るのに、空気は乾いている。

棒を持つ者が、扉の隙間へ向けて棒の先をほんの僅かに動かした。威嚇ではない。距離を測る動きだった。棒の先が暗さに触れる前に、廊下の奥の影が止まる。

止まった影が、口を開いた。

「――お前、今どこだ」

問いは食堂の中へ向けたものだった。問いの言い方が、食堂に入ってきた人物のものと同じだった。だが声は廊下の奥から来る。

食堂に入ってきた人物が、返事をしなかった。返事をしないまま、机の上のノートへ一度だけ視線を落とした。秒の一致を見たのではない。紙の濡れを見た。濡れは増えていない。増えていないのに、濡れの色だけが濃くなっているように見える。

「……誰がそれを書いた」

廊下の奥の声が言った。ノートを見ていないのに、ノートの話をした。ノートの存在を知らないはずなのに、ノートの話をした。

その瞬間、食堂に入ってきた人物の袖口の濡れが、光を吸って黒く沈んだ。沈んだ黒が、袖口の皺の間へ広がる。水なら広がり方が違う。水なら、光を返す。

誰かが息を吸った。吸って、吐く前に止めた。

扉の隙間の暗さが、もう一歩ぶん動く。足音が今度はちゃんと鳴る。鳴った足音の靴底は、金属を叩く音ではなく、布が擦れる音に近い。潜水艦の廊下で鳴る音ではない。

食堂の中の空気が、微かに動いた。動いたのは扉のせいではない。窓の外の圧が変わった。変わったと感じたのは肌だ。肌が先に、押された。

観測窓の透明板の中央に、白い筋が一本、はっきりと残った。残った筋の端が、今度は内側へ向けて少しだけ膨らんだ。透明板が撓っている。撓っているのに割れない。割れないのに、撓るだけで十分だった。

机の上の缶詰の汁が、縁で一度だけ跳ねた。跳ねた汁が天板に落ち、薄く広がる。広がった油膜が、照明を歪める。歪んだ灯りの中で、食堂に入ってきた人物の顔が一瞬だけ別の角度に見えた。

棒を持つ者が、扉へ向けて一歩だけ踏み出した。

その一歩と同じタイミングで、廊下の奥の影も一歩踏み出した。

扉の隙間に、二つの足先が同時に見えた。靴の形が同じだった。靴の汚れ方も似ていた。

食堂の中の誰も、声を出せなかった。声を出せば、その同じが確定してしまう。

廊下の奥の声が、また言葉を置く。

「……お前、そこにいるのは誰だ」

問いは食堂に向けたものだった。問いを受けるはずの食堂に入ってきた人物は、視線だけを上げて、食堂の全員を順番に見た。順番に見たのに、誰とも目が合わない。合わないのに、見られている感覚だけが残る。

観測窓が、もう一度、低く鳴った。


低い鳴りが、観測窓の枠から床へ落ちた。音の出どころを辿ろうとした耳が、途中で諦める。どこから鳴っているのかを探す動きが、今は危険だった。

扉の隙間に並んだ二つの靴先は、同じ角度で止まっていた。止まっているのに、止まっていない気がする。廊下の暗さが、靴の周りだけ濃く揺れた。

棒を持つ者の腕が、僅かに下がった。下げたのではなく、肩が勝手に落ちた。呼吸をするための落ち方だった。息を吸えば音が出る。音が出れば、外が動く。そう思った瞬間、息は余計に荒くなる。

食堂に入ってきた人物が、ゆっくりと口を開いた。

「……通路の灯り、落ちてるだろ。誰か、点けに行った方がいい」

その言葉が、誰かの頭の中に「善意」の形で入る前に、廊下の奥の声が言った。

「点けるな」

二つの言葉が反対なのに、どちらも同じ調子だった。反対なのに、どちらも正しいみたいに聞こえる。正しいのが二つあると、正しさは意味を失う。

扉の隙間の暗さが、微かに前へ押した。靴先が一ミリだけ進む。進んだ瞬間、床の反響が変わる。通路の空気が、食堂へ入りたがっている。

「閉める」

扉へ手を伸ばした者が、今度は言葉だけで済ませずに動いた。指が取っ手に触れる。触れた瞬間、冷たさが掌の中へ刺さる。刺さった冷たさの方向が、海の方向だった。

取っ手が動く前に、食堂に入ってきた人物が、扉板の前へ肩を寄せた。寄せ方が自然だった。自然すぎた。ぶつかったわけでもないのに、最初からそこに立つべきだったみたいな位置取りだった。

「待て」

棒を持つ者が言った。言った声が、喉の奥で擦れた。擦れた音が出た途端、観測窓の透明板がもう一度、沈む。沈んだ分、白い筋が増える。筋の終点が、少しだけ内側へ膨らんで見えた。

誰かが机の端を掴んだ。机は動かない。動かないものを掴む動作だけが、身体の重心を戻す。

廊下の奥の声が、今度は低く言った。

「閉めたら、出られなくなる」

食堂に入ってきた人物も、同じ言葉を、同じ低さで言った。

「閉めたら、出られなくなる」

二つの声が重なると、言葉は一つに聞こえる。言葉が一つに聞こえた瞬間、誰かが小さく首を振った。首を振る動作が、身体の拒否だった。拒否の対象が扉なのか、声なのか、分からないまま。

机の上のノートが、ふっと揺れた。

揺れたのは風ではない。空調は一定のままだ。ページの角だけが浮き、ゆっくりと落ちる。指でめくったのではない。紙が勝手に息をしたような動きだった。

落ちたページに、また時刻が書かれていた。

今度は現在の時刻より少し先。数十秒先。数字の並びが、秒の進み方と同じ方向に揃っている。揃っているのに、まだその秒は来ていない。

数字の横に、短い言葉があった。

「開けるな」

書かれた文字の乾き具合が、古い紙の乾き方ではない。さっき書いたみたいな薄さだった。薄いのに、線がぶれない。手の震えがない線だった。

誰かがその文字を見て、息を吸った。吸った息が胸に残り、吐けない。吐けば音が出る。音が出れば、外が動く。だがもう、外は動いている。

観測窓の外で、薄い線が透明板の中央をなぞる速度がさらに上がった。なぞるのが速いほど、音は消える。消えるほど怖い。音がないということは、擦っていないということではない。擦っているのに、音が内側に届かない角度を見つけたということだった。

食堂に入ってきた人物が、ノートへ視線を落とした。落とした瞬間、眉が一度だけ動いた。驚きではなく、確認の動きだった。確認の動きが、見たことのある人間の動きと違っていた。

その人物の袖口の濡れが、また少し広がっていた。濡れが布の繊維に染み込むのではなく、表面に膜を作るように広がる。膜は光を返さない。光を吸って、黒く沈む。

廊下の隙間から、手が伸びた。

指先だけが見える。指先が、扉の縁を撫でる。撫でる動きが、外の観測窓の線と同じだった。測る動きだった。

「……触るな」

誰かが言った。言葉が出た瞬間、扉の縁を撫でていた指が止まる。止まった指が、ゆっくりと取っ手の方へ移動する。指の移動が、慣れている。

食堂に入ってきた人物が、扉の取っ手へ手を伸ばした。伸ばしたのは取っ手ではない。扉を閉めようとする手首の方だった。手首を掴むように伸ばす。掴む直前で止める。止めて、笑う。

笑いは口角だけだった。目は笑っていない。笑っていない目が、食堂の全員を一度だけなぞる。

「怖いなら、見ない方がいい」

その言い方が、慰めの形をしていなかった。言葉の意味だけが慰めで、声の中身が違う。違うという感覚が、脊椎の奥から上がってくる。

廊下の奥の声が、同じ言葉を言った。

「怖いなら、見ない方がいい」

重なった言葉の後、扉の隙間から伸びた指が、取っ手を確実に沈めた。

扉板が、内側へ一センチだけ動いた。食堂の空気が、暗い廊下へ吸われる。吸われると同時に、廊下の冷たさが食堂へ入り込む。冷たさは温度ではなく、海の匂いだった。

観測窓が、今度は一気に鳴った。

低い、短い、押しつぶされる音。透明板の中央に走っていた白い筋が、その場で枝分かれした。割れではない。傷が、増殖した。

机の上の缶詰の汁が跳ね、天板に薄く広がる。油膜が灯りを歪め、歪んだ灯りの中で、食堂に入ってきた人物の顔が一瞬だけ違う形に見える。顎の角度が変わった。目の位置がずれた。次の瞬間には戻っている。戻っているのに、戻ったという確信が持てない。

扉がもう一センチ開いた。

暗い廊下の奥から、足音が一歩ぶんだけ食堂へ近づく。足音は金属の廊下に合わない、布が擦れる音だった。

その足音の直後、食堂の奥の補助扉が、また一度だけ叩かれた。

内側からではなく、外側から。

食堂の中にいる全員の背中が、一斉に硬くなった。硬くなった背中の前で、食堂に入ってきた人物だけが、静かに息を吐いた。

吐いた息が、笑いの形に近かった。


吐いた息が、笑いに似た形で消えた直後、食堂の照明が一度だけ瞬いた。明滅ではない。光量が落ち、戻る。その落ちた一瞬に、扉の隙間の暗さが濃くなり、濃くなった暗さの中で足先がもう一歩ぶんだけ前へ出た。布が擦れる音が、床の反響に合わないまま食堂へ入ってくる。扉の縁を撫でていた指は取っ手から離れず、取っ手を握る形のまま、握っていないように見えた。力の入り方が、人間の手の入り方ではない。握るべき場所を知っているだけの形だった。

「止めろ」

棒を持つ者の声は、出た瞬間に掠れ、掠れた音の方が長く残った。扉へ伸びた手が取っ手を叩き落とそうとして、途中で止まる。取っ手を落とせば扉は閉まる。閉まれば暗さは外へ戻る。戻るはずなのに、戻ると決めることが怖い。決めた瞬間、その決めた通りに裏切られる気がする。

廊下の奥から出てきた影が、食堂の灯りの縁に掛かった。制服の襟の形と、胸元の留め具と、肩の縫い目が見える。見えてしまうと、それは人間の輪郭として成立してしまう。成立してしまった輪郭は、顔が見える前に、こちらの呼吸を奪う。顔が見える前に、その影は同じ顔だと分かる気がした。分かる気がしたまま、影は顔を上げた。

同じ顔だった。

食堂に入ってきた人物の顔と同じ角度で、同じ目の開き方で、同じ頬の筋肉の張りで、同じ表情の柔らかさで、同じ場所に目線を置いている。同じなのに、濡れが違う。廊下から出た方の袖口は濡れていない。濡れていないのに、足元だけが濡れている。濡れているというより、濡れた跡がそこに置かれ、跡が動くたびに床へ置き直されていく。水の跡ではなく、薄い膜の跡だった。膜の跡は光を返さず、黒く沈む。

「……お前」

誰かが言い、続きの言葉を探して失った。名前を呼べば、二つのうちのどちらかが名前で固定される。固定されれば、固定された方が正しいように見え始める。正しさが始まれば、次は排除になる。排除が早いほど、この箱の中では生き延びる確率が上がると、頭が勝手に計算し始める。その計算が始まった時点で、もう何かが壊れている。

食堂にいた方の同じ顔が、ゆっくりと視線を廊下から出てきた方へ向けた。視線の移動が遅い。遅いのに迷いがない。迷いがないのに、その視線が相手を認識していないように見えた。相手を見ているのではなく、相手の形を確認しているだけの目だった。

「遅かったな」

廊下から出てきた方が言った。さっき食堂に入ってきた方が言ったのと同じ言い方、同じ低さ、同じ息の抜け方だった。言ったあとに、口角が少しだけ動く。笑いではない。形だけの動きだった。

観測窓がまた沈んだ。沈むというより、透明板の中央が僅かに押され、押された分だけ周囲の枠が引っ張られる。きしむ音が出る前に、白い筋が一本、確実に増えた。筋は割れではなく、なぞられた跡の重なりだった。なぞられた跡が同じ場所を繰り返すと、そこは薄くなる。薄くなるのに割れない。割れないことが救いではなく、時間が延びるだけの罰に見えてくる。

机の上のノートが、また勝手にめくれた。ページが浮くのではなく、紙の角が持ち上がり、角だけが擦れて落ちる。紙が空気を吸ったみたいな動きだった。落ちたページには、さっきの「開けるな」の下に、もう一行だけ増えていた。今の秒に追いついた数字の横に、短い言葉が並んでいる。

「二人いるな」

文字の線はぶれない。ぶれない線は、誰かが書いた線ではなく、書かれた線に見える。誰かが手を動かした痕跡がなく、結果だけが机の上に置かれている。

棒を持つ者が、棒の先を廊下から出てきた方へ向けた。向けた瞬間、廊下から出てきた方の目が棒を見る。棒ではなく棒の先、棒の先に付いた油膜の光り方を見ている。目が細くならない。警戒で細くならない目は、目としての働きが違う。

「動くな」

言ったのは棒を持つ者ではなかった。机の端を掴んでいた者が言った。掴んだ指の関節が白い。白いのに汗が出ている。汗は掌の内側で溜まり、外へ出てこない。出てこない汗が、余計に呼吸を詰まらせる。

食堂にいた方の同じ顔が、袖口の黒い濡れをもう一度広げた。広げたのは本人の動きではない。布の表面に黒い膜が増え、膜が布の皺に沿って広がっていく。水なら重力で落ちる。落ちない黒は、重力の向きを無視している。重力の向きを無視するものが、ここでは外にしか存在しないはずだった。

補助扉が、また叩かれた。今度は二回続けて叩かれた。二回続けて叩くのは合図ではない。焦りの形だ。焦りの形が、扉の向こうの誰かにあるはずがないのに、焦りの形が音になっている。扉の向こうに、また別の「そこにいる」がいる。

廊下から出てきた方の同じ顔が、ゆっくりと頭を傾けた。傾ける角度が、さっき食堂にいた方と同じだった。目の位置も同じだけ動く。傾ける動きが、相手の反応を引き出すための動きに見えた。

「開けろ」

補助扉の向こうから声がした。声は食堂の誰かの声だった。だが今、同じ声が二つある。三つ目が来ても、三つ目だと断定できない。断定できないのに、声は確かに近い。近い声が扉板を通して、骨を震わせる。

観測窓の外で、擦る音が消えた。擦る音が消えた直後、透明板の中央の白い筋の終点が、内側へ向けてほんの僅かに盛り上がった。盛り上がりは膨らみではなく、内側の空気が押し返している形だった。押し返しているのに、押し返す力が負け始めている。

廊下から出てきた方の同じ顔が、一歩だけ食堂へ踏み込んだ。踏み込んだ足元に、黒い膜の跡が置かれる。置かれた跡が床に残り、残った跡がゆっくりと薄く広がる。薄く広がりながら、光を吸い続ける。

棒の先が、その胸元へ寄る。寄った瞬間、食堂にいた方の同じ顔が、棒を持つ手首を掴もうとした。掴もうとする手が、途中で止まる。止まった手の指先が、空気を撫でる。撫でる動きが、観測窓の外の線と同じだった。測る動きだった。

その指先が、棒の先に触れた。触れた瞬間、棒の先の油膜が一度だけ濁り、濁った油膜の中に黒い点が混じった。黒い点は落ちない。落ちないまま、油膜の中で広がっていく。

誰かが堪えきれずに叫びそうになり、叫びになる前に喉が締まった。締まった喉の奥で、呼吸が擦れる音だけが出る。

補助扉が、今度は内側から叩かれた。叩いた位置が同じだった。外側と内側が同じ位置を叩く。叩く側が違うのに、叩く癖が同じだ。癖が同じなら、癖も奪われている。

食堂の中で、誰かが小さく後退した。椅子の脚が床を擦り、音が出る。音が出た瞬間、観測窓の透明板が低く鳴り、白い筋がもう一本増えた。増えた筋が、中央から端へ向けて走る。端へ走る筋は、枠へ繋がる。枠へ繋がる筋は、破れる場所を探している。

同じ顔が二つ、さらに扉の向こうに声が一つ。外には圧が一つ。机の上には先の秒が一つ。誰もが、自分の足元がどこまで安全なのかを測ろうとして、測る動きそのものに追いつかれていく。

棒の先の油膜に混じった黒い点は、落ちずに広がった。広がり方が液体ではない。輪郭のまま増え、輪郭のまま薄くなり、薄くなっても消えない。棒を握る手首が反射で引かれ、引いた分だけ棒先がわずかに揺れる。揺れた棒先に、廊下から出てきた方の同じ顔の視線がついてくる。追うのではなく、最初からそこに置いてあるみたいに一致する。

「触ったな」

言葉が出た者が誰か、すぐには分からなかった。声が食堂の壁で反射し、同じ高さが二つ重なると、声の出どころが溶ける。言った直後、言った者は自分の喉を押さえた。押さえたのは痛みではない。声が出たことを止めたかった。

食堂にいた方の同じ顔の指先が、棒先の黒をもう一度撫でた。撫でた瞬間、黒が油膜の中で一段濃くなる。濃くなった黒が、棒先から棒の軸へ向けてじわりと移る。移るのに垂れない。垂れないものが移る。

棒を持つ者が手を振り払おうとして、腕が固まった。固まったのは恐怖のせいではない。筋肉が、動かす命令を受け取れていないみたいに止まる。止まった腕の脇で、手首を掴もうとしていた指先が、空気を撫で続ける。撫でる動きがゆっくりなのに、位置が正確だった。

廊下から出てきた方の同じ顔が、もう一歩だけ近づいた。近づく足元に黒い膜の跡が置かれる。跡が床の微細な凹凸を舐めるように広がり、広がった分だけ床の反射が死ぬ。食堂の灯りが、そこだけ吸い込まれる。

「止まれ」

誰かが言った。言葉は命令の形だったが、命令に必要な確信がなかった。確信がない命令は、相手を止めない。止めないはずなのに、廊下から出てきた方は足を止めた。止めたのは言葉のせいではない。止めるべき場所を、最初から知っているみたいに。

補助扉が、また叩かれた。二回。間隔が短い。叩く力が少し増えている。板が震え、震えが食堂の床へ落ちる。落ちた震えが椅子の脚を揺らし、揺れた脚が床を擦って音が出る。音が出た瞬間、観測窓の白い筋が一つ増える。増えた筋は、中央から端へ向かう途中で分岐し、分岐した先が枠の内側へ食い込む。傷が、枠の強度を探っている。

