沼地と聖域
「サイコ……」
俺は西園寺かの子のあだ名を口にした。
美しく、だが人に対する優しさのかけらもない酷薄な切れ長の目が俺を捕らえる。
長く、腰まである艶やかな黒髪。
白く滑らかな、傷一つない肌。
美貌という意味では非の打ち所が無い、だが人格という意味ではほとんど精神病質者と言うべき、高坂ソータローの元同級生。
だが俺はかぶりを振った。
なぜサイコがこんな所にいるのだ?
俺は象牙の塔を昇って王妃に会おうとしていたはずだ。
昇るのに数日かかると言われた長大な階段に絶望し、だが売店の女将から配達のために使う秘密のエレベーターがあると耳打ちされ、それを使ってショートカットしようとしていたはず。
胸の鼓動が早くなる。
サイコの姿を目にしたことで、俺の、高坂ソータローの心臓はバクバクと脈打っている。
激しく動揺しているのだ。
「サイコ……どうしてこんなところに……」
そう言い掛けた俺の言葉を、その女は遮った。
「私はサイコなどではないぞ」
静かに口を開いたその声は、だが確かに西園寺かの子のものだ。
だがしかし、女は金色の衣を身にまとっている。
「何で王妃のコスプレをしてるんだ?」
俺は自分の鼓動がどんどん早くなっているのを感じていた。このままではチートな邪神がハートのビート過剰で死んでしまうYO!
「何を言っているのだ、おぬしは。私こそが王妃であるぞ」
「あ……SO……Oh……Yeah」
俺は胸を押さえて再び床に倒れ伏す。
周辺の景色がぐらぐらと揺れていた。
「まじか……言われてみれば、確かにあんたは王妃だYO」
俺は目を瞑った。前回と同じ展開だ。このまま時空を越えるのだ。
実に十七話ぶりに。
※※
「……してんねや」
頭上から降って来た関西弁で俺は目を覚ました。
「おい、起きろや」
俺は身を起こしながら、先ほどのエレベーターの中で聞いた声に酷似しているなと考えていた。
こちらを見下ろしているのは、ぼさぼさの髪の毛を後ろで束ね、無精ひげを伸ばした中年男性だった。往年のスラッシュ・メタルバンド、アンスラックスのTシャツを着ている。もちろん、長年着続けたせいで首の辺りはよれよれに伸びきっていた。
「寝てる場合やないぞ、ソータロー」
「チューテツさん……」
俺は男の名を呼んだ。もっとも、通称であって本名ではなかったが。
「俺たちの聖域の危機なんや。さっさと起きて、俺についてこい」
そう言うと、チューテツは胸を叩いた。
「俺たちの聖域、と言うと……」
「何を眠たいこと言うてんねん。俺たちの聖域と言えば“すまいるランド”しかないがな」
「やっぱり……」
俺は頭を振って辺りを見渡した。
そこは高坂ソータローの自宅アパートの近くにある小さな公園だった。
公園を取り囲む木の背が高くて日が差さないため、どことなく薄気味悪い雰囲気がある。近所の小学生はそこを“沼地”と呼んで寄り付かず、人が寄り付かないため遊具は朽ちたようになって、ますます不気味さを増していた。
「ここは、現代日本か……」
「おい、どうしたソータロー。ここがどこかも分からんのか?まるで時間旅行からでも帰って来たみたいやな」
「あ、いやその……」
俺は口ごもった。
まさしくその通りだった。俺は先ほどまで魔法が支配するヴィシュラ王国にいて、かつて自分が仕掛けたアンゴルモア・チャレンジ杯という自分を殺すためのコンテストから逃げ回っていたのだ。
それがどうして、どうやってこちらの世界へ戻って来たのかは想像もつかない。
何か、精神の均衡が保てなくなるような衝撃的な出来事があったはずなのだ。
「サイコ……」
最後の記憶は象牙の塔で出会った、西園寺かの子とそっくりの王妃だった。
俺がその名を口にすると、チューテツが目を剥く。
「おいソータロー大丈夫か。あの女の名前を呼ぶのはやめーや」
