前編
「魔女か?」
不意に後ろから声が聞こえた。
ファランティアはゆっくりと声の主を振り返った。
一人の騎士が木の合間からファランティアを――正確には、彼女と騎士の間にあるシーツを見ている。
木の上に引っかかってしまったのを、魔力を操って浮かばせたものだった。ファランティアが魔力を断つと、差し伸べた手の内にシーツが落ちてくる。畳もうかとも思ったが、汚れたので洗いなおしを指示されるに違いない。ファランティアはそのまま適当にシーツを抱え込んだ。
「下女……を、しているのか?」
騎士はまじまじとシーツを抱えるファランティアを見た。
シャツと、スカートと、それらを覆う大きなエプロン。生成りで特別装飾のない一揃いは、一般的な下女の装いであった。ファランティアは最近城に採用された新人の下女であるので、支給されたばかりの制服はどれも真新しくほとんど汚れていない。
長くつややかな黒髪は三つ編みにしてから後ろでぐるりとお団子にまとめている。
黒い瞳は鋭いが、頬にそばかすをつけることで、本来冷ややかな美貌を愛嬌のある顔立ちに見せているつもりだ。
ただ、うっかりと自分の正体を見せてしまった相手に隠すものは何もないので、愛嬌など打って捨ててにやりと笑った。
「今は下女をしている、魔女だね」
光を受けて輝く金の髪に良く晴れた空のような瞳の騎士が、魔女という存在に嫌悪を抱かず興味津々な様子だったのが気に入ったからでもあった。
騎士は木々の間を縫うようにゆったりと近づいてきた。
距離を詰め、斬り捨てるつもりだろうか? ファランティアは一瞬考えたが、そんなつもりは露ほどもなさそうだ。
こちらが警戒しないようにと考えてか、腰に佩いた細身の剣に手をかけるそぶりもない。
「どうして魔女が城で下女なんぞしているんだ?」
問いかけも詰問口調でなく、まるで幼子があれはなんだこれはなんだと聞く時のような口ぶり。
「そうだな、新王が立つから様子うかがいに来たというべきかな」
なので気負わずにファランティアが応じると、騎士は不思議そうに顔をしかめた。
「下女は王とは全く関わらない職だと思うが。様子をうかがうというなら、もう少しいいところに忍び込めばいいだろうに」
あっけらかんと言い放つ騎士にファランティアは呆れてしまう。
国を、城を――なによりも王を守るべき騎士の発言とはとても思えない。
「騎士にしては平和でボケちまったようなことを言うね、あんたは」
「そうか?」
自覚は全くないらしく、騎士は首をかしげている。まったく毒気のない男だ。
騎士の覇気に欠けているのは、長く安穏とした時代が続いている弊害だろうか?
ファランティアは疑問に思ったが、しかし疑問を解消する必要は感じなかった。
この国、ツァルト王国は長く平和を享受している。大陸南の盟主たるモディール王国が血縁関係により各国をまとめ上げているのだ。
数代に一度モディールとの縁組をすることにより、南の諸国は緩やかに血縁関係がある。全く諍いがないとも言い難いが、北の生臭さに比べればはるかに穏当。
平和を望んだ人間と、それを面白がった魔女の契約により作り上げられた平和なのだと伝え聞いている。
古の魔女の魔法がいかなるものか、ファランティアには想像もつかない。おそらくは現代には伝わらない秘術の一種なのだろう。
幾世代にもわたる魔法なんぞ、ファランティアは知らない。
その偉大なる魔法によって形作られた平和を享受し続ける国の騎士が腑抜けるのも、道理というものであった。
「ま、いいが。そりゃまあ、実際に人となりを見た方が確実かもしれないが、王のそばまで近づくのはいかに魔女でも手間だね。仕事でもあるまいし、そこまで手間をかけるもんじゃない」
「そういうものか?」
「そういうもんさ。で、戴冠式に向けて城には人手が足りてない、平民でも無理なく自然と紛れ込めるのが下女だったってわけさ」
「なるほど」
納得したような口ぶりながら、騎士の表情はまだ不思議そうではあった。それをわざわざ指摘して、聞かれもしない詳細を親切に教える必要もない。
ただ、非常に満足したのでファランティアはにっこりと笑ってやった。
「案外、この立場でも目的を果たせるもんだね」
つぶやいたファランティアを見る騎士の視線はとうとう不審そうになった。
「どういうことだ?」
「あんたは近衛騎士だろ」
ファランティアが下女の装いであるように、騎士のそれは近衛を任される騎士のものであることは見た目から明らかだ。
王族の身辺警護を主任務とする近衛騎士は基本的に鎧を纏わない。長く平和を享受し続けている国ならではの軽装。