食堂にいた方の同じ顔が、棒を持つ者の手首から指を離した。離したのに、黒は棒の軸へ移り続ける。移り続ける黒を見た者が、反射で吐きそうになって、吐けない。吐けば音が出る。音が出れば窓が鳴る。窓が鳴れば筋が増える。筋が増えるほど、内側の空気が負ける。

廊下から出てきた方の同じ顔が、補助扉の方へ視線を向けた。視線の角度が浅い。扉板を見ているのではなく、扉板の厚みの向こうにいる何かを測っている目だった。

「開けろって言ってる」

食堂に入ってきた方の同じ顔が言った。言ったあと、袖口の黒い膜がまた少し広がる。広がりは布の上で止まらず、肘の内側の皺へ回り込む。皺へ回り込むと、布が濡れたときの柔らかさではなく、表面が硬くなったみたいな光の死に方をする。

「開けるなって書いてある」

誰かがノートを見たまま言った。言った声が震えた。震えた声に反応して、廊下から出てきた方の同じ顔が、首を傾ける。傾ける角度が一定で、反応というより計測だった。

観測窓が、低く鳴った。鳴った瞬間、透明板の中央がほんの僅かに撓み、撓みの影が食堂の灯りの下で揺れる。揺れた影が、机の上の缶詰の油膜と同じように灯りを歪める。歪んだ灯りの中で、二つの同じ顔の輪郭が、ほんの一瞬だけ入れ替わって見えた。入れ替わったのではない。目が勝手に、入れ替わった形で納得しようとした。

補助扉が、今度は内側から叩かれた。叩いた位置が同じ。音が同じ。癖が同じ。癖が同じなら、癖も奪われている。奪われているのなら、声も奪われている。奪われている声に返事をしたら、返事も奪われる。

誰かが机の端を蹴りそうになって、足が止まった。止まった足先が床の黒い膜の跡に触れ、触れた瞬間に靴底が張り付いたみたいに重くなる。重くなった足を引こうとしても引けない。引けないのに、足首だけが無駄に動く。

「……離れろ」

棒を持つ者が、声ではなく息で言った。言った息が掠れ、掠れた息の音が窓へ届く。窓が鳴り、筋がまた増える。増えた筋が枠へ伸び、枠の内側に新しい白が走る。走った白の先端が、食堂の灯りに照らされて細く光る。その光り方が、魚の眼の光り方に似ていた。

廊下から出てきた方の同じ顔が、足元の黒い膜の跡を踏まないように、僅かに歩幅を変えた。変えた歩幅が正確で、黒を避けるというより黒を使うための位置取りに見える。避けるのなら距離を取るはずだ。距離は取らない。距離を詰める。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、棒を持つ者の手首へもう一度手を伸ばした。伸ばした指先が、今度は棒の軸の黒を狙う。狙う動きが、外の線の動きと同じだった。なぞる。測る。薄くする。

棒を持つ者が、決めた。

決めたのは言葉ではなかった。肩が前へ出て、肘が折れ、棒の先が食堂に入ってきた方の同じ顔の喉元へ寄る。寄せた棒先の黒が、相手の皮膚のすぐ手前で止まる。触れない距離で止まったのに、相手の袖口の黒が僅かに揺れた。揺れたのは布ではない。膜が反応した。

「動いたら刺す」

声が出た。出た瞬間、声を出した本人の喉がひりついた。刺すという言葉の重さが、箱の中で音として跳ね返る。跳ね返った音に、補助扉の向こうの声が即座に返す。

「刺せ」

即座すぎた。怒りでも恐怖でもない。提案の速度だった。

廊下から出てきた方の同じ顔が、棒先の黒を見て、眉を一度だけ動かした。驚きではない。評価の動きだった。評価したあと、その人物は小さく息を吐く。吐いた息が、笑いに近い形になる。形だけの笑いが、口の中身のない空洞として残る。

観測窓の外で、擦る音が戻った。今度は短く、断続的で、位置が変わる。透明板の中央の白い筋が、同じ場所を繰り返しなぞられている。なぞられた筋の白が薄くなり、薄くなるのに割れない。割れないのは、割る力がまだ足りないからではない。割るべき場所を探しているからだ。

補助扉が、もう一度叩かれた。三回。間隔が詰まる。合図ではなく、催促でもなく、焦りでもなく、遊びに見える叩き方だった。

その叩き方を聞いた瞬間、食堂に入ってきた方の同じ顔が、ほんの僅かに目線を上げた。上げた目線は、補助扉ではない。天井の配管の継ぎ目を見た。継ぎ目の一点を見たまま、口が動く。

「上」

短い。短いのに、方向だけが刺さる。

誰かが反射で天井を見る。配管の継ぎ目から、黒い点が一つ、落ちた。落ちたのに跳ねない。跳ねずに床へ張り付く。張り付いた黒が、薄く広がる。広がる速度が、さっきの油膜より速い。

床の黒が、食堂の中央へ向けて伸び始めた。伸びるのに波打たない。伸びるのに躊躇がない。伸びる方向が、足元の逃げ道を消す方向だった。

思考時間: 26s

床に張り付いた黒は、薄く広がりながら形を保っていた。油膜のように乱れない。波打たない。広がる速度だけが一定で、床の継ぎ目に沿って曲がるときも迷いがない。

張り付いた場所の光が死ぬ。死んだ光の縁が、食堂の灯りの下で黒い輪郭になる。輪郭はすぐに次の輪郭を作り、輪郭が増えるほど床の面が減っていく。

誰かの靴底が、さっきから剥がれないままだった。足首だけが動き、靴の先が床に引っ張られる。引っ張られるのに、音が出ない。布が擦れる音も金属の反響もなく、ただ足首の関節が小さく鳴る。

「切る」

言った声が震え、震えた声のせいで喉が痛んだ。棒を持っていた者が棒を引き、代わりに刃のある道具を探す。探す動きが遅い。机の上に何があるかを把握しているはずなのに、視界が狭くなっている。手だけが机の上を泳ぎ、指先が缶詰の縁で一度だけ擦れて止まる。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、机の端の刃に目を落とした。落としたのは一瞬で、次の瞬間にはもう、刃がどこへ動くかを知っているように視線を戻す。

「無駄だ」

廊下から出てきた方の同じ顔が言った。無駄だと言う声の中身が、忠告ではなかった。忠告の形をした確認だった。

黒が、張り付いた靴底の縁から、靴紐へ向けて伸びた。伸びるのに盛り上がらない。盛り上がらないまま、靴の表面の光だけを奪う。奪われた靴の表面が一段暗くなり、暗くなった範囲が増える。

「靴を脱げ」

別の声が言った。言った者は机の端を掴んだままで、掴んだ手が離れない。離せば体が前に倒れると知っている掴み方だった。

張り付いた足の主が膝を落とした。落とした膝が床に触れる前に、黒が膝の方向へ伸びる。伸びる速度が上がる。上がった速度に合わせて、足の主の呼吸が乱れる。乱れた呼吸が音になりかけて止まる。

靴紐に指がかかった。指がかかった瞬間、指先が一度だけ跳ねる。跳ねたのは痛みではない。指先の感触が、紐ではなく、濡れた布でもなく、ぬめりのある膜だった。

「……違う」

口が勝手に言った。違うと言った声が、空気に落ちる。落ちた声に、食堂にいた方の同じ顔の袖口の黒い膜が微かに揺れた。揺れたのは布ではない。膜の表面が、呼吸のように一度だけ脈打つ。

天井の配管の継ぎ目から、また黒い点が落ちた。落ちた点が跳ねないまま床に張り付く。張り付いた点がすぐに薄く伸び、先に落ちていた黒の縁と繋がる。繋がった瞬間、黒の広がり方が変わる。二つが一つになった速度になる。広がりが早くなる。

「退け」

棒を持っていた者が言う。言った声は低い。低いのに、焦りが透ける。言葉だけで退けと言っても、床が退けない。床の黒が増えれば、退ける場所が減る。

観測窓が、短く鳴った。低い音が一つだけ落ち、透明板の白い筋がまた増える。増えた筋が中央から端へ伸びる途中で止まり、止まった先端が微かに光る。光りが魚の眼の光り方に似ていて、誰かが反射で目を逸らす。逸らした目が、床の黒へ落ちる。落ちた目が、黒の動きの方向を読む。

黒は、人間の足元へ向かっている。足元に集まるように広がっている。机の脚を避け、椅子の脚の周りを回り、靴の縁へ吸い付く。

廊下から出てきた方の同じ顔が、黒の縁を踏まないように歩幅を変えた。変えた歩幅が正確だった。黒がどこまで伸びるかを、先に知っているみたいに。

その足元に置かれていく黒い膜の跡は、床の黒と同じ種類だった。種類というより、同じものが別の入口から入ってきている。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、袖口の黒い膜を指先で一度だけ撫でた。撫でた瞬間、袖口の黒が薄く広がる。広がった黒が、床の黒と同じように光を吸う。吸った光が戻らない。

「やめろ」

誰かが言った。言った声が短い。短い声は、止めたい意志だけが先に出た声だった。

補助扉が叩かれた。今度は一回だけ。叩く力が強い。板が震え、震えが配膳棚へ伝わり、棚の上の小物が小さく鳴る。鳴った音に反応するように、床の黒が一段だけ速度を上げた。音が餌になっているみたいだった。

「開けろって言ってる」

食堂に入ってきた方の同じ顔が、補助扉の方へ顎を向けた。顎を向けた動きが軽い。軽いのに、背中の筋肉が動いていない。動いていない背中は、歩く準備をしていない背中だった。歩く準備をしていないのに、言葉だけが扉へ向かう。

廊下から出てきた方の同じ顔が、同じ顎の角度で言う。

「開けろ」

その言葉に、ノートのページが勝手にめくれた。めくれたページには、さっきの「二人いるな」の下に、もう一行増えていた。文字が増えたこと自体が、見た者の胃を縮める。

「足を捨てろ」

書かれた線はぶれない。ぶれない線の横に、秒が揃う。揃った秒が、今の秒に追いつく。追いついた瞬間、床に張り付いた靴底の主が、小さく声を漏らした。漏らした声が音になり、音が床へ落ち、床の黒がさらに伸びる。

「足を、捨てるって……」

言葉の途中で息が詰まり、詰まった息が喉を擦る。擦れた音が観測窓へ届き、窓がまた鳴る。白い筋が増える。増えた筋の一本が、枠へ届く。枠へ届いた瞬間、透明板の角がわずかに沈み、沈んだ角に沿って白い線が一本走る。

「切れ」

棒を持っていた者が、刃を掴んだ。刃を掴んだ手が震える。震えた手の震えが刃に伝わり、刃が小さく鳴る。鳴った刃の音に、床の黒が一度だけ止まり、止まった直後に方向を変える。方向を変えた黒は、刃を持つ足元へ向かう。

刃を持つ者が足を引く。引いた足が黒に触れ、触れた靴底が一瞬で重くなる。重くなった足を引こうとしても引けない。引けない足首が無駄に動く。

「来る」

誰かが言った。言った声が小さい。小さいのに、全員に届く。小さい声が届くほど、食堂の空気が固くなっている。

廊下から出てきた方の同じ顔が、床の黒の縁を指先で撫でた。撫でた指先が黒に沈まず、黒の表面を滑る。滑った指先の跡に、黒が薄く伸びる。伸びた黒が、靴底に張り付く場所を増やす。

「触るな」

棒を持っていた者が、再び棒を握り直した。棒先の油膜に広がった黒が、棒の軸へ向けてじわじわ進んでいる。進む黒が、棒を持つ手の皮膚へ近づく。近づくのに垂れない。垂れない黒は、重力の向きを無視する。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、静かに笑った。笑いは口角だけだった。目は笑っていない。目が、床の黒の広がり方を見ている。広がり方を楽しんでいるのではない。結果を確認している。

「遅い」

その言葉が落ちた瞬間、補助扉の向こうの声が叫ぶ。

「早く開けろ、ここだ」

叫びの声は、食堂の誰かの声だった。叫びの癖も同じだった。同じなのに、叫びは扉板の向こうから来る。扉板の向こうに、今いるはずのない焦りがある。

床の黒が、食堂の中央で繋がった。繋がった黒が面になり、面になった黒が、椅子の脚の間を埋める。埋めるのに盛り上がらない。盛り上がらないまま、逃げ道の床だけを消していく。

観測窓が、今度は鳴らずに沈んだ。沈んだ透明板の中央の白い筋が、ふっと薄くなる。薄くなった部分の内側へ、空気が押し込まれる形になる。押し込まれる形のまま、透明板が戻らない。

戻らない透明板の向こうで、闇が一段近づいた。

その闇の中に、薄い線ではなく、面が見えた。面が、透明板へ貼り付く。貼り付いた面の輪郭が、床の黒と同じ光の死に方をしている。

食堂の床に広がる黒と、観測窓の外に貼り付く黒が、同じ速度で呼吸するみたいに一度だけ脈打った。

誰かの足元で、靴底が音もなく剥がれた。剥がれたのは靴底ではない。床から足が離れたのではなく、足の感覚だけが床に残っている。残った感覚が、黒の中へ沈む。

「……切れ」

刃を持つ者が、もう一度言った。今度は他人にではない。自分の手に言った声だった。


刃を握る手が震えた。震えは指先から始まって、手首で止まらない。止まらない震えのまま刃を靴紐へ当てると、刃先が紐の上で滑る。滑った刃先が紐ではないものに触れ、触れた瞬間に金属の感触が変わった。紙を切るときの軽さでも、皮を裂くときの重さでもない。粘りのある膜を押し潰すような鈍さだった。

「紐だ、紐だけ切れ」

誰かが言った。言った声が自分の声に聞こえず、言った本人が瞬きを増やす。見えている場所が狭い。狭い視界の中で、紐の結び目だけが必要以上にはっきりしている。

刃がもう一度、紐へ入った。今度は当たった。繊維が切れるはずのところで、切れる音がしない。切れないのではない。切れた瞬間に切れ口が黒で埋まっていく。繊維の白が見える前に、黒がそこへ入る。入って、結び目の形を保ったまま動かなくなる。

張り付いた足の主が、膝を落としたまま息を吐いた。吐いた息が震え、震えた息が声の形になりかけて止まる。声にならない方が怖い。声にならないまま、喉の奥だけが鳴る。

「……感覚が、抜ける」

言葉が落ちた。抜ける、と言った直後に、本人が自分の足先を見ようとする。見ようとする視線が床の黒に引っ張られる。黒の中へ視線が沈み、沈んだ視線が戻ってこない。戻ってこない視線のまま、顎が僅かに震える。

床の黒が、靴底の縁から足首へ伸びた。伸びるのに盛り上がらない。盛り上がらないまま靴の縁をなぞり、縁の糸目だけを暗くする。暗くなった糸目が、ほどける兆しもなく固定される。固定された縁が、足首の形を決める。

「脱げない」

膝を落とした者が言った。言葉の短さが、判断の速さではなく、呼吸の足りなさだった。脱ぐ動作をやればいいのに、やれない。やれない理由が筋肉ではなく、感覚にある。

刃を持つ者が、靴の側面へ刃を当てた。皮を裂くつもりの角度だった。刃が入る前に、刃先の黒が靴の表面へ触れた。触れた瞬間、靴の表面の色が一段沈む。沈むのに濡れない。濡れない沈みが、靴そのものを黒に変える。

刃を引こうとした。引けない。刃先が靴に吸い付いている。吸い付いているのに、何も絡みついていないように見える。見えるのに引けない。引けない現実だけが残る。

「離せ」

誰かが叫びそうになって、叫びを飲み込んだ。飲み込んだ声が喉の奥で擦れ、擦れた音が観測窓へ届く。窓が鳴った。鳴った音が低く短く、床に落ちる前に壁へ跳ねる。透明板の白い筋がまた一本増える。増えた筋は中央から枠へ向けて伸び、途中で止まらずに枠へ食い込んだ。枠の内側に白が走り、白の先端が細く光った。

廊下から出てきた方の同じ顔が、その光りを見る。光りを見た目が細くならない。細くならないまま、口角だけが僅かに動く。動いた口角が笑いの形を作る前に消える。消えるとき、息が吐かれる。吐かれた息が軽い。

「まだ、割れない」

言葉が落ちた。割れないと言う声が、安心ではなく評価の声だった。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、袖口の黒い膜をもう一度撫でた。撫でた指先が膜の表面を滑り、滑った跡に膜の縁が少しだけ伸びる。その伸びた縁が床の黒へ向けて落ち、落ちた縁が床の黒と繋がる。繋がった瞬間、床の黒の広がりがまた一段早くなる。

刃を持つ者が、刃を捨てようとして捨てられない。捨てられない刃を握る指が固まり、固まった指の間から汗が滲む。汗が滲んでも、刃の黒は滲まない。滲まない黒が、刃の根元へ進み、進んだ黒が指の腹に近づく。近づくのに重力で落ちない。落ちない黒が、指の腹の温度を先に奪う。

「手が……」

言いかけて止まった。止まったのは痛みではない。痛みなら声が出る。出ないのに、手の感覚が薄くなる。薄くなる感覚が、足の感覚の抜け方と似ている。

補助扉が、また叩かれた。今度は一回だけ。叩いた音が、叩く癖ごと食堂へ滑り込む。癖まで同じだと分かるのに、叩いた側がどちらか判断できない。判断できないまま、扉板の向こうの声が低く言う。

「ここ、冷える。早く」

冷えるという言葉が、外の海の冷たさと繋がった。繋がった瞬間、誰かの背中に汗が出る。汗が出るのに、空気は乾く。

床の黒が、机の脚を回り込んで食堂の中央を埋めた。埋めた黒の面が広がり、広がった面の縁が椅子の脚へ吸い付く。椅子の脚が吸い付いた瞬間、椅子の背が僅かに沈む。沈むだけで、人間の体が反射で逃げようとする。逃げようとしても逃げ道がない。逃げ道がないことを足裏が先に知る。

廊下から出てきた方の同じ顔が、黒い面の縁を避けずに足を置いた。置いた足元に、新しい黒い跡が置かれる。置かれた跡が面と繋がり、繋がった瞬間、足音が消える。消えた足音の代わりに、布が擦れる音が一度だけ鳴る。鳴った布の音が、潜水艦の中の音ではない。