「えっ?」
「俺が昔、あの女の実家の西園寺堂をクビになったのは知ってるやろ」
「そうなの?」
「当時の俺は和菓子界のトシ・ヨロイヅカを目指してたのに、あの冷血女のせいで未来を閉ざされたんや」
「初耳だな。何をしたの?」
俺の言葉にチューテツは白目を剥いた。
「心外やな。“何をしたの?”って、まるで俺が何かやらかしたみたいやないか」
そうじゃないの?とのど元まで出かかったが、俺は言葉を飲み込んだ。この話を続けると長くなりそうだと考えたからだ。
それよりも今は、考えなくてはいけないことがたくさんある。
こっちに戻って来れたということは、俺の命を狙う蒼の騎士団とやらの脅威からは遠ざかることができたということだ。
反撃の狼煙を上げる手立てを考えなくてはならない。
「そうだな、まずは仲間だ」
俺は目の前の中年男の顔を見て、そっとかぶりを振った。チューテツが俺の力になることはあり得ない。この人物は年老いた両親のもとに寄生する単なるニートだからだ。その上、高坂ソータローにアニメやゲームの味を教えて立派なひきこもりニートへ育て上げた、いわばニート界の導師。百害あって一利無しな存在なのだ。
俺がそんなことを考えていることも知らず、チューテツは顎をしゃくって見せた。
「ほらソータロー。早く行くぞ、俺たちの聖域に」
「あ、いやそもそも何があったのか教えてよチューテツさん。“すまいるランド”ってあれでしょ?角にあるおもちゃ屋でしょ?」
そう言うと、チューテツがハッとした表情になって動きを止めた。
……三十秒ほど経過する。
どこからか幽体波紋使いが時間停止の攻撃をしかけてきてるのかと思い、俺はキョロキョロしたが見当たらなかった。
やがてたっぷりと間をとった後でチューテツが声を発した。
「か、角にあるおもちゃ屋やとぉぉ?」
チューテツは感極まって涙目になっている。
「俺とお前の血と汗と涙がしみ込んだあの店を、“角にあるおもちゃ屋”やと!?言い方っちゅうもんがあるやろ。ギザのピラミッドを“石”って呼んでるのと同じやど」
俺は目を丸くした。
「お互いあの店のワゴンセールで、日暮れまで掘り出し物のプレステソフトを漁った中やないか。年始早々、お年玉を握りしめたガキどもを叩きのめした武勇伝も忘れられんな」
「ああ……トレーディングカードでえげつない勝ち方したあれね」
高坂ソータローの記憶がうっすらと蘇ってくる。ルールをよく知らない子供たちをだまくらかして、次々と高額なカードを巻き上げたのだ。
「あの後、子供たちのお兄ちゃんが出てきて謝罪させられたけどね」
「……そうやったな」
チューテツが遠い目をする。
「あれはキツかった。高校生に理路整然と説教されたんやったな……」
俺もまた、遠い目をした。
とにかく、こいつと一緒にいるとロクなことがないのは確かだ。
俺は気を取り直して、チューテツから離れる口実を考え始めた。
「あ、チューテツさん、俺急に用事を思い出しちゃってさ……」
さて、何の用事ということにしようかと考え始めた矢先。
「何を悠長なこと言うてんねん!」
チューテツはピシャリと言った。
「聖域、ひいてはビスコの貞操の危機やぞ」
「えっ???」
そこで何で最上ビスコの名前が出てくるの?と俺は思ったが、同時に肝心なことに気付いた。
「そう言えば、ビスコはどこだ?」
俺は現代日本に帰ってきたというのに、ビスコの姿は見当たらない。あいつだけヴィシュラ王国に取り残されたのだろうか?
「何を言うてんねん」
チューテツさんが呆れたような口調で言った。
「そら店におるに決まってるやろ。“すまいるランド”は最上ビスコの実家やねんからな」
「ええっ?」
俺は唐突な設定の説明に驚いてあんぐりと口を開けた。
つづく