濃紺の詰め襟は防御力よりも見栄えを重視している。
鎧を纏い王城を厳重に守るのは近衛以外の騎士の仕事で、近衛騎士は剣のみ佩いて貴人の護衛を任されているのだ。
王城内で軽装で佩刀している事実だけで、実際に見たことがなくても彼の職務は誰にだって理解できる。
「そうだが?」
ファランティアの指摘にあっさりとうなずきつつも騎士は首をかしげ、意図を問うように目を細める。
「王の身近な人間が魔女にさほど警戒をしないということがわかったからな」
言うと、一挙に雰囲気が変わった。ファランティアの言葉で、逆に警戒心を抱いたようだ。
王族の身辺に侍る性質上、近衛騎士には美貌を誇るものが多い。すんと表情を消すと、顔の作りの良さが際立つ。顎を引くと木陰ゆえに顔にまで影が落ちる。冷えたような緊張を感じた。
冷静に自分を見据えるまなざしを受けて、ただの腑抜けではなかったらしいとファランティアは男への評価を改めることにした。
「どういう、意味だ?」
騎士はファランティアを睨み据えた。
「どういうもこういうも……警戒されていないなら、住処をそのままにしておいても平気だろうなってだけの話だが。世にはあたしら魔女を迫害したい御仁もいるようだからねえ」
騎士はいっそう、眉間にしわを寄せた。
「先代はそれで長年の住処を追い出されて、ようやっとこの国に居を定めたそうだ。だからかね?
あたしにも時には国の動向を確認するように、口を酸っぱくして言っていた」
ファランティアは構わず説明を続けてやった。
「――王が代替わりすると耳にしたもんだからね。ちょっと確認しようと思ったってわけさ」
騎士は瞳を閉じて眉間に手をやって揉むようにする。それから再びファランティアを見た。
「すると、貴女は我が国にお住いの深き森の魔女殿か」
問いかける時には、少し表情が戻っていた。
「そう呼ばれているね」
「深き森の魔女殿は、我が国の恩人であると脈々と言い伝えられている。それを忘れるほど我らは恩知らずではないつもりだが」
「この国の恩人は先代であって、あたしじゃない」
騎士はしばしの間、静かにファランティアを見つめた。
「……そうなのか? 魔女殿が代替わりをしているとは初耳だ」
「代替わりを伝えるような契約を先代はしていない。魔女よりも、人間の代替わりの方が早いからね。先代に恩を感じたかつてのこの国の王が、国土内に魔女が住まうことを黙認したとだけ聞いている」
「時折、依頼を持ち込む王もいたと聞くが」
「そうだね。あたしも何度か城まで先代の伴をしたことがあるよ。気まぐれに応じたり応じなかったりしていたらしいが、請けようが請けまいがそれで腹を立ててあたしらを追い出すようなことはなかった。
この国は平和なものだ――安穏とした国柄を先代は好んだのだろうね。警戒心もなく不用意に魔女かと問いかけるような騎士を抱えているのだから、その性質は変わっていないと見える」
警戒心がないと指摘された騎士は顔をしかめた。すぐに何事もなかったかのように、誤魔化すような咳ばらいをひとつ。
しかしファランティアがそのさまを鼻で笑うと、あっけなく彼の取り繕ったような無表情が崩れた。
「魔女殿が代替わりしたというのなら、我が国こそ先代殿に恩を受けた王から幾代も経ているわけだが……」
言葉にはわずかに苛立ちが滲んでいる。ファランティアはそうだろうともと鷹揚にうなずいた。
「だからこそ、時に確認するように先代は言い残したんだろうさ」
途中で口を挟まれた騎士は胡乱気な眼差しを、今度は隠そうともしなかった。
「あー……、殿下? 陛下――いやまだ戴冠式はまだだしな……」
男はもごもごとつぶやいてから、
「ともかく、近々ご即位なされる次期国王陛下のお心を俺がつぶさに理解しているとは言えないし、それでも先祖の恩義を無にするような方であるとは思ってはいないわけだが」
「何が言いたい?」
よくわからないことを続けるので、ファランティアは目を細める。
「それにしたって、確認しに来たというのなら、もう少しきちんと次代の王の人となりを確認すべきではないか?
いや、魔女殿が人より強い力をお持ちなのは承知している。異変があればすぐさま去ることも可能だからこそ、適当でもかまわないと思っておいでか?」
ファランティアは、細めた目をそのままぱちくりとさせた。
「んん?」
「せっかく下女として忍び込んだというのに、不用意に魔法を使って正体を知られるのは悪手ではないだろうか?」
もう一度瞬きをして、ファランティアは妙なことを言い出した騎士を見た。