「おい、止まれ」

棒を持っていた者が言った。言った声の直後に、棒先の黒が棒の軸へさらに進む。進んだ黒が棒を握る指へ触れ、触れた指の関節が一度だけ固まる。固まった関節が開かない。棒を離せない。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、棒の先端へ視線を落とした。落とした視線が黒の進み方を追い、追った視線が満足したように戻る。戻った視線が、張り付いた足の主の顔へ向いた。

「足、要るか」

問いが落ちた。問いの形をしていたが、答えを待っていない問いだった。

張り付いた足の主の喉が鳴った。鳴った喉の音が声にならずに消える。消えた喉の音の代わりに、涙が一度だけ出る。涙が出ても頬を伝わない。目の縁で止まっている。止まっている涙の重さが、頬ではなく胸へ落ちる。

観測窓の外の黒い面が、透明板へ貼り付いたまま脈打った。脈打つたびに透明板の中央が僅かに撓み、撓みの影が床の黒の面に揺れを映す。揺れが映るだけで、黒が生き物みたいに見える。

その瞬間、食堂の照明がもう一度瞬いた。瞬いた一瞬の暗さの中で、二つの同じ顔が同時に口を開いた。

「遅い」

同じ言葉。同じ低さ。同じ息。

暗さが戻ったとき、床の黒の縁が、張り付いた足の主の膝へ届いていた。

思考時間: 20s

黒い縁が膝へ届いた瞬間、膝を落としていた者の体が反射で後ろへ引けた。引けたのは上半身だけで、足は引けない。引けない足の代わりに腰が浮き、浮いた腰が机の縁にぶつかって鈍い音を出した。音が出たとき、床の黒が一度だけ脈打つ。脈打った黒が膝の皺をなぞり、なぞったところから衣服の色が沈む。沈むのに濡れない。濡れないまま黒くなる。

「感じない」

膝を落とした者が言った。声は出たが、声の中身が薄い。薄いのに、言葉だけは重い。足先の痛みがない。痛みがないのに、恐怖だけが増える。足先を確かめようとする視線が床の黒へ吸われ、吸われた視線が膝の黒で止まる。止まった視線のまま、唇が開いて閉じる。開いて閉じる動きに言葉が乗らない。

刃を持っていた者が、刃を引き抜こうとして肘を引いた。引いた肘が動かない。刃先が靴の側面に吸い付いたまま、吸い付いた位置で固定されている。固定されている刃の根元に黒が集まり、集まった黒が柄を覆い、覆った黒が指の腹へ触れる。触れた瞬間、指が冷える。冷えるのに痛くない。痛くないまま、指の感覚が薄くなる。薄くなった指が、刃を握っているという事実だけを残して固まる。

「離せ」

誰かが言った。言った声が掠れ、掠れた声の終わりが喉に刺さる。刃を持つ者は離そうとした。離そうとする動きが、指の中で止まる。止まった指が開かない。開かない指の関節が白くなり、白くなった関節の下で黒が静かに進む。進む黒は急がない。急がないのに確実で、確実なのに焦らせる。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、膝を落とした者の足元を見たまま口を動かした。

「切るなら、もっと上だ」

慰めでも命令でもない口調だった。事実の口調だった。切る位置を決める口調だった。言われた側の目が一度だけ揺れ、揺れた目が刃を持つ者の手へ移る。刃を持つ者の手は既に黒に触れている。黒に触れている手が、切ることを選べば、黒もそれに合わせて形を変える。形を変える黒を想像した瞬間、誰かの胃が縮む。

廊下から出てきた方の同じ顔が、ゆっくりと膝を落とした。落とした膝は床の黒に触れない。触れない位置に正確に置かれる。置かれた膝の近くで、黒の縁が一度だけ止まる。止まって、縁が薄く揺れる。揺れは水の揺れではない。布の表面の膜が呼吸する揺れだった。

「ほら」

廊下から出てきた同じ顔が指先を伸ばし、膝の黒い縁へ触れた。触れた指先が沈まない。沈まないまま黒の表面を滑り、滑った跡に黒が僅かに薄くなる。薄くなるのに消えない。薄くなるだけで足が戻る気配もない。だが薄くなった縁が、いままでより遅く動く。遅く動く縁を見て、膝を落とした者が息を吸い、吸った息が途中で止まる。止めたのは希望ではない。希望が浮かぶと、それが裏切られるのが早いと知っている呼吸だった。

観測窓が、鳴らずに沈んだ。沈んだ透明板の中央の白い筋が、今度は細く震えた。震えは外からの圧ではなく、内側の空気が押し返し切れずに揺れている震えだった。外に貼り付いた黒い面が、透明板へさらに密着する。密着した面の縁が、床の黒の縁と同じ速度で一度だけ脈打つ。二つが同じ瞬間に脈打つと、食堂の灯りがほんの僅かに暗くなる。照明が落ちたのではない。光が吸われた。

「……遮蔽」

誰かが口にした。遮蔽の手順を口に出せば、手順が壊れる。壊れると分かっていても、言葉が漏れる。漏れた言葉に反応するように、観測窓の枠の内側へ走った白い線が一本、わずかに伸びた。伸びた先端が魚の眼のように光り、その光が食堂の床の黒い面に映る。映った光が一瞬で消える。消えた光の場所だけ、床の黒が濃くなる。

刃を持つ者の指が、ついに僅かに開いた。開いたのは自分の意志ではない。黒が柄を覆い切って、指の摩擦を消したからだ。摩擦が消えた瞬間、刃が床へ落ちる。落ちるはずの刃は落ちない。刃が黒に吸われ、吸われた刃が床の面に沈む。沈むのに音が出ない。音が出ないまま刃の輪郭が消え、消えた場所から黒が一段だけ広がる。広がった黒が刃を持っていた者の靴底へ触れ、触れた靴底が一瞬で重くなる。

「来た」

誰かが言った。来たという声が小さいのに全員に届く。全員に届くほど、この箱の中の空気が固い。

食堂に入ってきた方の同じ顔が、棒の先端へ視線を落とした。棒先の黒は棒の軸を越えて、握る指の腹へ近づいている。近づく黒を見て、その同じ顔が口角だけで笑った。目は笑わない。笑わない目が棒の持ち主の手首をなぞり、なぞったあと、膝を落とした者の足元へ戻る。

「足を捨てろって、書いてあったな」

誰かがノートを見ないまま言った。言った声が自分の声に聞こえず、言った本人が喉を押さえる。ノートのページが勝手に揺れ、揺れた紙の角がぱらりと落ちる。落ちたページに、さっきはなかった短い線が一本増えている。線の形は文字になる前の形で、文字になる前の形のまま、誰かの胸を締める。

補助扉が叩かれた。今度は一回。強い。一回で十分だと言う叩き方だった。扉板が震え、震えが床へ落ち、床の黒がそれを飲む。飲んだ黒が一段だけ速度を上げ、机の脚の影を消しながら食堂の中央から外側へ広がる。広がり方が、逃げ道を消す広がり方だった。

廊下から出てきた同じ顔が、膝を落としたまま顔を上げ、食堂に入ってきた同じ顔と視線を交わした。交わした瞬間、二人の間に言葉が要らない空気が出来る。出来た空気が、こちら側の呼吸を削る。

「遅い」

二つの口が同時に動いた。声は重ならず、重ならないのに意味が一つだった。

膝を落とした者の衣服の膝の辺りが、ふっと沈んだ。沈んだのは布ではない。膝の内側の感覚が、床に残ったまま引き剥がされた。引き剥がされた感覚が黒の中へ落ち、落ちた感覚が戻らない。戻らないのに、膝だけはそこにある。そこにある膝が、自分のものではなくなっていく。

そのとき、観測窓が一度だけ大きく鳴った。低く、長く、板と枠が同時に軋む音。音の終わりに、透明板の中央の白い筋の一つが、ほんの僅かに黒く沈んだ。沈んだ筋の向こうに、外の黒い面の奥ではなく、何かの輪郭が一瞬だけ浮いた。目のような光ではない。顔でもない。ただ、内側の空気の形をなぞるように、そこに「重さ」が見えた。

床の黒が、膝を落とした者の腿へ向けて伸びた。伸びる黒の縁が、今度は迷わない。


黒い縁が腿へ向けて伸びたところで、膝を落としていた者の上半身が、机に縫い付けられたみたいに固まった。逃げようとした動きだけが先に出て、逃げ先の床がない。足首から先の感覚が抜けたまま、膝の内側だけが遅れて熱くなり、熱いのに痛みが来ない。来ない痛みの代わりに、衣服の膝が沈む。沈んだ布の上で、黒が皺を拾って広がり、広がりながら光を吸っていく。吸われた光の縁が、腿の形を輪郭として浮かび上がらせる。輪郭がはっきりするほど、そこにあるはずの自分の足が遠くなる。

刃を落とした者の手が、空中で半端に開いたまま止まっていた。握っていた感覚だけが残って、指が次の形に移れない。落ちた刃は床の黒に沈み、沈んだ場所が面の一部として平らになる。平らになった黒が、靴底へ触れ、触れた靴底の感触が一段重くなる。重さが増えたのに、床に沈むわけではない。沈まない重さが、足首の関節だけを無駄に動かさせる。棒を握っていた手も同じだった。棒先の黒が軸へ進み、軸から指の腹へ近づくたびに、握っているという事実だけが強くなり、握る力は自分のものではなくなる。

二つの同じ顔が、床の黒の面を挟むように立っていた。廊下から出てきた方は、黒の上に足を置いているのに足音が消え、置いた場所に黒い跡だけが増える。食堂に入ってきた方は袖口の黒を増やし、増えた黒を指先で撫で、撫でた縁を床へ落とす。落ちた縁が面と繋がるたびに、面の広がりが早くなる。二人は互いを見ない。見ないまま、膝を落とした者の腿の黒を見ている。見ている視線が同じ速度で動き、同じ場所で止まる。止まった視線が、次にどこへ伸びるかを先に知っているようだった。

「上だ」

食堂に入ってきた方が、さっきと同じ短さで言った。声が落ちる前に、天井の配管の継ぎ目から黒い点が落ちる。落ちた点は跳ねずに面へ吸い込まれ、吸い込まれた場所が一瞬だけ濃くなる。濃くなった部分が、細い筋になって這い出し、這い出した筋が椅子の脚を避け、机の脚を回り込み、膝を落とした者の腰の下へ向かって伸び始めた。伸びる先を見た誰かが、反射で後退しようとして足が動かない。動かない足が黒に触れ、触れた瞬間に重くなる。重くなった足を引けないまま、喉の奥だけが鳴る。

補助扉が、また一回だけ叩かれた。叩く音が強いのに、音の端が丸い。丸い音が、叩いた手の形を想像させる。想像した瞬間、廊下の奥から声が滑り込む。

「早く。水が来る」

水が来るという言葉の後に、誰も水の音を聞けなかった。聞けないのに、その言葉が胃を縮める。観測窓の方で低い軋みが続き、透明板の白い筋が薄く震える。震えた筋の一部が黒く沈み、沈んだ先がほんの僅かに膨らむ。膨らみの向こうに、外の黒い面が密着している。密着した面が呼吸するように脈打ち、脈打つたびに食堂の灯りが吸われる。吸われた灯りが戻る前に、床の黒がもう一段伸びる。

誰かが壁の非常操作盤に手を伸ばした。伸ばした指が、押しボタンの列の前で止まる。隔壁を閉じれば、この区画は切り離される。切り離されれば、床の黒の面も、同じ顔も、膝を落とした者も、まとめて残る。残るのに、残る方が安全だと頭が判断し始める。判断が始まった瞬間、膝を落とした者の腿の黒が腰の方へ一センチだけ進み、進んだ分だけ本人の顔が白くなる。白くなったのに痛みは来ない。来ない痛みが、決断の時間を削る。

「閉めるぞ」

声が出た。出た声が掠れ、掠れた音の直後に観測窓が大きく鳴る。鳴った音が床へ落ち、面が一度だけ脈打つ。脈打った面の上で、二つの同じ顔が同時に口角を動かした。笑いではない形だけの動きだった。動きの直後、廊下から出てきた方が、補助扉へ顔を向ける。向けた顔が、扉板の向こうの声へ返事をする前の形になる。

「閉めたら出られない」

扉の向こうからも、同じ調子の声が返る。

「閉めたら出られない」

二つの言葉が重なりかけて、食堂の中の誰かが歯を噛みしめた。噛みしめた顎の音が小さく鳴り、その小さな音に床の黒が反応するように腰の下へ伸びる。伸びる黒の縁が、いままでより迷いなくまっすぐで、まっすぐであることが一番怖かった。指が非常操作盤のボタンを押し込む。押し込んだ指先の感覚が、ボタンの反発を返さずに沈む。沈むのに音がしない。次の瞬間、遠くで重い金属が動く音がした。隔壁が動き始める低い響きが、潜水艦の骨を伝ってくる。その響きに合わせて、廊下から出てきた同じ顔が一歩踏み出し、床の黒の面の上に新しい跡を置いた。跡が面と繋がった瞬間、膝を落とした者の腰の下へ伸びていた黒が、突然、速度を上げた。


隔壁が動き始めた低い響きに合わせて、床の黒が跳ねた。跳ねたのではない。面の縁が一斉に伸び、伸びた縁が椅子の脚を迂回する手間を捨て、脚の下をくぐるように薄く滑り込む。滑り込んだ黒は盛り上がらないまま脚の接地面を奪い、椅子がわずかに沈む。沈んだ椅子の背が鳴る前に、膝を落としていた者の腰の下へ伸びていた筋が、腰の輪郭をなぞって一気に幅を増やした。増えた黒が衣服の皺を拾い、拾った皺の方向へ走り、走った先で布の色が沈む。沈むのに濡れず、濡れないまま黒くなる。黒くなった部分が、腰の下で呼吸するみたいに一度だけ脈打った。脈打った瞬間、膝を落としていた者の喉が無音で開く。声にならない吐息だけが出て、吐息の終わりで肩が落ちる。

隔壁の作動音が少し近くなる。区画の奥で金属が擦れ、噛み合い、重い板がゆっくり動く。動く音が骨に響くたびに、食堂の中の空気がさらに固くなる。ボタンを押した指が、押したまま戻らない。戻らない指先の感覚が薄くなり、薄くなった感覚が黒に似ていると気づいた瞬間、指が反射で離れようとして離れない。離れない指の代わりに手首が捻れ、捻れた関節が小さく鳴る。

二つの同じ顔が、同じタイミングで動いた。廊下から出てきた方が隔壁の方向へ一歩踏み、床の黒の面の上に跡を置く。置かれた跡が面と繋がった瞬間、黒の面の中心がほんの僅かに濃くなり、濃くなった中心から筋が放射状に伸びる。伸びた筋の一本が、非常操作盤の足元へ真っ直ぐ向かう。真っ直ぐであることが、狙っているように見える。食堂に入ってきた方は、袖口の黒い膜を指先で撫で、撫でた縁を床へ落とす。落とした縁が面と繋がる。繋がった瞬間、膝を落としていた者の腰の黒がさらに一段、上へ進む。上へ進んだ黒は腹の辺りで止まり、止まった縁が衣服の縫い目をなぞる。なぞる動きが、観測窓の外で線が透明板を測っていた動きと同じだった。

「引け!」

誰かが叫んだ。叫びは大きいのに、声の中身が薄い。薄い声が床へ落ち、落ちた声を飲むように黒が広がる。膝を落としていた者の両脇に手が伸び、腕を掴む。掴んだ指が衣服の布を捉えた瞬間、布の感触が滑る。滑る布の下で、腰の黒が布ごと固定している。固定しているのに、固定の力が見えない。見えない固定が一番重い。引く腕が力を入れ、肩が鳴り、背中の筋が浮く。それでも腰は動かない。動かない腰の代わりに上半身だけが前へ折れ、顔が机の縁にぶつかって鈍い音を出した。ぶつかった音の直後、観測窓が低く鳴る。鳴りが長く、透明板の白い筋の一つがまた黒く沈む。沈んだ筋の向こうの重さが、食堂の灯りの下で一瞬だけ輪郭を持つ。

「切れ」

声が近くで落ちた。刃はもうない。沈んだ。沈んだ場所の黒が濃くなり、濃くなったところへ足を置けば吸われると全員の足裏が知っている。刃がないのに切れと言った言葉が、言った者の喉を先に締める。締まった喉の奥で、唾が鳴る。鳴った唾の音に反応するように、床の黒の筋が非常操作盤の足元へ届き、足元の靴底が一瞬で重くなる。重くなった足が引けず、引けない足の主が反射で膝を落としそうになり、膝を落とす前に黒の縁が膝へ向けて伸びる。伸びる黒が早い。早いのに波打たない。

補助扉の向こうの声が、今度は怒鳴るほど近く響いた。「開けろ!」 怒鳴りの癖が食堂の誰かと同じで、同じ癖の怒鳴りが二つあることを思い出した者が、歯を噛みしめる。噛みしめた顎の音が小さく鳴り、その小さな音の直後に床の黒がまた一段速度を上げた。扉の取っ手の方へ筋が伸び、伸びた筋が扉板の縁に触れる。触れた瞬間、扉板の反射が死ぬ。死んだ反射の中で、扉板の表面だけが一瞬だけ深く見えた。深く見えたのに、触った指先は何も感じない。

隔壁の作動音が、はっきりと近づく。金属の板が半分まで動いた音が、艦内の別の区画の空気を押す音として伝わってくる。押された空気が食堂の方へ戻り、戻る空気が廊下の暗さを押し返す。押し返された暗さの縁で、廊下から出てきた同じ顔が一度だけ眉を動かす。驚きではない。計算の動きだった。次の瞬間、その同じ顔が床の黒の面の上を滑るように踏み、隔壁の動く方向へ身体を寄せた。寄せた身体の下で黒が濃くなり、濃くなった黒がさらに広がる。広がる黒の縁が、膝を落としていた者の胸の方へ向けて、一本だけ伸びた。一本だけ。迷わない。一本だけの線が、胸の呼吸の上下に合わせて揺れる。

