第01話
「あなたの一番好きな場所はどこですか?」
並びない色彩が夜空の星々を映す大都会。
日が見事な半円を描き、明日上がれるように彼方に沈む、人気少ない海。
この地球には美しい場所であふれている。
なかでも永遠に何千の緑色が広がりそうな野原が、姉にビビと呼ばれるビビアンにとって最高の居場所であった。その野原には少数の木々が立ち、いく数もの白い花が点々と緑の草に混じっていた。草の意見もきかず、ただ呑気に食いちぎる羊も大勢いた。何年も見ているのに、ビビはこの、平和そのものである風景にあきることなかった。
それでも、彼女がここを実際に訪れるのは初めてだった。
「ああ、素晴らしい。遠くから見ていたときより、何十倍も美しいわ。」彼女は木の枝に腰掛けながらため息をついた。「もしかしたら天国以上だわ。こんなことをグロリア姉様に聞かれたらひどく叱られるでしょうけど。」
それは、もしグロリアが彼女の現在の居場所を知ればのことを思うと、全く些細なように感じられもした。
大好きな姉様を怒らせるかもしれないことには実に胸が痛んだが、ビビは彼女に知らせる気はまず無かった。
「少しの間だけよ。ほんのちょっと遊んだら、帰るんだから。」
夢見た世界にたどり着いた感激に暗い思いは完全に追い出された。
自分の体重を努力して動かした。下を確認すると、例の少年はまだ眠りこけたままだった。
「もちろん。彼はいつもここで眠り、夕方まで起きないんだもの。夕方になれば彼は羊を集めて町に降りていくんだわ。」と彼女は自身につぶやいた。
そのとき、面白い発想がビビに思いついた。もうすぐ日が暮れるときなので、木の一番高い所に登って紅の空を見ようと考えついたのだ。初めての夕暮れを初めての最愛の場所で見れるのは、言葉で表せないほどビビをわくわくさせた。
ただ、彼女ののろいペースで登って間に合うかどうかだ。生まれてこのかた激しく運動したことのなかった手足に地球の重力を足すのだから、彼女の苦悩は想像できるだろう。それでもビビはやると心に決めていた。
本当に彼女の努力は見物だった。時間はかかったものの、後少しで天辺に届くところまでは着いたのだ。
残念ながらその過程で鳩の巣に腕があたってしまったが。
「待って」と叫び、彼女の右手は無事に巣をキャッチした。だが、ほっとする間もなく、左手が握っていた枝は勢いで折れてしまった。
バサバサと無数の枝に打たれてビビは落下し、最終的には眠っている少年が下敷きになってしまった。
突然の痛みに起こされた少年はビビの体を必死に自分の上から除いた。
「いてて。」少年は特に衝撃を受けた両足を動かしてうめいた。
「ごめんなさい。怪我しました?ああ、本当にごめんなさい。」
焦点を合わせて目を開けると、少年の前には年上の美女がいかにも心配そうな目で彼を見つめていた。
いやそれより、ちゃんと見ると、ただの美女ではなかった。
「おまえ、は、羽が生えとる!それにその頭の輪。おらは死んで天使が迎えにきたんか?」彼はひどく動揺し、気が狂いそうになった。
しまったと思い、ビビはとっさに否定した。だが、目の前で事実を見ている者にどう説明すればいいのだろう?