膝を落としていた者の口が、ようやく声を出した。「……切れ」 自分の足に向けた声だった。声が出た瞬間、腰の黒が腹へ一センチ進む。進んだ黒が肋の下で止まり、止まった縁が服の縫い目をなぞってから、内側へ沈むように薄く消える。消えるのではない。表に見える黒が減った分、内側へ回った。回ったことが分かるのは、腹の感覚が抜けたからだ。抜けた感覚の代わりに、胸の心拍だけが大きくなる。大きくなる心拍が耳に響き、響きが観測窓の鳴りと重なる。

二つの同じ顔が同時に息を吐いた。吐いた息が笑いの形に近い。形だけの笑いの直後、食堂に入ってきた方が、非常操作盤の前に重くなった足を見て、小さく首を傾けた。傾けたまま、口だけが動く。

「遅い」

その言葉の直後、床の黒が一斉に広がり、非常操作盤の周りの床が黒で埋まった。埋まった黒の中心が、ゆっくりと上へ盛り上がる気配を見せた。盛り上がるのではない。面のまま立ち上がる。立ち上がる影が、膝を落としていた者の胸の上へ落ちる。落ちる影の重さが、胸の呼吸を一拍だけ止めた。


非常操作盤の周りを埋めた黒は、床の面のまま立ち上がろうとしていた。盛り上がりではない。面が、壁の影みたいに垂直へ移ろうとしている。立ち上がる気配の縁が、灯りを吸って輪郭だけになる。輪郭が濃くなるほど、そこに空気があるはずの場所が重くなる。

呼吸が一拍だけ止まったのは、胸が締められたからではない。肺が膨らむ前に、膨らむ余地を先に奪われた。

「下がれ!」

誰かが言って、言った本人が一歩下がれない。足元が黒い面に触れている。触れている靴底が重い。重い靴底が床に沈まないまま、足首だけを固める。固まった足首の上で膝が揺れ、揺れた膝が床へ落ちそうになる。

隔壁の作動音が、もう食堂の壁の内側まで来ていた。金属が噛み合う低い響きが一定の速度で進んでいる。進む響きが来るたびに、空気が押され、押された空気が背中を押す。押された背中が前へ出て、前へ出た体が黒に近づく。

黒の面の中心が、わずかに濃くなった。濃くなった中心から、細い縦の筋が立つ。筋は柱にならない。柱になる前の形のまま、そこに「奥行き」を作る。奥行きが出来た場所を見た誰かの目が、勝手に焦点を合わせようとして、合わせられない。

合わせられない焦点のまま、二つの同じ顔が動いた。

廊下から出てきた方が、黒の面の縁を踏み、踏んだ場所に跡を置く。置いた跡が面に吸われ、吸われた跡が面の中心へ薄く流れ込む。流れ込むのに波打たない。流れ込む方向が、中心の縦筋へ向いている。

食堂に入ってきた方が、袖口の黒い膜を一度だけ強く撫でた。撫でた指先が膜の表面を滑り、滑った跡に膜の縁が細く伸びる。伸びた縁が床へ落ち、落ちた縁が面に繋がる。繋がった瞬間、面の縁が一斉に広がった。広がりは一瞬で止まり、止まった縁が食堂の逃げ道をまた一段削る。

膝を落としていた者の腰が、もう動かない。動かない腰の上で上半身だけが掴まれて引かれ、引かれた腕の筋が浮く。浮いた筋肉が悲鳴を上げる前に、黒が腰の下から腹へ回り込んでいく。回り込むのに温度は変わらない。冷たさも熱さもない。あるのは、感覚が抜ける前触れだけだった。

「離せ……」

声が出た。声の終わりが消える。消えた終わりの代わりに、歯が鳴る。鳴った歯の音に、床の黒が微かに脈打った。

非常操作盤のボタンを押した指が、ようやく離れた。離れた指先の皮膚が白い。白いのに濡れていない。濡れていないのに、指の腹が滑る。滑る指の腹の感覚が、自分の皮膚の感覚ではなくなる。白い指が震え、震えた先で手首が折れ、折れた手が壁を掴もうとして壁を掴めない。壁が遠い。

隔壁の動く音が、急に重くなった。閉じる板が終端に近づいている音だった。終端に近づくほど、押される空気が増える。増えた空気が食堂の方へ戻り、戻った空気が黒い面の縁を押し返す。押し返された縁が、ほんの一瞬だけ止まる。止まった縁が止まったまま、縦に立とうとする気配を強める。

黒の中心の縦筋の向こうで、何かが「立っている」ように見えた。

見えたのは輪郭だけだった。輪郭だけなのに、身長の高さが分かる。肩幅の広さが分かる。分かるのに、顔がない。顔がないのに、こちらを見ている感覚だけがある。感覚だけが強くなるほど、目が勝手に顔を作ろうとする。作ろうとして、作れない。

「止めろ!」

棒を握っていた者が叫び、叫んだ瞬間に棒先の黒が指の腹へ触れた。触れた指が固まる。固まった指の関節が開かない。開かない関節の中で、握っているという事実だけが残る。

その事実を拾うみたいに、食堂に入ってきた同じ顔が、棒を握る手首へゆっくり指を伸ばした。伸ばした指先は手首を掴まない。掴む前の距離で止まり、空気を撫でる。撫でる動きが測る動きだった。測る動きの先で、棒先の黒が指へ進む速度を上げる。

廊下から出てきた同じ顔が、補助扉の方へ顎を向ける。顎の角度が軽い。軽いのに、扉板の向こうの声へ応じる前の形が整う。

補助扉が叩かれた。二回。間隔が詰まっている。叩き方が焦りに似て、焦りの中身がない。

「開けろ」

扉の向こうから来た声は、食堂の誰かの声だった。声の癖も同じだった。同じ癖の声が、今はどこからでも来る。

隔壁の閉じる音が、さらに大きくなった。金属が擦れ、噛み合い、最後の余裕を潰す音。

その音のすぐ後に、潜水艦全体が揺れた。

揺れは、内側の金属の動きではない。外から叩かれた揺れだった。床が持ち上がり、天井が一瞬だけ遠くなり、次の瞬間に戻る。戻った瞬間、食堂の棚の上の缶が滑り、滑った缶が落ち、落ちる前に黒い面に触れて音もなく沈んだ。沈んだ缶の形が黒の中で崩れずに止まり、止まった形のまま見えなくなる。

観測窓の方で、低い衝撃音が続けて入った。鈍い、硬い、重い。外で何かがぶつかり合っている。

外灯が一瞬だけ強くなった。強くなった光の中に、巨大な影が二つ見えた。

片方は太い胴体が真っ直ぐで、尾が大きく振られている。もう片方は輪郭が定まらず、長い腕のようなものが何本も伸びている。伸びたものが外灯の光を横切り、横切った先で太い胴体に巻き付く。巻き付いた瞬間、胴体が横へ弾けるみたいにずれる。ずれた胴体が、反対方向へ頭を振り、振った頭がそのまま突っ込む。

透明板の向こうで、白い泡が爆ぜた。泡の中に、濃い黒が膨らむ。膨らんだ黒が、外灯の光を一気に飲む。飲まれた光の円錐が消え、観測窓の外が真っ黒になる。

真っ黒になった瞬間、食堂の床の黒い面が、同じタイミングで脈打った。

外の黒と、内の黒が、同じ呼吸をしたみたいに一度だけ揃う。揃った瞬間、膝を落としていた者の腹がふっと抜けた。抜けたのに、腹はそこにある。そこにある腹が、自分のものではなくなっていく。

「……インク」

誰かが言った。言った声が震える。震えた声の端が、食堂の壁に吸われる前に黒い面へ落ち、面がそれを飲んで濃くなる。

観測窓の外の黒は、ただの雲ではなかった。雲の中で、細い線が走る。走った線が透明板をなぞる。なぞる動きが、さっきの測る動きと同じだった。なぞる速度が速い。速いのに音がない。

食堂の中の黒い面の中心の縦筋が、わずかに太くなった。太くなった縦筋の向こうの輪郭が、いまはっきりと人の形になる。肩の位置が見える。首の位置が見える。見えるのに、顔だけがない。顔の位置だけが空洞のまま、そこからこちらへ圧がかかる。

隔壁が、最後の段で止まりかけた。止まりかけた音が一度だけ呻く。呻いた直後、廊下から出てきた同じ顔が、隔壁の方向へ一歩踏み込む。踏み込んだ足元の黒い跡が面と繋がり、繋がった瞬間、面の縁が隔壁の隙間へ向けて一本だけ伸びた。伸びた黒が隔壁の下端を舐め、舐めたところの金属の反射が死ぬ。

「閉まらない……!」

誰かが言い、言い終わる前に喉が詰まる。詰まった喉の音が鳴り、鳴った音に合わせて床の黒がまた一段動く。

二つの同じ顔が、同じタイミングでこちらを見た。

視線が合わない。合わないのに、見られている感覚だけが刺さる。刺さった感覚の中で、食堂に入ってきた方の袖口の黒い膜が、今度は肘を越えて上腕へ広がった。広がりが皮膚に触れたように見え、見えた直後、棒を握る手の指がひとつだけ動かなくなった。

床の黒い面の中心の縦筋が、ついに面のまま立ち上がった。立ち上がった影が、食堂の灯りを吸い、吸った灯りの輪郭で「入口」を作る。入口の向こうに、顔のない輪郭が立っている。

補助扉が、最後に一回だけ叩かれた。強い。一回で十分だと言う叩き方。

その叩き方の直後、観測窓の外から、もう一度、巨大な衝撃が入った。潜水艦が横へ押され、床の黒が一斉に滑る。滑った黒が膝を落としていた者の胸へ届き、届いた瞬間、胸の呼吸が止まった。

止まった呼吸の音のない食堂で、隔壁の金属が、ぎり、と嫌な音を立てた。


ぎり、という音が、隔壁の喉の奥で引っ掛かったまま止まった。止まった音の余韻だけが艦の骨に残り、骨がそれを振動として食堂へ返す。返ってきた震えで、吊ってあった器具の金具が一つだけ鳴った。鳴った金具の音は小さいのに、床の黒い面がそれを聞き分けたみたいに一度だけ脈打つ。

胸へ届いた黒は、布の上をなぞっただけに見えた。なぞっただけなのに、呼吸が止まった。止まった胸の上で、引く手が揺れる。揺れた手が服を掴み直そうとして、指が滑る。滑った指の腹から、皮膚の感覚が薄くなる。薄くなるのに、痛みは来ない。痛みが来ないことが、いちばん怖い。

「息――」

誰かが言い、言い終わる前にその口が閉じた。息という言葉を出すと、息が戻らない気がした。戻らない気がしたまま、胸に耳を寄せようとする。寄せた顔が床の黒の面に近づき、近づいた頬の産毛が一瞬だけ逆立つ。逆立った産毛が、空気の重さを拾う。

黒い面の中心の縦筋は、入口の形のまま揺れていた。揺れは上下ではない。奥行きが伸び縮みする揺れだった。揺れの奥に、顔のない輪郭が立っている。立っている輪郭の位置が、食堂の灯りの下で少しだけ前へずれる。ずれたのに足音がない。足音がないまま、影だけが近づく。

二つの同じ顔が、同じタイミングで息を吐いた。吐いた息が軽い。軽い息の直後、片方が隔壁の隙間へ伸びた黒い筋を見て、ほんの僅かに眉を動かす。眉の動きが計算の動きだった。もう片方は補助扉の方へ視線を投げ、扉板の向こうの声の間合いを測る。

「閉まらない」

誰かが言った。言葉が落ちた瞬間、隔壁の下端を舐めていた黒が、舐めた部分の金属の反射をさらに殺した。殺された反射の場所だけ、隔壁の縁が深く見える。深く見えた縁が、次の瞬間に見えなくなる。見えなくなるのに、そこに黒があることだけが分かる。

外から、もう一度、鈍い衝撃が入った。潜水艦が横へ押され、床が傾く。傾いた床の上で黒い面が滑る。滑る黒は液体みたいに広がらず、面のまま位置をずらす。ずれた縁が一斉に足元へ寄り、寄った縁が靴底を拾う。拾われた靴底が一段重くなる。重くなるのに沈まない。沈まない重さが、膝だけを折らせる。

棚の上で、消火器の留め具が外れた。

外れたのは衝撃のせいだった。赤い筒が落ちる前に、落ちる音が出ない。落ちるはずの位置が黒に近すぎた。落ちる音が出ないことを、誰かの耳が先に怖がる。だが筒は床に当たって鈍い音を出し、音の直後に安全ピンが弾けた。弾けたピンが床を転がり、転がる金属音が一筋だけ走る。その音に合わせて、消火器のレバーが押し込まれた。

白い粉が噴いた。

粉は空気に広がり、光を散らす。散った白が食堂の黒を薄く覆い、黒い面の表面が一瞬だけ灰色になる。灰色になった縁が、初めて迷うみたいに止まった。止まったのは一拍。止まった一拍の間に、誰かが息を吸い、吸った息が咳になりかけて飲み込まれる。

「今だ、引け!」

叫びが出た。出た叫びの音が床へ落ちる前に、白い粉が音を吸った。吸われた音の端が丸くなる。丸くなった分だけ、黒の反応が遅れる。遅れた瞬間、掴んでいた腕がもう一度引かれる。引いた腕の筋が浮き、背中が軋む。軋む背中の痛みは来るのに、引かれている足の感覚は戻らない。

腰の下の黒が粘る。粘るのに糸を引かない。糸を引かない粘りが、床そのものに縫い付ける粘りだった。白い粉がその縁に降りかかるたび、縁が一瞬だけ固くなる。固くなると、広がる速度が落ちる。落ちた速度の間だけ、人間の力が追いつく。

引きが、ほんの僅かに効いた。

腰が一センチ浮く。浮いた一センチが、世界でいちばん重い。浮いた瞬間、黒が追うように伸びる。伸びた黒が腰の輪郭をなぞろうとして、白い粉の層にぶつかって止まる。止まった黒の縁が、初めて歯ぎしりみたいに震えた。震えが見えるのに音は出ない。

そのとき、廊下から出てきた同じ顔が、白い粉の上へ足を置いた。置いた足音が消え、置いた場所の粉だけが薄く沈む。沈んだ粉の下から黒が戻る。戻り方が早い。早い戻り方を見た瞬間、食堂に入ってきた同じ顔の袖口の黒い膜が、白い粉を嫌うように一度だけ引く。引いたのに、すぐに戻る。戻って、また広がる。

「無駄だ」

廊下から出てきた方が言った。言った直後、補助扉が叩かれる。叩き方が一回。強い。一回で十分だと言う叩き方。扉板の向こうの声が、ほとんど壁の裏から鳴っている距離で滑り込む。

「ここだ。早く」

白い粉のせいで声が乾いて聞こえる。乾いた声の癖が、食堂の誰かの癖と同じだった。誰も返事をしない。返事をした瞬間、その声の主がここに固定される。

隔壁が、もう一度、呻いた。

呻きは短い。終端に押し込もうとする力がかかった呻きだった。呻きの直後、隔壁の下端の隙間が、目で分かるほど僅かに狭くなる。狭くなった隙間へ、黒い筋が一本だけ潜り込もうとして、白い粉の層で止まる。止まった筋が薄く震え、震えの奥で入口の縦筋が一段太くなる。太くなるほど、顔のない輪郭が近づく。

引かれていた者の腰が、もう一センチ浮く。浮いた瞬間、腹の感覚が抜ける。抜けた腹の上で、心拍だけが暴れる。暴れる心拍の揺れがシャツを動かし、動いたシャツの影が黒の縁を誘う。誘った黒が追いかけようとして、白い粉でまた止まる。

「動かすな、粉を!」

誰かが叫ぶ。叫んだ声の直後に、咳が喉の奥で爆ぜる。爆ぜた咳の振動が粉を舞わせ、舞った粉の隙間から黒が一瞬だけ覗く。覗いた黒の縁が、膝へ向けて迷いなく伸びる。

二つの同じ顔が、同時にこちらを見る。視線は合わない。合わないのに、見られている感覚だけが刺さる。刺さった感覚の中で、どちらかが小さく首を傾けた。

「遅い」

言葉が落ちた直後、白い粉で止まっていた黒が、粉の下で回り込み始めた。回り込みは遅い。遅いのに確実だった。確実な遅さが、隔壁の閉じる速度と競り合う。

隔壁の終端が、もうすぐ来る。金属の重い音が、それを告げる。告げる音の中で、引かれていた者の腰が、ようやく床から離れた。離れたのに足は立たない。足は立たないまま、上半身だけが引きずられる。引きずられた体の後ろで、床の黒が一拍遅れて追いかけてくる。追いかけてくる黒の縁が、白い粉の層でまた止まり、止まった縁が入口の縦筋へ向けて薄く震えた。

震えの奥で、顔のない輪郭が、腕の形だけを持ち上げた。持ち上げた腕が、隔壁の隙間の方へ向く。向いた腕の先が、指の形ではなく、外で透明板をなぞっていた線の形に見えた。

隔壁の呻きが、今度は途切れずに続いた。金属が最後の余裕を押し潰しながら滑り、滑る音が艦の骨を鳴らす。鳴る骨の振動に、白い粉が空中で揺れる。揺れた粉の向こうで、顔のない輪郭の腕が上がったまま止まり、止まった腕の先が線の形で隔壁の隙間を測る。測る動きが小さいのに正確で、指の代わりに刃の角度みたいなものがある。

床から引き剥がされた者の腰は、確かに離れた。離れた瞬間、引く腕が後ろへ倒れそうになり、倒れるのを膝で止める。止めた膝が黒に触れないように、白い粉の上へ落ちる。粉が潰れて舞い、舞った粉の隙間から床の黒が覗く。覗いた黒が、離れた腰の下に残った「穴」を埋めるように広がる。広がった黒がすぐに平らになり、平らになった面の中心の縦筋が一段太くなる。

「運べ!」

声が飛んだ。運ぶと言っても、足が立たない。足が立たない者を抱え上げようとすると、抱える側の足元が黒に拾われる。拾われるのを避けて白い粉の上を踏む。踏むと粉が沈み、その下から黒が戻る。戻る黒の速さが、さっきより早い。白い粉が効いているのではない。効いている時間が短いだけだ。

掴んでいた腕が、肩の下へ回り、体が持ち上げられる。持ち上げられた体の重さが二倍に感じる。重いのに、体の中の感覚は抜けている。抜けている部分が多いほど、重さだけが残る。持ち上げた者の腕が震え、震えた腕が白い粉を払ってしまう。払った粉の隙間から黒が覗き、覗いた黒が抱えた腕の肘へ向けて伸びる。伸びる縁が迷わない。迷わない伸びが、狙っている。

「粉、撒け!」

叫びが飛び、誰かが消火器の筒を引き寄せた。筒を引き寄せた手の指が滑る。滑った指の腹の感覚が薄い。薄い感覚のままレバーを握ろうとし、握れない。握れない指が震え、震えの先でレバーが半端に押され、白い粉が弱く噴く。弱い噴きが、狙った場所に届かない。届かない粉が空中で漂い、漂った粉の中で入口の縦筋が脈打つ。脈打つたび、粉が吸い込まれるように揺れる。揺れる粉の向こうで、顔のない輪郭が一歩だけ前へずれた。ずれたのに足音がない。足音がないまま影だけが近づく。

隔壁の隙間がさらに狭くなる。狭くなるのに完全には閉じない。黒い筋が下端を舐め、舐めた場所の金属が反射を失い、反射を失った部分が黒の一部になる。なるはずの黒は、白い粉で止まり、止まったまま震える。震える黒の筋が、初めて「苛立ち」の形を見せるように揺れた。揺れの奥で、縦筋がもう一段太くなる。

「閉まれ!」

誰かが呻くように言った。言った声が喉に残り、残った喉の震えが咳になる前に飲み込まれる。飲み込んだ息の中で、隔壁がまた呻いた。呻きの終わりで、金属が最後の位置へ滑り込む音がした。音がしたのに、隙間は残る。針一本分ではない。指が入るほどではない。だが、線の形の腕の先なら通る。

顔のない輪郭の腕が、隔壁の隙間へ向けて伸びた。伸びた腕は関節で曲がらない。曲がらずに線のまま伸び、伸びた線が隙間の角度に合わせて薄くなる。薄くなった線が隙間へ入る。入った瞬間、隔壁の縁の白い粉が一列だけ消える。消えた粉の下から黒が覗く。覗いた黒が線に沿って広がり、広がった黒が隔壁の内側へじわりと侵入する。

「来た!」

叫びが出た。叫びの音の端が白い粉に吸われ、吸われた音が丸くなり、丸くなった分だけ床の黒の反応が遅れる。遅れた一拍の間に、抱えられた体が隔壁の反対側へ引きずられる。引きずられた体の足が床を擦る。擦る音が出ない。出ない擦りの代わりに、足の感覚がさらに抜ける。抜けた感覚が戻らないまま、隔壁の手前の床の黒が、足の形をなぞって残る。残った形が、足がそこにあるように見せる。見せるだけで、足は動かない。

二つの同じ顔が、隔壁の向こう側へ動こうとした。動こうとしたのに、足元の白い粉が沈み、沈んだ下から黒が戻る。戻った黒が二人の足首へ絡もうとして止まり、止まった縁が震える。震えた縁を見て、二つの顔が同じタイミングで眉を動かす。計算の動きだった。次の瞬間、二人は動きを止めた。止めたのに、止まった場所の黒い跡が増えた。増えた跡が面と繋がり、入口の縦筋がさらに太くなる。

「こっちに来い!」

誰かが隔壁の向こうから叫んだ。叫んだ声が、誰かの声と同じ癖だった。癖が同じ声が、今度は隔壁の向こうから来る。向こうから来る声に返事をすれば、返事も奪われる。奪われると知っているのに、身体が返事のために息を吸う。吸った息の音が漏れ、漏れた音に反応するように、隔壁の隙間へ入った黒い線が一段濃くなる。

「押せ!」

誰かが隔壁の手動レバーに手を伸ばした。伸ばした手が白い粉で滑り、滑った手が黒の筋に触れそうになって止まる。止まった手の指が震え、震えた指の先でレバーに触れる。触れた瞬間、レバーの表面が黒く沈む。沈んだレバーが手に吸い付く。吸い付いた手が離れない。離れない指の腹の感覚が薄くなる。薄くなるのに痛くない。痛くないまま、手がそこに固定される。

「離せ!」

叫びが出た。出た叫びの直後、隔壁の隙間の黒い線が、レバーへ向けて伸びた。伸びた線がレバーの黒と繋がる。繋がった瞬間、隔壁の隙間がわずかに広がった。広がった隙間へ、顔のない輪郭の腕がさらに滑り込む。滑り込んだ線が隔壁の内側をなぞり、なぞった場所の白い粉が消える。消えた粉の下から黒が戻り、戻った黒が床の面を再び作り始める。

床の黒い面の中心の入口が、隔壁の隙間と同じ方向へ向き直った。向き直るのに回転の動きがない。奥行きがそのまま伸びる方向を変えただけだった。向き直った入口の向こうで、顔のない輪郭が半歩だけ近づく。近づいた輪郭の胸の高さが、食堂の灯りの下で濃くなる。濃くなった胸の辺りが、吸い込まれるように黒く沈む。沈んだ胸の中心に、何もないのに「眼」があるように見える。

外で、もう一度、巨大な衝撃が入った。今度は縦に揺れた。揺れた瞬間、白い粉が一斉に舞い上がり、舞い上がった粉の中で黒が見えなくなる。見えなくなった黒の動きが分からない。分からないのに、足元が重くなる。重くなる足元の感覚が、遅れて膝へ来る。膝が折れそうになる瞬間、隔壁の隙間から入った黒い線が、食堂側の床へ触れた。

触れた瞬間、床の黒がまた一段速く広がり始めた。


隔壁の隙間から食堂側の床へ触れた黒い線は、触れた瞬間に「線」であるのをやめた。幅が増えたわけではない。線のまま、床の模様だけを消していく。床の溝に沿って走り、溝の端で止まらず、次の溝へ渡る。白い粉が舞っているのに、その下で黒の進む方向だけは分かる。進む黒は、声が出た方へ寄る。動いた方へ寄る。重い金属が擦れた方へ寄る。隔壁の手動レバーに吸い付いた手首が震えた。震えのせいで指がわずかに滑り、滑った指の腹が黒に触れ、触れた瞬間に指の白さが増した。白くなるのに冷たさは来ない。冷たさが来ないまま、指先が自分の指先ではなくなる。離そうとする動きが指の中で止まり、止まった動きの上で、黒がレバーの表面を確実に覆っていく。覆われたレバーの反射が死に、死んだ反射の下から、隔壁の隙間がもう一段だけ広がった。広がりは小さいのに、線の形の腕にとっては十分だった。線がもう一度滑り込み、滑り込んだ線が隔壁の内側をなぞる。白い粉がその部分だけ消え、粉の下から黒が戻る。戻った黒が床の面を作り直すように広がり、広がる先が食堂の中央ではなく、人の足元を狙っている。

「手を切るぞ」誰かが言った。言った声が掠れ、掠れた声に返事をする暇もなく、別の誰かが工具箱の蓋を引いた。蓋の金具が鳴る。鳴った金具の音に黒が一拍だけ脈打ち、その一拍で進む速度が変わる。工具箱の中から薄い刃が引き抜かれ、刃が白い粉を掠め、粉が刃に付いて灰色になる。灰色の刃を、レバーに吸い付いた手首の根元へ当てる。皮膚を切るつもりの角度になった瞬間、刃先の白い粉が一列だけ消えた。消えた粉の下で黒が刃先へ寄る。寄った黒は刃に絡まない。刃を避けるように、刃の影をなぞって手首の方へ回り込む。回り込む速さが、さっきより速い。刃を当てた者の目が一度だけ揺れ、揺れた目が刃を引こうとして止まる。引けば、次の手がない。引かなければ、刃ごと取られる。

隔壁の向こう側から、声がもう一度来た。「こっちだ、早く」声の癖がまた同じで、同じ癖の声が、今度はわずかに笑いを含む。笑いを含んだように聞こえた時点で、聞いた側の耳が勝手に意味を作っている。意味を作った瞬間、床の黒がその意味を拾うみたいに一段濃くなる。白い粉が舞って視界が白く霞み、霞んだ中で二つの同じ顔が動かないまま立っている。動かないのに、足元の黒い跡だけが増えている。増えた跡が面と繋がり、食堂の中央の入口の縦筋が隔壁の隙間へ向いて太くなる。太くなるほど、顔のない輪郭の位置が近く感じる。近く感じるだけで足音はない。足音がないまま、空気の重さだけが胸を押す。

外で、鈍い衝撃が続けて入った。潜水艦が横へ押され、白い粉が一斉に舞い上がる。舞い上がった粉の隙間から観測窓が見えた。外灯はまだ生きている。光の端で、太い胴体が横倒しになり、尾が大きく振られているのが見えた。胴体の腹側に、長い腕のようなものが幾つも絡みつき、絡みついた腕が一斉に締まる。締まった瞬間、外灯の光が一度だけ跳ね、跳ねた光の中で、吸盤の輪郭が幾つも見えた。次の瞬間、濃い黒が爆ぜる。インクが外灯の円錐を飲み、観測窓の外がまた暗くなる。暗くなるのと同時に、食堂の床の黒が脈打つ。外のインクが噴いた瞬間に、内側の黒が速くなる。速くなる黒は、もはや粉の下を回り込むのではなく、粉そのものを薄く押しのけるように進む。粉が押しのけられた跡が筋になり、筋が隔壁の隙間へ繋がる。

「レバーを捨てろ、引き剥がせ」誰かが叫ぶ。叫びの直後、レバーに吸い付いた手首の持ち主が、無音で口を開いた。声が出ない。出ないのに、肩が跳ねる。跳ねた肩の動きで腕が引かれ、引かれた分だけ手首がレバーから離れそうになり、離れそうになった瞬間に黒い線が手首の内側へ食い込む。食い込むのに血は出ない。出ないまま皮膚の色だけが沈み、沈んだ色の境目が、黒の縁としてはっきりする。はっきりした縁が一センチ進むたび、手首の持ち主の目の焦点が一瞬ずれる。ずれた焦点が戻るたびに、恐怖だけが増える。

工具箱から引き抜いた刃が、ついに手首の皮膚へ入った。入ったとき、切れる音は小さい。小さいのに、黒が反応して進む。進む黒が刃の影を避け、切り口の方へ回り込む。回り込む前に、刃が一気に引かれた。引かれた刃が空中で白い粉を散らし、散った粉が黒の縁に落ち、縁が一拍だけ止まる。止まった一拍で、手首がレバーから外れた。外れた瞬間、手首の持ち主の体が後ろへ倒れ、倒れた体を誰かが受け止める。受け止めた腕が震え、震えた腕の下で黒がまた伸びる。伸びる黒が倒れた体の手首へ向かい、向かった黒の縁が、さっき刃が入った場所を狙う。狙う縁が迷わない。迷わない縁を見た瞬間、受け止めた側が体ごと引きずって隔壁の向こうへ逃がそうとする。逃がそうとする足元が重くなり、重くなった靴底が白い粉を潰す。潰れた粉の下から黒が戻り、戻った黒が足首へ絡もうとする。

隔壁の終端が、もう一度、重く押された。金属が噛み合い、今度こそ閉じ切るはずの音が鳴る。鳴った直後、隙間は残ったまま、隙間の縁が黒く沈んだ。沈んだ縁の黒が、内側へ一筋だけ垂れる。垂れるのに落ちない。落ちない黒が、隔壁のこちら側の床へ触れ、触れた場所の白い粉が一列だけ消える。消えた粉の下から黒が戻る。戻った黒が、入口の縦筋と同じ方向を向いた。顔のない輪郭の腕が、線の形のまま、隙間のこちら側へ伸びる。伸びた線の先が、今度は足元ではなく、抱えられて運ばれている体の胸の高さをなぞるように動いた。なぞる動きが、外で透明板を測っていた動きと同じだった。測る。薄くする。通る場所を決める。その測りの途中で、二つの同じ顔が、同じタイミングで口角だけを動かした。笑いではない形だけの動きだった。その形だけの動きの直後、床の黒が一斉に前へずれ、白い粉の層の上からでも分かるほど、逃げ道の床が減った。


白い粉がまだ空中に浮いていて、光が散って輪郭が曖昧になる。その曖昧さの中で、隔壁の隙間から伸びた黒い線だけが妙にはっきりしていた。線は床の溝を拾いながら、抱えられて引きずられる身体の胸の高さへ向けて角度を変える。胸が上下するたび、その上下に合わせて線の先が揺れ、揺れの幅だけを測るみたいに寄ってくる。抱えている腕が震え、震えた肘が白い粉を払ってしまい、払われた場所の床が一瞬だけ暗く沈む。沈んだ暗さの縁から黒が覗き、覗いた黒が足元へ吸い付こうとする。靴底が重くなり、重くなった足が膝だけを折らせる。折れた膝を床につける前に、誰かが肩で支え、支えた肩が擦れて粉が舞う。粉の舞い方が渦になって、渦の中心だけが薄く抜ける。その抜けた中心へ、線の先が迷わず伸びた。伸びた線が隔壁の縁に触れ、触れた場所の粉が一列だけ消え、消えた粉の下から黒が戻る。戻った黒が隔壁のこちら側の床を、もう一度「面」に戻そうと広がり始める。広がりは遅い。遅いのに確実で、確実な遅さが、閉まらない隔壁の呻きと同じ調子で進む。

「行け」誰かが短く言い、言葉の後ろを足で押した。押された身体が隔壁の隙間へ滑り込む。隙間は肩が擦れるほど狭く、擦れた布が粉を落とし、落ちた粉の下で黒がすぐに覗く。覗いた黒が滑り込む身体の腰の辺りへ伸び、伸びた縁が服の縫い目をなぞろうとして止まる。止まったのは粉の層ではない。粉の層の下で、別の黒がすでに待っているみたいに、縁が一度だけ躊躇した。躊躇した一拍の間に、抱えている側が身体を引き抜く。引き抜かれた身体の脚が床を擦る。擦る音が出ない。音が出ないのに、擦った場所だけ床の模様が消えていく。黒い線が、擦った跡を追うように伸び、伸びた線の先が隔壁の隙間へ潜り込もうと薄くなる。薄くなった線に向けて、消火器の筒がまた弱く噴かれた。白い粉が隙間の前で塊になり、塊の縁で線が止まる。止まった線が、初めて苛立つみたいに小刻みに震え、震えの奥で食堂側の黒い入口の縦筋が太くなる。太くなった奥で顔のない輪郭の肩の位置だけが濃くなり、濃くなった肩が半歩だけ前へずれる。ずれたのに足音がない。足音がないまま、空気の重さだけが増え、増えた重さが喉の奥を押す。

隔壁の手動レバーに吸い付いていた手首の持ち主は、切り口を押さえたまま引きずられていた。押さえた指の腹が白い粉で滑り、滑るたびに切り口の縁が黒に触れそうになる。触れそうになるたび、誰かが体ごと引いて距離を取る。距離を取る動きが大きいほど粉が舞い、舞うほど床の黒が見えなくなる。見えなくなるのに足元が重くなる。重くなる足元の感覚が膝へ来る前に、隔壁の縁がぎり、とまた鳴った。鳴った直後、隙間がほんの僅かに狭くなり、その狭くなった分だけ、線の先が隔壁のこちら側から切り離されたみたいに揺れた。揺れた線が一瞬だけ薄くなり、薄くなった線が粉の塊の下を回り込もうとして止まる。止まったところで、誰かが給仕用の金属トレーを隙間へ押し込んだ。トレーが隔壁の縁に噛み、噛んだ金属が鳴りそうになって、鳴る前に音が消えた。音が消えた代わりに、トレーの反射が死ぬ。死んだ反射の中で黒が一筋だけトレーの縁をなぞり、なぞった黒がトレーの表面を薄くしていく。薄くなるトレーを見て、押し込んだ者が指を離した。離した指が一瞬だけ痺れたように固まり、固まった指先が自分のものではなくなる感覚が走る。走った感覚に耐え切れず、体が後ろへ跳ねる。跳ねた瞬間、隔壁がまた一段だけ滑り込み、トレーが中で折れ、折れた金属が音もなく黒に沈んだ。沈んだ場所の黒が一拍だけ濃くなり、その濃さが引きちぎられたみたいに隔壁の隙間から奥へ引っ込む。引っ込むと同時に、隙間の縁が黒く沈んだまま止まった。止まった沈みの向こう側で、二つの同じ顔が白い粉の霧の中に薄く見えた。口角だけが動く。目は動かない。二つの口が同時に形だけを作って、同じ短い音が落ちた。「遅い」音は隔壁に遮られて丸くなり、丸くなった音の端だけがこちらに届いた。

隔壁の向こう側へ転がり込むように移動した一団は、次の区画の床へ倒れた。倒れた床はまだ乾いている。乾いているのに、さっきまでの黒の匂いが服の繊維から抜けない。抱えられていた者は床に横たえられ、胸が浅く上下する。脚は動かない。動かないのに、脚の形だけはそこにある。そこにある形が遠い。手首を切った者は壁に背を付けたまま、切り口を押さえる指を動かせない。動かせない指の白さが増え、白さの中身が抜けていく。誰も言葉を続けられず、吐く息だけが増える。増えた息の湿り気が、白い粉の乾きと混じって喉をざらつかせる。ざらつきを飲み込む動きだけが大きくなり、飲み込むたびに胃が空であることを思い出す。食堂は隔壁の向こうに残った。残った食堂の床の黒が、今も進んでいる気配だけが残る。区画の片隅に非常灯があり、赤い光が薄く点いていた。赤い光の下で、誰かが缶詰の箱を引き寄せた。引き寄せた箱の角が床を擦った。擦った音に全員が一斉に呼吸を止める。止めた呼吸の沈黙の中で、何も起きないことを確かめるように、誰かが缶を開けた。開ける金具の小さな音が続き、続いた音の途中で観測窓の外灯が一度だけ強く揺れた。