少年は一応自分の頬をひねり、痛みを感じた。死んでなんかいるものか。
「もしやハロウィンかコスプレかなんか?」調子を取り戻し、彼はきいた。
もちろんビビにハロウィンもコスプレも分かるわけが無かったが、少年が落ち着いている様子を察してその流れに乗ることにした。
「そうよ、そうよ。コスウレよ。」
変な姉さんだと思ったが、彼の町の者ではないので、都会の変わり者のひとりだろうと考えた。
「それより、あなたの傷。夕方だし、羊を集めて町に帰って、手当てしてもらった方がいいわ。」
少年はなぜビビが彼は羊飼いであることを推測できたのかは知らなかったが、あえて尋ねることもしなかった。自分がぼろぼろの服を着ていて、貧乏くさいのは他人にきかずともわかっている。
それとは別に、怪我は痛くても美女を前に格好悪いところは見せる気になれなかった。
「いや、おらは平気さ。姉さんの方こそ大丈夫かい?木から落ちたんだろ?」ととりあえず答えた。
木から落ちたことを完全に忘れていたビビは、すぐに自分の腕の中にある巣を恐る恐る確認した。
「ああ、良かった。卵が割れていないわ。」
少年は巣を覗いたが、首を横に振った。
「割れてなくても、どうでもいいことさ。雌鳥は帰ってきやせん。」
「何を悲観なことを。彼女は母鳥、帰ってくるわ。」
「姉さんが死ぬくらい驚かせたんだ。帰ってくるもんか。」と少年は意地を張った。
それでも、ビビの意地の方が上だった。少年を無視し、また木を登っていった。
「姉さんやめな、慣れない手足じゃまた落ちるに決まってる。」
それでも、ビビは元いた所に無事たどり着いた。
そして、鼻唄を歌い始めた。
鼻唄と呼ぶことは間違っていると少年は感じた。それは人間がいう歌の種類とはかけ離れたものだからだ。魂一直線に響き、夢か現実の境にいるような感覚を覚えさせる、そんな音が鼻唄であるわけがない。少年は体のなかが暑くなった。
そして、少年の気持ちは彼だけでなく、周りの生き物も共感していた。ビビに枝を何本もへし折られた木も、それまであてもなく草を食べていた羊たちも、皆天国の歌い手に耳を貸していた。
それを続けると、どこからともなく1羽の鳥が木の枝に降り立った。彼女が探す雌鳥だと分かると、ビビは歌をやめ、巣を鳥の前に置いた。
「あなたの巣を落としてごめんなさい。戻ってくれてありがとう。あなたは立派な母親だわ。」
彼女はそう言い、鳥の首をなでた。雌鳥はピチチと声をならし、巣の上に乗った。
目標を成し遂げたビビは、また時間をかけて木を降りた。
「ね、巣を返せると言ったでしょう?」とあっけに取られて立っている少年に声をかけた。
「姉さんの歌、世離れしてる。ただのすげえコスプレする人かと思いきゃ、もっとすげえ歌手だ。」
今一度見直したように少年の目はきらきらとビビを見つめた。
もうすぐ日が暮れ終わるのを察し、少年はズボンのポケットから古くて壊れそうな携帯を取り出した。
「なあ姉さん。記念にその天使の羽と輪っか、おらに貸して写真取ってもらえんかな?町の子供に自慢してやるんだ、『すげえ歌声の天使のコスプレの都会っ子に会った』って。」
これにはビビはどよめきを隠せなかった。
「いえ、ごめんなさい。出来ないわ。」
少年は彼女の拒否にむっとした。証拠がなければ、町の子供は信じてくれないだろう。
「そこをお願いだよう。傷つけやせんから。ただ写真を取るだけでいいんだよう。」と文句つけ、彼女の後ろに急いで回り、羽を引っ張った。ボタンか何かで留めてあるのだろうと思ったのだが、不意に翼に殴られた。
「まさか今、羽が動いた...?」少年は目を大きく見開いて、しばらく動きが取れなかった。
「私、私、説明できるから。説明するわ。」ビビは少年に手を伸ばしたが、無駄だった。
少年はひいっと声ならぬ声を出し、羊も忘れて町に全力疾走した。彼女の不運に彼は「天使、天使!」と四方八方に叫ぶことだけは忘れなかった。
とっさに彼の後を追おうとしたが、自分の遅い足では人間の羊飼いに匹敵するわけもなく、作戦を変えた。ここは守護天使らに町の人々の記憶を任せて、自分は天国に早く帰るべきだと、こんがらがっている脳では決めることがやっとだった。
「ああ神よ、私はたいした失敗をしてしまった!」
星々のように輝く涙を流しながら、天使は呪文を唱えて消えた。