窓の向こうは、白い粉ではなく白い泡だった。泡の奥に太い影が横倒しになり、尾が大きく振られている。尾が振られるたび、潜水艦が小さく揺れ、棚の中の器具が微かに鳴る。影の腹側へ、幾つもの長い腕が絡みついている。腕の先に並ぶ吸盤の輪郭が、外灯の光を横切る瞬間だけ見える。見えた直後に、濃い黒が爆ぜた。インクが外灯の円錐を飲み、飲まれた光の向こうで、太い影が一度だけ大きく跳ねた。跳ねた衝撃が遅れて艦に届き、床がごく僅かに持ち上がって戻る。戻った床の上で、缶詰の中身が揺れ、揺れた油が光を歪める。歪んだ光の中で、缶の中身を口へ運ぶ箸が止まった。止まった箸の先で、誰かが噛む。噛む音が小さく鳴り、鳴った音に全員の肩が一斉に固くなる。固くなった肩のまま、誰も窓から目を離さない。外のインクが薄く流れ、流れの切れ目で、長い腕が一斉に締まるのが見えた。締まった瞬間、太い影が頭を振り、振った頭の動きがそのまま突っ込む形になる。泡が爆ぜ、インクがまた膨らみ、外灯の光が吸われて窓の外が黒くなる。黒くなるたび、内側の非常灯の赤さが濃く感じられ、赤い光の下で食べ物の匂いだけが現実みたいに残る。飲み込む動作が続く。飲み込むたび、胃が空なのに、喉だけが満たされない。隔壁の向こう側から何かが来る音はない。ないのに、誰も安心して噛めない。噛みながら窓を見る。窓の外でぶつかり合う影の重さが、今だけは外側の世界を塞いでいるように見える。塞いでいるのが救いなのか、次の衝撃の予告なのか、判断する前に、潜水艦がまた一度だけ小さく揺れた。


揺れが止まったあとも、艦の中の物音が戻らなかった。棚の金具も、床のきしみも、呼吸の湿り気も、全部が粉に吸われたまま残っている。非常灯の赤だけが薄く点いて、赤の下で缶の金属の縁が鈍く光る。光り方が弱いせいで、食べ物の色が灰色に寄り、油の匂いと消火器の粉の匂いが同じ層で喉に張り付く。

缶詰の中身を口に運ぶ手が、途中で止まる。止まった箸先の震えは寒さじゃない。震えの理由を決めると、次の瞬間にその理由が裏切られる気がして、理由を持てない震えだった。噛む音が小さく鳴るたび、肩が固くなる。固くなった肩のまま窓を見る。

外灯の円錐は、インクに食われたり戻ったりを繰り返していた。白い泡が走って、太い影が横倒しのまま尾を振る。尾が振られると艦が小さく揺れる。揺れに合わせて、非常灯の赤い光が床の粉の上を滑る。滑った赤が、誰かの靴底に残った黒い沈みを一瞬だけ浮かび上がらせた。浮かび上がった沈みは濡れではなく、光の死んだ跡だった。

横倒しの影の腹側に、腕が絡む。吸盤の輪郭が一瞬だけ見えて、次の瞬間には見えなくなる。見えなくなるのはインクのせいだ。インクが広がるたび、内側の空気が少しだけ重くなる。重くなるのに、誰も口に出せない。口に出したら、重さの正体が確定してしまう。

缶を抱えた者が、飲み込む。飲み込んだ喉が鳴り、鳴りが小さく壁に跳ねる。跳ねた音の端が丸くなる。丸くなる音を聞くと、隔壁の向こうの食堂の黒がまだ動いている気がする。動いている気がするまま、視線が隔壁の縁へ落ちる。縁は閉じ切っていない。隙間は残っている。隙間の内側は黒く沈んだまま、白い粉がそこだけ薄い。

手首の切り口を押さえている者の指が、動かない。押さえる力があるのに、押さえている感覚がない。血が出ていない。出ていない血の代わりに、切り口の縁が白い。白さが粉の白さではなく、皮膚の白さだった。白さの境目が妙に滑らかで、切れたはずの線が最初からそういう線だったみたいに見える。

「……動くな」

言った声は小さい。命令ではなく、注意の形だけだった。注意の対象は足元だった。誰もが白い粉を踏まないようにしている。踏めば舞う。舞えば隙間が出来る。隙間が出来れば黒が戻る。戻る黒を見た瞬間、また隔壁の向こうへ引き返せないことを思い出す。

横たえられた者の胸が浅く上下する。上下するたび、喉の奥で小さな音が鳴る。鳴る音が呼吸の音なのか、歯の鳴りなのか判別できない。脚は動かない。動かない脚の形だけがそこにある。形だけが残ると、そこが空洞みたいに見えてくる。空洞に見えてくるのに、布の皺は確かに脚の皺として存在している。その矛盾が目を疲れさせる。

棒を持っていた者は、棒をもう持っていない。握っていた指が固まって開かず、固まった指の腹の色が、少しだけ沈んでいる。沈みは汚れではなく、皮膚の下で光が戻らない沈みだった。指の関節が白い粉を払うたび、白い粉が吸い付かずに滑り落ちる。滑り落ちる粉の落ち方が、普通の粉の落ち方と違う。落ちた粉が床の一点へ集まる。集まった粉の下が、ほんの僅かに暗い。

誰かがその暗さに気づいた瞬間、全員が同じ場所を見る。見るのが遅れても意味がない。遅れて見た視線も、そこへ引っ張られる。暗さの縁が、白い粉の粒の間を縫うように伸びた。伸びたのに盛り上がらない。盛り上がらないまま、粉の粒だけが薄く沈んでいく。沈んだ粒の下で、床の模様が一列だけ消える。消えた列が、隔壁の隙間へ向いている。

「……こっちもだ」

誰かが言う。言った声が喉で擦れ、擦れた音の後に咳が来そうになって、咳を飲み込む。飲み込んだ喉の動きで、床の暗さが一拍だけ脈打つ。脈打つ動きは遅い。遅いのに確実で、確実な遅さが嫌だった。

窓の外で、尾が大きく振られた。振られた尾が泡を爆ぜさせ、爆ぜた泡の向こうに腕が一斉に締まるのが見える。締まった瞬間、太い影が頭を振り、振った頭がそのまま突っ込む。突っ込んだ先で、インクがもう一度膨らむ。インクが膨らんだ瞬間、内側の床の暗さが一段だけ濃くなる。濃くなる速度が、外のインクの膨らむ速度と揃う。

揃ったことに気づいた者が、唇を噛む。噛んだ歯の音が小さく鳴る。鳴った音に合わせて、隔壁の隙間の黒い沈みが、ほんの僅かに伸びた。伸びた沈みが隙間から床へ垂れようとして、垂れずに止まる。止まった沈みの先端が、床の暗さの列と同じ方向を向く。

この区画の壁際に、配電箱の扉がある。扉の取っ手に白い粉が付いている。付いている粉の形が指の形で、指の形の上に、もう一つ別の指の形が重なっている。重なっている形を見た瞬間、誰かが自分の手を見てしまい、自分の手のどの指がどこに触れたか思い出せなくなる。

缶詰の匂いが、急に薄くなった。薄くなったのではない。喉が匂いを拾えなくなった。拾えなくなった喉の代わりに、耳が拾う。拾ったのは、隔壁の向こうからではない。足元からでもない。

天井の配管の継ぎ目が、一度だけ鳴った。水滴の音ではない。金属が擦れる音でもない。薄い膜が引き剥がれるみたいな、短い音だった。

見上げた者がいた。見上げた視線が配管の継ぎ目で止まり、止まったまま瞬きを増やす。継ぎ目の辺りの白い粉が、そこだけ薄い。薄い粉の下から、黒い点が一つ覗いている。覗いている点は落ちない。落ちないまま、点の周囲の粉だけが沈む。沈んだ粉の輪郭が、点の輪郭をはっきりさせる。

「落ちるぞ」

誰かが言った直後、点が落ちた。落ちたのに跳ねない。跳ねずに床へ張り付く。張り付いた黒が薄く広がり、広がりながら床の暗さの列と繋がろうとする。繋がろうとする方向が、横たえられた者の胸の方へ向いている。

動こうとしても、足元が重い。重いのに沈まない。沈まない重さが膝を折らせる。膝を折る前に、誰かが横たえた者の肩を掴んで引く。引いた肩が粉を舞わせ、舞った粉の隙間から床の黒が覗く。覗いた黒が引いた腕の肘へ向けて伸び、伸びた縁が切り口の手首へ向けて角度を変える。角度を変える動きが、測る動きだった。

隔壁の隙間が、ぎり、と鳴った。鳴った直後、隙間の黒い沈みが一度だけ脈打つ。脈打った沈みと同時に、床の黒い点が一段濃くなる。濃くなった点の中心が、縦に細く伸びる。伸びるのに柱にならない。柱になる前の形のまま、そこに奥行きを作る。

赤い非常灯の光が、縦の細さを照らさない。照らさないのに、その細さが見える。見える細さの向こう側で、何かが立っている感じだけがある。

窓の外で、インクが少し薄くなった。薄くなった切れ目に、太い影が大きく跳ね、跳ねた腹側から腕が一瞬だけ外れる。外れた瞬間、吸盤の輪郭が外灯の光を横切る。横切った輪郭の形が、床の黒の縦の細さの先端と同じ形に見えてしまう。

見えてしまった瞬間、横たえられた者の胸が一拍止まった。止まった胸の上で、黒い点の縦の細さが、ほんの僅かにこちらへ傾いた。


傾いた細い縦は、倒れるでも伸びるでもなく、角度だけを変えて止まった。止まった先端が空気を押す。押された空気が、粉の粒を一列だけ沈める。沈んだ粉の列が床へ落ち、床の暗さの列と噛み合った。

誰も声を出せないまま、横たえられた者の肩が引かれる。引かれた体が床を擦る。擦る音は出ない。音が出ないのに、擦った跡だけが残る。粉の上に薄い線が引かれ、その線の下の床の模様が一列だけ消える。消えた列が、天井から落ちた黒い点の方向と揃う。

「……来てる」

ようやく出た声は掠れていた。掠れた声の端が、非常灯の赤い光の中で乾く。乾いた声の直後、縦の細さが、先端をわずかに下へ曲げた。曲げた角度が、横たえられた者の胸の高さに合う。合った瞬間、胸の上下が浅くなる。浅くなった呼吸の隙間を、黒が測るみたいに揺れる。

手首の切り口を押さえていた者が、押さえる指を動かそうとして動かせない。動かせない指の白さが増え、白さの縁が滑らかに延びる。延びた白さが粉の白さと混ざり、境目が消える。境目が消えた分だけ、切り口の「そこから先」が分からなくなる。

「光、もっと」

言った者が配電箱へ手を伸ばした。伸ばした手が途中で止まる。配電箱の取っ手に付いた粉の指跡が二重に見える。二重の指跡を見た瞬間、伸ばした手が自分の手ではない気がして、握る動作が遅れる。遅れた動作の隙間へ、床の暗さの列が一センチだけ進む。

窓の外で、尾が振られた。振られた衝撃が艦に届き、天井の配管が微かに鳴る。鳴った継ぎ目から黒い点がもう一つ落ちる。落ちた点は跳ねずに床へ張り付き、張り付いた瞬間に縦の細さと繋がる。繋がった途端、縦が少し太くなる。太くなった縦の向こう側に、顔のない輪郭の肩の位置が濃く出る。

配電箱の取っ手を掴んだ手が震え、震えた指が取っ手を引く。扉が開き、内部の計器の小さな表示灯が見える。表示灯の光は弱い。弱い光が黒を照らさない。照らさないのに、黒はその方向を知っているみたいに、縦の先端を僅かに向けた。向けた先で粉が沈み、沈んだ粉の下から床の模様が消える。消えた列が配電箱の足元へ寄る。

誰かが床の消火器を引き寄せ、レバーを握ろうとして握れない。指の腹が粉で滑り、滑った指先が床の暗い列に触れそうになって止まる。止まった指の震えが増える。増えた震えの分だけ粉が舞い、舞った粉の隙間から黒い点の縦がはっきりする。はっきりした縦が、今度はゆっくりとこちらへ傾く。傾きは転倒ではない。入口が向きを変える傾きだった。

「動くな、粉を踏むな」

言いながら、言った本人が一歩引いてしまう。引いた靴底が粉を潰し、潰れた粉の下から暗さが戻る。戻った暗さの縁が足元へ吸い付こうとして、吸い付いた瞬間に靴底が重くなる。重くなった足が止まり、止まった足の膝が震える。震えが床へ落ちる前に、誰かが腕を掴んで引く。引いた腕が粉を舞わせ、舞わせた粉の隙間に黒が入り込む。

縦の先端が、床へ落ちた黒い点と繋がったまま、細い線を一本だけ伸ばした。伸ばした線は床を這わない。空中を切るように、横たえられた者の胸の上へ向く。向いた線の先が、呼吸の上下に合わせて一度だけ揺れた。揺れた直後、横たえられた者の胸がまた一拍止まる。

止まった胸を見て、抱えていた者が顔を近づける。近づけた頬の産毛が逆立つ。逆立った産毛が空気の重さを拾い、拾った重さが喉を締める。締まった喉で声が出ない。出ない声の代わりに、手が胸へ伸びる。伸びた手が胸板へ触れた瞬間、触れた指の腹の感触が薄くなる。薄くなった感触の上で、胸が小さく上下する。上下が戻ったことに安心できない。戻った呼吸が、黒に測られている。

「ここ、捨てる。次へ」

言った声は短いのに、息が長く漏れた。漏れた息の湿りが粉に吸われ、吸われた湿りが床の暗さの列を一段濃くする。濃くした列が、出口の方向へ向き直る。向き直るのに回転の動きはない。奥行きの向きだけが変わる。

出口の隔壁へ向かって走ろうとしても走れない。足が重い。重いのに沈まない。沈まない重さが足首を固め、膝だけを折らせる。折れる前に、二人が横たえられた者の腕と脇を掴み、ずるりと引く。引かれた体が粉の上を滑り、滑った粉の筋が床に残る。残った筋の下の模様が消え、消えた線が黒い点と繋がりかけて止まる。止まったのは粉の層があるからだ。だが粉の層が薄い。薄くなる速度が、さっきより速い。

窓の外で、インクがまた膨らんだ。膨らんだ瞬間、縦の先端が一段濃くなり、空中の線がほんの僅かに太くなる。太くなった線が、横たえられた者の胸の上で止まり、止まったまま、ゆっくりと下へ降りようとする。降りようとする先が胸の中心だった。

「伏せろ!」

誰かが叫び、叫んだ直後に自分の声を飲み込む。飲み込んだ声の震えが咳になりかけて止まる。止まった喉の奥で、息が浅くなる。浅くなった息に合わせて、空中の線がまた揺れた。

誰かが缶詰を投げた。投げた缶が赤い非常灯の下を飛び、飛んだ缶が空中の線の下を横切る。横切った瞬間、線が一拍だけ止まる。止まったのは缶のせいではない。缶が空気を切った音がなかったのに、缶の質量が空気を押した分だけ、線の測りが狂った。

止まった一拍で、横たえられた者が引きずられ、出口の隔壁へ近づく。隔壁の取っ手に手が伸びる。伸びた手が取っ手を掴んだ瞬間、取っ手の冷たさが来ない。来ない冷たさの代わりに、金属の反射が一段沈む。沈んだ反射を見て、掴んだ手が離れそうになって止まる。離したら開けられない。掴んだまま力を入れ、取っ手を回す。回った金属が鳴りそうになって、鳴る前に音が消える。音が消えたのに、手のひらだけが痺れる。

隔壁が開く。開いた隙間から、次の区画の空気が流れ込む。流れ込む空気が粉を引き、粉が一斉に吸い寄せられて舞う。舞った粉の隙間で、床の黒い点の縦が一段太くなる。太くなった縦の向こう側で、顔のない輪郭が、肩の位置だけをこちらへずらした。

「走れ!」

走れない。だが走る以外がない。抱えた腕が最後の力で体を引きずり、引きずられた体が隔壁を越える。越えた瞬間、空中の線が隔壁の縁へ触れた。触れた場所の粉が一列だけ消え、消えた粉の下から黒が戻る。戻った黒が隔壁の縁をなぞり、なぞった黒が縁の反射を殺す。殺された反射の中で、空中の線が薄くなり、薄くなった線が隙間へ滑り込もうとする。

隔壁を閉めようとした手が、粉で滑る。滑った手の指が一度だけ縁に触れ、触れた指先の感覚が薄くなる。薄くなった感覚に耐え切れず手を引く。引いた手が震え、震えの先で隔壁が半分閉まる。半分閉まった瞬間、空中の線がその隙間に合わせてさらに薄くなる。薄くなった線が、今度は確実に隙間へ入る。

窓の外で、白い泡が爆ぜた。爆ぜた泡の向こうで太い影が大きく跳ね、跳ねた衝撃が艦に届く。届いた揺れで隔壁ががくりと動き、隙間が一瞬だけ狭くなる。狭くなった一瞬で、薄い線の先端が隔壁に挟まれた。挟まれたのに、ちぎれない。ちぎれないまま、線が震える。震えの奥で、食堂側の黒い縦が太くなり、太くなった奥行きがこちらへ押し込もうとする。

誰かが隔壁を両手で押した。押した掌の白い粉が落ち、落ちた粉の下から黒が覗く。覗いた黒が掌へ寄ろうとして止まる。止まったのは粉の層があるからだ。だが粉が薄い。薄い粉の下で、黒が確実に回り込んでいる。

押し込んだ隔壁が、ようやく終端へ噛み合う音を立てた。音は小さい。小さいのに全員がそれを聞き、聞いた瞬間に呼吸が一斉に戻る。戻った呼吸の湿りが粉を濡らし、濡れた粉が床に貼り付く。

貼り付いた粉の上で、全員の視線が一点へ揃う。

隔壁の継ぎ目の下、床の模様が一列だけ消えていた。

隔壁の継ぎ目の下で、床の模様が一列だけ消えていた。

白い粉の膜の上に、定規で引いたみたいな暗さがある。暗さは濡れの暗さじゃない。光が戻らない暗さだった。非常灯の赤が当たっても色が変わらず、赤の中でそこだけ輪郭が鋭い。

誰かが息を止めたまましゃがむ。しゃがんだ膝が粉を潰し、潰れた粉が薄く散る。散った粒の下で、暗い列が少しだけ太く見えた。太く見えたのは錯覚じゃない。粉の粒が沈んだ分だけ、暗さの面が増えている。

「触るな」

声は小さい。言った口が乾いていて、舌が上顎に貼り付いた音が混じる。しゃがんだ者の手が止まり、止まった指が空中で震える。震えが粉を落とし、落ちた粉が暗い列の上でだけ沈む。沈む沈まないの差が、線をさらに目立たせる。

横たえられていた者の胸が浅く上下し、その上下のたびに喉が鳴る。鳴る音は小さいのに、隔壁の継ぎ目の暗さが一拍遅れて脈を打つ。脈を打った暗さが、継ぎ目から床へにじむように広がりかけて止まる。止まるのは粉の層があるからだ。だが粉の層は薄い。

消火器の筒が床を擦る。擦った音が出ない。音が出ないまま筒が引き寄せられ、噴口が継ぎ目の下へ向けられる。レバーを握る指が滑り、滑った指先が粉の上で一度だけ止まる。止まった指の腹が白い。白いのに、粉が付いていない白さだった。

弱く噴いた粉が、継ぎ目の下へ積もる。積もった粉がすぐに沈む。沈む粒の中心から暗さが覗き、覗いた暗さが粉の下で一本の筋になる。筋が床の模様の溝を拾い、拾った溝に沿って一センチだけ進む。進むのに盛り上がらない。盛り上がらないまま、模様だけを消していく。

「黙れ」

言った声が反射で出る。言った本人が口を押さえる。口を押さえた掌の湿りが粉を濡らし、濡れた粉が掌に貼り付く。貼り付いた粉の形が指の形のまま残り、その指の形の縁がゆっくり沈む。沈むのを見て、掌が離れる。離れた掌の中心が白い。

誰もそれ以上近づけないまま、体が後ろへずれる。ずれる足が粉を潰し、潰れた粉がまた沈む。沈みが連鎖して、継ぎ目の下の暗い列がわずかに長くなる。長くなる方向が、さっき通ってきた区画への方向ではない。人の集まっている方へ寄る。

壁際の棚に置きっぱなしだった缶詰が転がっている。投げられた缶だ。缶の側面に赤い非常灯の光が当たり、金属の反射が鈍い。鈍い反射の縁が、一瞬だけ暗い列と同じ死に方をして見えて、見た者が目を逸らす。逸らした目が窓へ戻る。

窓の外は、まだ黒い。インクの濃さが薄くなった切れ目で、白い泡が走る。太い影が横倒しのまま尾を振る。尾が振られるたび、艦が小さく揺れ、揺れに合わせて床の粉が微かに滑る。滑った粉が継ぎ目の暗い列に寄り、寄った粉が沈む。沈んだ分だけ暗い列が太る。

誰かが缶の蓋を開け直した。開ける金具の音は小さいはずなのに、粉の中でやけに目立つ。目立った音に反応するみたいに、継ぎ目の暗さが一拍だけ脈打つ。脈打ちの直後、暗い列から細い点が一つ、床の模様の隙間へ落ちるように消えた。消えた場所が、ほんの僅かに深く見える。

缶の中身が箸先で持ち上げられる。油が赤い光を歪め、歪んだ光が床へ落ちる。落ちた光の端が暗い列に触れた瞬間、光がそこで途切れる。途切れた境目が刃みたいに見えて、箸が止まる。

「食う」

短い声だった。食うと言った口が乾いて、舌がまた上顎に貼り付く。言った者が一口だけ噛む。噛む音を出さないように顎が動き、動いた頬の筋肉が震える。飲み込む動作が遅くなる。遅くなるほど、喉の鳴りが怖くなる。

窓の外で、長い腕が一斉に締まる。締まった瞬間、太い影が頭を振り、振った頭がそのまま突っ込む。泡が爆ぜ、インクがまた膨らむ。外灯の円錐が一気に食われ、窓の外が黒くなる。

黒くなった瞬間、隔壁の継ぎ目の暗い列が一段濃くなる。

濃くなった列の端が、粉の下でゆっくりと広がり始める。広がりは円ではない。溝を拾って、拾った方向だけに伸びる。伸びる先が、缶を持っている手の方へ向いている。向いているのに誰も動けない。動けば粉が舞う。舞えば線が増える。

缶を持っていた手が、そっと缶を床へ置いた。置いた瞬間、缶の底が粉を潰し、潰れた粉が沈む。沈んだ粉の輪郭が缶の丸い形を残し、その丸の縁だけ暗くなる。暗くなった縁が、継ぎ目の暗い列と繋がりそうになって止まる。止まったところで、誰かが缶を蹴って遠ざけた。蹴った音は出ない。出ないのに、缶が転がる振動だけが床へ伝わり、床の暗い列が一拍遅れて脈を打つ。

「ここ、捨てる」

さっきと同じ短さ。息が漏れる。漏れた湿りが粉を濡らし、濡れた粉が沈みやすくなる。沈みやすくなった粉の上で暗い列がまた一センチ伸びた。

出口の隔壁の方へ視線が揃う。隔壁までの床に粉が薄い筋になって残っている。筋はさっき引きずった跡だ。跡の下の床の模様が、ところどころ消えている。消えた箇所が点々と繋がり、繋がりが線になろうとしている。

誰かが横たえられた者の脇へ手を入れ、もう一人が足を持ち上げようとして止まる。足を持ち上げた瞬間に足首が重い。重いのに沈まない。沈まない重さのせいで、持ち上げた側の肘が震える。震えが粉を舞わせる前に、肩で押さえるように体勢を変え、体を滑らせる。滑らせる動きが遅い。遅い方が粉が舞わない。遅い動きの間に、継ぎ目の暗い列がまた脈を打つ。

配電箱の表示灯が、一度だけ瞬いた。瞬いた一瞬の暗さの中で、床の暗い列が少しだけ前へずれたように見える。暗さが戻ると、列は確かに前へ伸びている。錯覚じゃない。

窓の外で、インクが薄く流れた。流れの切れ目に吸盤の輪郭が一瞬だけ見え、見えた瞬間に内側の床の暗い列がまた濃くなる。外と内が揃うたび、喉が勝手に乾く。

「行く」

誰かが言う。言った声が小さすぎて、自分でも聞き取れない。聞き取れない声の代わりに、足が動く。動いた足が粉を潰し、潰れた粉が沈む。沈む粉の列が、背後の暗い列へ誘導線を作るみたいに繋がっていく。繋がる前に、隔壁の取っ手が回される。回る金属が鳴りそうになって、鳴る前に音が消える。音が消えたのに、手のひらだけが痺れる。

隔壁が開いた瞬間、空気が流れ込む。流れ込む空気が粉を引き、粉が一斉に舞う。舞った粉の隙間で、背後の暗い列が一段太くなり、太くなった先端が縦に細く伸びる気配を見せた。気配だけで、全員が同じ速度で動き出す。

横たえられた体が滑り込む。切り口を押さえた手首が床に触れないように持ち上げられる。持ち上げた腕が震え、震えが粉を落とす。落ちた粉の粒が背後の暗い列の上でだけ沈む。

隔壁が閉まり始める。閉まる途中で、背後の縦の気配がわずかに傾いた。傾いた先端が、こちら側の床の筋を測るみたいに揺れる。揺れの幅が呼吸の幅と揃い、揃った瞬間に誰かの胸が一拍だけ止まった。止まった胸が戻る前に、隔壁が噛み合う。噛み合う音は小さい。小さいのに、背後の暗い列が一拍遅れて脈を打つ。

脈を打ったあと、何も鳴らない。

何も鳴らない静けさの中で、こちら側の床にも、粉の下で一列だけ模様が消えているのが見えた。


こちら側の床にも、粉の下で一列だけ模様が消えているのが見えた。

見えた瞬間、誰も声を出さない。出さないまま、全員の視線が同じ線を追う。追った先は隔壁の継ぎ目ではなく、通路の中央へ向いていた。中央へ向かった線は途中で途切れず、粉の粒だけがそこだけ沈む。沈んだ粒の列が、床の溝を拾って伸びる。伸びるのに盛り上がらない。盛り上がらないまま光だけを殺す。

担がれた体が一度だけ身じろぎした。身じろぎの擦れが出ない。音が出ない代わりに、胸の上下が止まりかけて戻る。戻った呼吸が浅い。浅い呼吸の端が喉で鳴り、その鳴りに一拍遅れて線の暗さが脈を打つ。脈の後、線が一センチだけ前へ進む。

消火器の筒がまた引き寄せられ、噴口が線の上へ向く。粉が弱く噴き、床に積もる。積もった粉がすぐ沈む。沈みが線の形を浮かび上がらせ、浮かび上がった輪郭がさらに鋭くなる。鋭くなるほど、線の端が「次」を向いているのが分かる。向いているのは人の集まっている場所ではなく、通路の奥、別の隔壁の足元だった。

誰かが手で合図を出す。動きは小さい。小さいのに粉が舞う。舞った粉の隙間に黒が覗く。覗いた黒が線の延長として繋がり、繋がった瞬間、靴底が重くなる。重いのに沈まない。沈まない重さが足首を固め、膝だけを折らせる。折れる前に肩を掴まれて引かれ、引かれた肩が粉を払う。払った粉が線の上でだけ沈む。

通路の奥で、金属の小さな音がした。鳴ったのは器具ではない。隔壁の取っ手が、誰も触れていないのにほんの僅かに動いた音だった。動いた音の後、取っ手の反射が一段沈む。沈んだ反射の縁が、床の線と同じ死に方をする。

外で、鈍い衝撃が入った。潜水艦が小さく揺れ、天井の配管が微かに鳴る。鳴りの直後、配管の継ぎ目から黒い点が落ちた。落ちた点は跳ねずに床へ張り付く。張り付いた瞬間、床の線へ向けて細い筋が一本伸びる。伸びた筋が粉の粒の間を縫い、縫った先で線と繋がる。繋がったところから暗さが太り、太った暗さが通路の奥へ向けて一段速く進む。

担いでいる者が、体を滑らせるように前へ運ぶ。足を上げない。上げれば粉が舞う。粉が舞えば線が増える。滑らせた靴底が粉を潰し、潰れた粉が沈む。沈む粒の列が足跡として残り、残った足跡の縁がゆっくり暗くなる。暗くなる前に、次の足が同じ場所を踏まないように位置がずれる。ずれた先に、もう一本の薄い消えがある。消えが二本になると、床の模様が帯状に消える。帯が出来ると、通路の幅が減る。

壁際の棚に、非常用の毛布が束ねてある。毛布が粉を被って灰色になっている。誰かが毛布を掴む。掴んだ指が滑る。滑った指の腹の感触が薄い。薄い感触のまま毛布を引き剥がすと、粉が舞い上がる。舞い上がった粉の下で床の線が一拍だけ脈を打つ。脈の後、線が毛布の影をなぞって伸び、伸びた先で毛布の端が黒く沈む。沈んだ端が、布の繊維を保ったまま固定される。固定された端が床へ貼り付く。貼り付いたところから布の反射が死ぬ。

掴んだ手が毛布を放す。放した指が一瞬だけ固まる。固まった指の白さが増え、粉が付いていないのに白い。白さが戻らないうちに、通路の奥の隔壁へ近づく。

隔壁の前の床は、すでに粉が薄い。薄い粉の下で、模様の消えが点々と続いている。点が線になろうとしている。線になる前に取っ手へ手が伸び、伸びた掌が取っ手を掴む。掴んだ冷たさが来ない。来ない代わりに、金属の表面が滑る。滑った表面の中で反射が死に、死んだ反射の中に自分の指の形が映らない。

取っ手が回される。回るはずの音が出ない。出ない音の代わりに、回った瞬間に床の線が一拍だけ濃くなる。濃くなった線が隔壁の足元へ向けて伸び、伸びた縁が隔壁の下端を舐めようとして止まる。止まったのは粉の層がそこだけ厚いからだ。だが厚い粉が、すぐ沈む。

隔壁が開く。開いた隙間から空気が流れ込み、粉が一斉に引かれて舞う。舞った粉の隙間で、床の線が一段太くなる。太くなった線の中心が縦に細く伸びる気配を見せる。気配だけで喉が締まり、締まった喉で息が浅くなる。浅い息の上下に合わせて、縦の気配がわずかに揺れる。

担がれた体が隔壁を越える。越えた瞬間、床に残った粉の筋が途切れる。途切れた筋の端が暗く沈み、沈んだ端が隔壁の継ぎ目へ向いて伸びる。伸びる方向が、さっきと同じだと分かった瞬間、隔壁を閉める手が速くなる。速くすると粉が舞う。舞った粉の下で線が増える。増える前に、隔壁が噛み合う。噛み合う音は小さい。小さいのに、背後の床が一拍遅れて脈を打つ。

脈の後、背後が静かになる。静かになったのに、安心できない。静かになったからこそ、どこが動いているか分からない。

次の区画は狭い。床が低く、天井の配管が近い。片側に観測窓があり、外灯の光が薄く届いている。窓の外はまだ黒い。黒の中で白い泡だけが走り、走った泡の切れ目に太い影が一瞬だけ現れる。尾が振られ、腕が締まり、また黒に飲まれる。飲まれるたびに艦が微かに揺れ、揺れのたびに床の粉が滑る。滑った粉が溝へ寄り、寄った粉が沈む。

横たえられた体が床へ置かれる。置かれる動作は遅い。遅いのに粉が舞う。舞った粉の隙間に、床の模様の消えがひとつ見える。消えは点だ。点はまだ線になっていない。だが点の周囲の粉が沈む。沈んだ輪郭が点をはっきりさせ、はっきりした点の中心が縦に細く伸びる気配を見せる。

誰かが窓の方へ目をやり、外灯の光を確かめる。確かめた直後に目が床へ戻る。戻った視線の先で、点の縦の気配が、今度は確かに「立つ」形を作り始めていた。立つのに盛り上がらない。奥行きだけが増えていく。

配管の継ぎ目が、また一度だけ鳴った。薄い膜が引き剥がれるみたいな短い音。その音の直後、窓の外で泡が大きく爆ぜ、外灯の円錐が一瞬だけ白く膨らむ。膨らんだ白の中に、太い影の頭がこちらを向いたように見えた。見えた次の瞬間、内側の床の点が脈を打つ。

脈の後、点の縦がほんの僅かに傾く。傾いた先が、横たえられた体の胸の高さに合う。

誰かが息を吸いかけて止め、止めた息の代わりに唾を飲み込む。飲み込んだ喉の鳴りに合わせて、縦の先端が一拍だけ揺れた。揺れの幅が、胸の上下の幅と揃う。

窓の外が、また黒に沈んだ。


窓の外が黒に沈むと、外灯の光が艦内へ戻ってこない気がした。戻ってこない気がしたまま、非常灯の赤い光だけが床の粉を照らし、粉の上の点の縦が、赤の中でも輪郭だけを持つ。輪郭だけの縦が傾いたまま止まり、止まった先端が横たえられた体の胸の高さを測るみたいに揺れる。揺れの幅が呼吸の幅と揃う。揃った瞬間、胸の上下がさらに浅くなる。

誰かが横たえられた者の口元へ耳を寄せる。寄せた耳の産毛が逆立ち、逆立った感覚が、音ではなく圧を拾う。拾った圧が、鼻の奥を押す。押された鼻の奥で息を吸うと、消火器の粉の乾きが喉に刺さる。刺さった瞬間、床の点が一拍だけ脈を打った。脈の後、点の周囲の粉の粒が沈み、沈んだ輪郭が点を太らせる。太った点の中心が、縦へ伸びる気配を強くする。

「動かすな」

また小さい声。言った者の口がほとんど動かない。声を落とすと舌が上顎に貼り付く。貼り付いたまま、手だけが動く。医療箱が壁の棚から引かれる。棚の金具が鳴りそうになって、鳴る前に音が消える。消えた音の代わりに、箱の取っ手の反射が一段沈む。沈んだ反射の縁が、床の暗い列と同じ死に方をして見え、目が勝手にそこへ引っ張られる。

箱の蓋が開く。布の包帯、止血帯、ハサミ。ハサミの金属が赤い光を返す。返した光が床の点へ触れ、触れたところで光が途切れる。途切れた境目が刃の形に見え、ハサミを取る指が一瞬だけ止まる。止まった指先の震えが粉を落とし、落ちた粉の粒が点の上でだけ沈む。沈んだ粒の中心から暗さが覗き、覗いた暗さが点の縁をさらに鋭くする。

切り口を押さえている手首の白さは戻らない。包帯を巻こうとすると、包帯の端が粉を払ってしまう。払われた粉の隙間に床の模様の消えが覗き、覗いた消えが点へ繋がろうとして止まる。止まったところで、外から鈍い衝撃が入った。艦が小さく揺れ、床の粉が滑る。滑った粉が溝へ寄り、寄った粉が沈む。沈みが一斉に起き、点の周囲の沈みが一段増える。増えた沈みの分だけ、縦の気配が太く見える。

揺れの直後、窓の外で白い泡が一瞬だけ走った。黒の切れ目で、太い影が横倒しから立ち直りかける。尾が振られ、長い腕が一斉に締まる。締まった瞬間、艦の外板に硬い振動が伝わる。振動が艦内へ届くと、床の点の縦が一度だけ痙攣みたいに震えた。震えた先端が半拍遅れて戻り、戻った角度が少しだけずれる。ずれた分だけ、胸の高さを外す。

外した一拍が、逃げ道になる。

二人が横たえられた体の脇へ手を入れ、もう一人が足を持ち上げる。足を上げない。滑らせる。滑らせる動きが遅いほど粉が舞わない。舞わないように力を掛けると、筋肉が震える。震えが床へ落ちる前に、歯を噛む。噛む音が出ないように顎を固める。固めた顎の内側で唾が溜まり、唾を飲み込めない。

体が床の上をずるりと進む。進んだ筋の下の床の模様がところどころ消え、消えが点になって残る。点が並ぶと線になろうとする。線になりかけた瞬間、消火器がもう一度弱く噴かれ、粉が点の上へ落ちる。落ちた粉が沈み、沈む粒が点の輪郭をさらに鋭くする。鋭くなった点の中心が、また縦へ伸びる気配を作る。気配が戻る前に、次の隔壁へ手が伸びる。

隔壁の取っ手を掴む冷たさが来ない。来ない代わりに、掌が痺れる。痺れが指へ走り、走った痺れが粉を払ってしまう。払った粉の隙間で、床の点の縦が少しだけ太くなる。太くなった縦の先端が、今度は隔壁の足元の溝へ向いた。向いた先で粉の粒が沈む。沈んだ粒の列が、床の模様を一列だけ消しながら伸びる。伸びる先が、隔壁の継ぎ目の下へ向いている。

取っ手が回され、隔壁が開く。開いた隙間から空気が流れ込み、粉が引かれて舞う。舞った粉の隙間で、床の点が一段濃くなる。濃くなった点の中心が縦に立つ。立つのに盛り上がらない。奥行きだけが増えていく。増えた奥行きの先で、何かが立っている感じだけがある。顔はない。肩の位置だけが濃く、胸の高さがこちらへ揃う。

「早い」

声が出た。出た声の端が乾き、乾いた音が床へ落ちる前に粉が吸う。吸われた音の丸さに合わせて、縦の先端が一拍だけ揺れた。揺れの幅が人の呼吸に合う。合った瞬間、横たえられた者の胸が一拍止まる。止まった胸の上へ、縦の先端がほんの僅かに降りる。降りるのに風がない。風がないのに、産毛だけが逆立つ。

担いでいる腕が一気に力を入れる。力を入れた筋が痙攣し、痙攣が粉を落とす。落ちた粉が縦の下で沈む。沈んだ粉の中心から暗さが覗き、覗いた暗さが縦の輪郭をさらに鋭くする。鋭くなる前に、体が隔壁を越える。越えた瞬間、縦の先端が隔壁の縁へ触れた。触れた場所の粉が一列だけ消える。消えた粉の下から黒が戻る。戻った黒が縁の反射を殺し、殺された反射の中で縦が薄くなる。薄くなった縦が、隙間へ滑り込もうとする。

隔壁を閉める手が速くなる。速くなるほど粉が舞う。舞った粉の隙間で、縦がさらに薄くなる。薄くなったものが通るために、隙間が必要になる。必要な隙間を作るみたいに、隔壁の縁が一度だけぎりと鳴った。鳴った直後、閉まりかけた隔壁が僅かに戻る。戻った隙間へ、薄い縦の先端が入る。

入った瞬間、隔壁の取っ手を押している掌の痺れが強くなる。強くなる痺れが、掌の感覚を薄くする。薄くなると、押している力が自分の力ではないみたいに感じる。感じた瞬間、押す腕が揺れ、揺れが粉を落とし、落ちた粉が隙間の縁で沈む。沈んだ粒の中心から黒が覗き、覗いた黒が薄い縦と繋がり、繋がったところから隔壁の縁が黒く沈む。

窓の外で、白い泡が爆ぜた。爆ぜた泡の衝撃が艦に届き、隔壁ががくりと揺れる。揺れた一瞬で隙間が狭くなる。狭くなった縁が、入ってきた薄い先端を挟む。挟まれたのにちぎれない。ちぎれないまま震える。震えの奥で、薄い縦の向こう側の奥行きが一段濃くなる。

「押せ」

言葉が短いほど息が漏れる。漏れた湿りが粉を濡らし、濡れた粉が沈みやすくなる。沈みやすくなった粉の上で、隔壁の縁の黒い沈みが増える。増える沈みを見ないように、押す腕が最後の力で隔壁を押し込む。押し込んだ終端で噛み合う小さな音がした。音が小さいのに、薄い先端が一瞬だけ揺れを止める。止まった瞬間、薄い先端が隔壁の縁の黒い沈みへ引き戻されるみたいに消え、消えたところに粉だけが残る。

粉が残った縁を、全員が見ている。見ている間に、床の粉の下で模様の消えがまた一つ増える。増えた消えは点だ。点の中心が縦へ伸びる気配を作る。気配が立つ前に、窓の外で黒が薄く流れた。流れの切れ目に、吸盤の輪郭が一瞬だけ見える。見えた瞬間、床の点が脈を打つ。脈の後、点の縦がほんの僅かに傾き、傾いた先が、こちら側の呼吸の高さへ揃った。


点の縦がわずかに傾いたまま、呼吸の高さへ揃っている。揃うたびに、空気の重さが胸骨の裏へ押し込まれてくる。誰かが息を吸いかけて止め、止めた喉が鳴りそうになって唾を飲み込む。飲み込んだ瞬間、床の点が一拍遅れて脈を打ち、脈のあとに縦がほんの僅かに太くなった。太くなったのは「近づいた」せいではない。奥行きが増えたせいで、こちらの距離が削られたみたいに感じる。横たえられた者の胸が浅く上下し、その上下の幅に合わせて縦の先端が揺れる。揺れる先端は降りてこないのに、降りる手前の角度だけを作り続ける。降りる準備を、ここでずっとしている。

声は出せない。指で合図を出すと粉が舞う。粉が舞うと床の粒が沈み、沈んだ粒の列が増える。増えた列は点へ集まり、点を太らせる。だから合図も出来ない。視線だけが動き、視線だけで次の隔壁の取っ手へ揃う。取っ手の周りは粉が薄い。薄い粉の下で床の模様の消えが点々と続いている。点が並ぶ向きが、取っ手の真下を指している。誰かが膝をついて匍匐で近づく。匍匐なら粉が舞いにくい。だが肘が床を擦る。擦る音が出ない。音が出ないのに、肘の下の粉だけが沈み、沈んだ跡が線になりかける。線になりかけたところで、外から衝撃が来た。潜水艦の外板が鈍く震え、窓の黒の向こうで白い泡が爆ぜる。爆ぜた泡の切れ目に、マッコウクジラの太い胴が斜めに見え、その腹側へダイオウイカの腕が巻き付いているのが一瞬だけ分かった。腕が締まり、尾が振られ、艦が揺れる。その揺れの一瞬だけ、床の点の脈が途切れた。

途切れた半拍で、匍匐の手が取っ手を掴む。冷たさが来ない。痺れだけが掌に走り、走った痺れが指の力を薄くする。薄くなる指を自分で信じられないまま、取っ手を回す。回るはずの音が出ない。出ない音の代わりに、床の点がまた脈を打つ。脈と同時に縦の先端がわずかに揺れ、揺れの幅がこちらの息の浅さに合う。隔壁が開いた瞬間、空気が流れ込み、粉が引かれて舞う。舞った粉の隙間で床の点が濃くなり、濃くなった中心が縦に伸びる。伸びるのに盛り上がらない。奥行きだけが増えていく。増えた奥行きの向こう側で、肩の位置だけが濃く見えた。顔はない。胸の高さだけが揃い、揃った高さが横たえられた者の胸と同じになる。

担ぐ動きが始まる。足を上げない。滑らせる。滑らせる度に粉が潰れ、潰れた粉が沈む。沈んだ粒の列が床の模様を消し、消えが点を作る。点が並ぶ前に隔壁を越える。越えた瞬間、縦の先端が隔壁の縁へ触れた。触れた場所の粉が一列だけ消える。消えた粉の下から黒が戻り、戻った黒が縁の反射を殺す。殺された反射の中で縦が薄くなる。薄くなったものが通るために、隙間が必要になる。必要な隙間を作るみたいに、隔壁がぎりと鳴り、閉まりかけた縁がほんの僅かに戻った。戻った隙間へ薄い先端が入る。入った瞬間、閉める掌の痺れが強くなり、強くなった痺れが力の感覚を抜く。抜けたまま押している腕が揺れ、揺れで粉が落ち、落ちた粒が隙間の縁で沈む。沈んだ中心から黒が覗き、覗いた黒が薄い先端と繋がる。繋がったところから縁が黒く沈み、沈みが増える。

外で、もう一度、泡が爆ぜた。艦ががくりと揺れ、隙間が一瞬だけ狭くなる。その一瞬で薄い先端が挟まれた。挟まれたのにちぎれない。ちぎれないまま震え、震えの奥で縁の黒い沈みが脈を打つ。脈に合わせてこちら側の床の粉が、点々と沈み始めた。沈む点は一直線ではない。人の足元を避け、避けたつもりの場所へ先回りするように並ぶ。並びが線になろうとする前に、隔壁を押し込む力が最後まで入った。噛み合う小さな音がして、薄い先端が一瞬揺れを止め、止まった直後に引き戻されるみたいに消える。消えたところに粉だけが残り、粉が残った縁の下で、模様の消えがまた一つ増えた。増えた消えは点で、その点の中心が、もう縦に伸びる気配を作り始めている。


点の中心が、もう縦に伸びる気配を作り始めている。

赤い非常灯の下で、床の粉の粒がそこだけ沈む。沈みが輪郭を作り、輪郭が奥行きを呼ぶ。奥行きが増えるほど、そこに「立っている」感じだけが濃くなる。誰も見上げていないのに、天井の高さが低く感じられた。配管が近い。配管の継ぎ目のどれかが、また剥がれる気がする。

横たえられた者の胸が浅く上下し、上下の幅に縦の先端が揃う。揃うたびに、喉の奥が乾く。乾いた喉で唾を飲み込むと、飲み込んだ震えが胸骨へ落ちる。落ちた震えに一拍遅れて点が脈を打つ。脈の後、縦がほんの僅かに太く見えた。

誰かが膝をついた。膝が粉を潰し、潰れた粉が沈む。沈んだ粉の列が点へ寄る。寄った分だけ点の縁が鋭くなり、鋭くなった縁が床の溝を拾って伸びようとする。

「止まれ」

声は小さい。命令というより、反射の形だけだった。膝をついた者が動きを止める。止めたのに、止めた膝の下の粉だけが沈み続ける。沈み続けるのは、動いていないのに動いた扱いにされているみたいで、見ている側の背中が硬くなる。

消火器の筒が手渡される。手渡すときに指が触れ、触れた指の腹の感覚が薄い。薄い感覚が戻る前に噴口が点へ向く。粉が弱く噴き、点の上に積もる。積もった粉がすぐ沈む。沈んだ中心から暗さが覗き、覗いた暗さが粉を下から押し分ける。押し分けるのに盛り上がらない。粒だけが沈み、沈んだ粒の輪郭が暗さを太らせる。

太った暗さの中心が、縦へ伸びた。伸びたのに柱にならない。柱になる前の形のまま、奥行きだけが増える。奥行きの先に、顔のない輪郭の肩の位置が濃く浮く。肩の高さが、横たえられた者の胸の高さへ揃う。

誰かが横たえられた者の顎を支える。支えた指先が粉で滑る。滑った指の腹の感覚がまた薄くなる。薄くなった感覚の上で、顎が小さく震え、震えが喉を鳴らしかけて止まる。止まった喉の動きに合わせて縦の先端が一拍だけ揺れた。揺れの幅が、呼吸の浅さと同じになる。

「ここじゃない」

言葉は短い。短いほど息が漏れる。漏れた湿りが粉を濡らし、濡れた粉が沈みやすくなる。沈みやすくなった床が嫌だった。嫌だと思った瞬間、縦が少しだけ傾いた。傾いた先が、人の集まっている位置を測るみたいに揺れる。

逃げるには隔壁を越えるしかない。隔壁の取っ手へ手が伸びる。伸びた手が取っ手を掴む冷たさが来ない。来ない代わりに、掌の奥が痺れる。痺れが指へ走り、指の力の感覚が抜ける。抜けた感覚のまま回すと、回るはずの音が出ない。出ない音の代わりに、床の縦が一拍だけ濃くなる。濃くなった縦の奥行きがこちらへ伸びたように見え、見えた分だけ距離が減る。

隔壁が開いた瞬間、空気が流れ込む。流れ込む空気が粉を引き、粉が一斉に舞う。舞った粉の隙間で縦の輪郭が鋭くなり、鋭くなった先端が隔壁の縁へ触れようとして止まる。止まったのは粉の塊が縁に残っているからだ。だが塊が沈む。沈むのは時間の問題だと分かる。

横たえられた体が滑らされる。足を上げない。上げれば粉が舞う。舞えば縦が太る。滑らせる靴底が粉を潰し、潰れた粉が沈む。沈んだ跡が点になり、点が並びかける。並びかけた線が縦へ向いて揃う。揃う前に隔壁を越える。越えた瞬間、縦の先端が隔壁の縁へ触れた。触れた場所の粉が一列だけ消え、消えた粉の下から黒が戻る。戻った黒が縁の反射を殺し、殺された反射の中で縦が薄くなる。

薄くなったものが通るために隙間が必要になる。隔壁がぎりと鳴り、閉まりかけた縁がほんの僅かに戻った。戻った隙間へ薄い先端が入る。入った瞬間、閉める掌の痺れが強くなる。強くなる痺れが力の感覚を抜き、抜けたまま押している腕が揺れる。揺れで粉が落ち、落ちた粒が隙間の縁で沈む。沈んだ中心から黒が覗き、覗いた黒が薄い先端と繋がる。繋がったところから縁が黒く沈む。

外で泡が爆ぜた。硬い衝撃が艦に届き、隔壁ががくりと揺れる。揺れた一瞬で隙間が狭くなる。狭くなった縁が薄い先端を挟む。挟まれたのにちぎれない。ちぎれないまま震える。震えが縁の黒い沈みへ伝わり、沈みが脈を打つ。

「押せ、手を離すな」

今度の声は長い。長いのに息が荒れないように抑えられている。抑えた息の湿りが粉を濡らし、濡れた粉が沈みやすくなる。沈みやすくなった粉の上で縁の黒い沈みが増える。増える沈みを見ないように、押す腕が最後の力で隔壁を押し込む。終端で噛み合う小さな音がして、薄い先端が一瞬揺れを止める。止まった直後、引き戻されるみたいに消えた。消えたところに粉だけが残り、残った粉の粒がそこだけ沈む。

息が一斉に戻る。戻った呼吸の音が喉で鳴り、鳴りを飲み込む動作が続く。飲み込むたび、胸の奥が焼けるみたいに乾く。乾いたまま、全員が床を見る。

こちらの床にも、粉の下で模様の消えが点々と続いていた。点は線になりかけている。線の向きが、いま閉めた隔壁の継ぎ目へ向いている。

狭い区画の奥には小さな操作台があった。計器の針が揺れ、揺れの幅が外の衝撃に合わせている。揺れに合わせて床の点が脈を打つ。外の泡の爆ぜに合わせて内側の点が濃くなる。濃くなるたび、縦の気配が立つ。

観測窓の外灯が一瞬だけ白く膨らんだ。黒の切れ目に、マッコウクジラの頭が見えた。太い額が光を受け、その直後に口の中が一瞬だけ開く。開いた口から泡が噴き、泡の中へ長い腕が絡みつく。吸盤の輪郭が外灯の光を横切り、横切った輪郭の数だけ艦が小さく揺れる。揺れが来るたび、床の点の輪郭が鋭くなる。

次の瞬間、艦内に低い振動が走った。音ではない。骨に直接来る。マッコウクジラの鳴きではなく、クリックの圧が外板を叩く振動だった。振動が来た瞬間、床の点が一斉に脈を打つ。点が点であるのをやめて、細い列に揃う。揃った列が床の溝を拾い、拾った溝に沿って一段速く伸びる。

誰かが操作台の上の取っ手を見た。取っ手は送受の切り替えだった。触れれば金属が鳴る。鳴れば点が太る。太れば縦が立つ。縦が立てば呼吸が止まる。

それでも手が伸びた。伸びた指が取っ手の手前で止まり、止まった指が震える。震えが粉を落とし、落ちた粉の粒が点の列の上で沈む。沈んだ粒の中心から暗さが覗き、覗いた暗さが列を太らせる。

「触るな。いまは外が殴ってる」

言い方は荒いのに声が小さい。荒い声の端が粉に吸われて丸くなる。丸くなった音の端に合わせて床の列が一拍脈を打つ。脈のあと、列が操作台の足元へ寄る。寄った暗さが金属の脚の反射を殺し、脚の輪郭が床へ沈むみたいに見える。

横たえられた者が、ほんの僅かに息を吸った。吸った息が喉で鳴り、鳴りが粉の中で消える。消えたのに、床の列が反応する。列の端が縦に細く伸びる気配を見せ、気配の先端が胸の高さへ揃う。

「これ以上、動かすと死ぬ」

言った声は長い。長いのに説明じゃない。言い終える前に、外で泡が爆ぜた。爆ぜた衝撃が艦に届き、天井の配管が鳴る。鳴った継ぎ目から黒い点が落ちた。落ちた点は跳ねずに床へ張り付き、張り付いた瞬間、床の列へ向けて細い筋が一本伸びる。伸びた筋が列と繋がり、繋がったところから暗さが太る。太った暗さの中心が、縦へ伸びる。

縦の奥行きが増える。奥行きの先に肩の位置が濃く浮く。顔はない。胸の高さだけが揃い、揃った高さがこちらの呼吸を測る。測るみたいに先端が揺れ、揺れの幅が、息を殺しているはずの胸の上下と合ってしまう。

誰かの膝が折れかけた。折れる前に肩が支えられ、支えた肩が粉を払う。払った粉の粒が縦の根元で沈む。沈んだ中心から暗さが覗き、覗いた暗さが縦の輪郭をさらに鋭くする。

窓の外で、マッコウクジラの尾が大きく振られた。振られた尾が泡を爆ぜさせ、爆ぜた泡の向こうでダイオウイカの腕が一瞬だけほどける。ほどけた隙間にクジラの頭が突っ込み、突っ込んだ瞬間に外灯の光が跳ねた。跳ねた光が艦内の窓枠を白く塗り、その白の瞬きに合わせて縦が一段濃くなる。

濃くなった縦の先端が、今度は確かに下へ降りようとする角度を作った。降りる先は床ではない。横たえられた体の胸の中心だった。

誰かが横たえられた者の上へ毛布を投げた。投げた毛布が空気を押す。押した分だけ縦の先端が一拍だけ止まる。止まった一拍で毛布が落ち、落ちた布が粉を払う。払われた粉の隙間に床の列が覗き、覗いた列が布の縁をなぞる。なぞった縁が黒く沈み、沈んだ布が床へ貼り付く。貼り付いた布の下で列が進み、進む暗さが毛布を固定する。

固定された毛布の上で、横たえられた者の胸が小さく上下する。上下が布を動かさない。動かさないのに、縦の先端が布の上の上下の「気配」を測るみたいに揺れる。揺れるだけで降りない。降りないまま、降りる準備を続ける。

誰も動けないまま、外の衝撃だけが続いた。泡が爆ぜ、インクが膨らみ、外灯の円錐が食われる。食われるたびに床の列が濃くなり、濃くなるたびに縦が太り、太るたびに呼吸の高さが揃う。

揃った高さのまま、縦の先端が、ほんの僅かにこちらへ傾いた。傾きは転倒ではない。入口が向きを変える傾きだった。

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