高台寺党余話 Part1
桜の季節。
「ふう!」
玄関の式台に腰を降ろした篠原泰之進は、大きなため息をついた。
たった今、大津から京に抜ける難所、日ノ岡峠を越えてきたばかりで、首筋に汗をにじませている。
京都縄手通三条下る、旅籠「小川亭」。
篠原がこの宿を取ったのは、ただの偶然だった。
「お暑うございますなあ」
玄関に出迎えた若女将はそう言って、土間に脚を濯ぐタライを置いた。
若女将といっても、小川亭は義理の母娘ふたりが切り盛りする小さな旅籠で、
「近ごろの都は物騒どすさかい、暗うなる前に宿をとらはったのは賢明どすえ」
と、湯呑を差し出したもう一人が女将である。
女将の名は理瀬、義理の娘の方は貞といって、二人とも後家(未亡人)だった。
やっと目的地にたどり着いた篠原としては、言われるまでもなく、あちこち周旋に回るのは明日からにして、今日のところは酒でも飲んで早く寝てしまおうという心づもりである。
ところがこの日、彼は、早速捕り物を目撃して「物騒な都」を体感する羽目になった。
タライに両足を突っ込んだまま、上り框に置かれた水を一息に飲み干すと、彼は若女将に声を掛けた。
「もう一杯、もらえるか?」
「はいはい。これは代々の帝が産湯をお使いにならはった鴨川の水どすえ」
貞は湯呑を受け取ると、愛想よく返事して、奥へ引っ込んでいった。
ところが。
裏手に回って井戸の釣瓶に手をかけた貞は、頭上に衣擦れの音を聞いてふと視線を上げた。
そして、ギョッとして凍りついた。
ボサボサの総髪を束ねた浪人が、薪置き場の庇を足掛かりにして、屋根に這い上ろうとしているではないか。
「お、お、お、お客さん?な、何したはるんどす?」
なんとか声を絞りだすと、浪人はビクリと肩を震わせ、足を滑らせた。
「う、うわあ!!」
「きゃあ!」
貞は飛び退いて、悲鳴を上げながら落ちてきた男を躱した。
驚いた鶯が、桜の木から数羽飛び立った。
「いてて…ああ、いいんだ、いいんだ。気にしないで。五月蠅いのに追われててな。ちょいと通らせてもらえれば」
浪人は、妙に愛想のいい笑顔で、気の立った牛でもなだめるように両手を上下させた。
貞はその顔を見るうちにだんだん腹が立ってきて、きつい口調で咎めた。
「通るて、そこをどすか?近ごろはけったいなご浪人にも慣れましたけど、うちの屋根を踏み抜いたりせんといてくれやす!」
「シーッ!わかった!分かったから!声がでかい!」
「厚かましいわあ」
「厚かましついでに、あんたさ、ちょっとこれ、預かっててくれる?」
男は貞に、妙ににゴツゴツした手触りの信玄袋を押し付けた。
貞は思わずそれを受け取ってから、あまりの重さに驚いて中を覗き込んだ。
「なんどすの、これ?」
見たこともない黒光りする機械に戸惑いながら、貞は尋ねた。
「これはスミス&ウェッソンのモデル1と云ってな、世界初の…いやいや、あんたにそんな講釈を垂れたって分かんねえよな。とにかくしばらく預かっといてくれ」
「なんや失礼やし!」
貞は年甲斐もなく頬を膨らませた。
一方、玄関では、気のいい篠原が、老婆のいつ果てるとも知れない長話に付き合っていた。
「長崎帰りの若い画家さんが、此処から見える鴨川の眺めをえらい気に入らはってなあ。ずいぶん長逗留しはったんどすえ」
「なるほど川のせせらぎが、ここまで聴こえますな。元は船宿ですか?」
「いえいえ。ほん前まで、うちは魚屋どしたんや。そやさかい、此処は舟をつけるのに具合がよろしおしてなあ」
「そういうことですか。しかし、なぜまた商売換えを?」
「つい先に、息子に先立たれまして」
「それはまた、ご愁傷様でしたな」
「こないなご時世どすやろ?この先どないしよ言うて、嫁と二人で相談しまして。ほんで嫁の思いついた妙案が、この旅籠どす。息子や使用人の部屋を他人様にお貸しするだけでお代が取れますし、食事は一尾を半身ずつ、晩と翌朝にお出したら、これまでの倍儲かりますがな」
「ハッハ!それは、それは。息子殿は賢妻を娶られましたなあ」
考えてみれば、客に打ち明けるような話でもないが、篠原は呑気に相槌を打った。
と、そこへ、なにやら無骨な浪士の一団が踏み込んできた。
先頭に立つ若い浪士が、前置きもなしに詰問口調で二人に訊ねる。
「ハア、ハア…ここにボサボサの総髪を束ねた浪人が逃げてこなかったか?」
「…さあ?拙者の後には、誰も来ていないが?」
篠原は、不敵にもタライに脚を突っ込んだまま応えた。
若い浪士は、五六人の部下を従えており、それなりに統率が取れているようにも見えるが、かといって役人には見えない。
一隊の長らしきその若者は、篠原を疑わし気にジロジロと眺めた。
「あんた、どっから来た?」
「尋ねる前に、あなた方が何者か、まず名乗られよ」
気の荒そうな部下の一人が、目を怒らせて進み出た。
「ああ?なんだと?」
睨み合う両者に、水を持って戻って来た貞が割って入る。
「ま、まあまあ!お侍さま、このお方は、うちのお客様どす」
隊長が、いきり立つ部下を手で制した。
「若女将か。この宿のよからぬ噂は聞いている。我々の調べでは、このところ都の北では、水戸の天狗党や長州の浪士が公家に接触して、何やらコソコソと企んでいるようだが、ここでも謀議が行われているんじゃないのか?」
当然、貞の頭には裏で見た怪しい男のことがよぎったが、お首にも出さなかった。
それまで黙って聞いていた女将の理瀬が、浪士たちを睨めつけ、ボソリと反駁を加える。
「長旅を労うて、玄関先で世間話してただけやし。よう言わんわ!」
隊長は探るような眼つきで三人をじっと見つめていたが、やがて、
「失礼した」
と言い置いて、プイと出ていった。
とはいえ、まだ諦めたわけではないらしい。
「お前らは、離れ座敷の方も改めてこい」
玄関先で隊士たちを指示するのが聴こえた。
「ほ~んま、イケズな連中どすなあ」
理瀬は聞こえよがしに、不平を漏らした。
篠原は、話に聞く京都人の「判官贔屓」ぶりを目の当たりにして苦笑した。
「まったく生きにくい世の中だ。ときに女将、あの青年が言っていたこの宿の悪い噂とは?」
貞は、怖いもの知らずの義母の放言を封じるように、
「うちは、お客を選ばんだけどす」
と取り繕った。
「なるほど。女将の言う通り、貴女は賢妻だ」
篠原としては、敢えてその言い訳を聞き入れたのだったが、
「要するに新参どすさかい、常客も居らへんし、ご政道に背く信条をお持ちのお客かて、宿賃さえいただければお泊めする言うことどすな」
里勢は身も蓋もなく本音を並べて、賢妻の気遣いを台無しにしてしまった。
「お、お義母様!」
うろたえて姑の肩を掴む貞を見て、篠原は大声で笑った。
「ははは、気持ちのいい婆さんだ。もういい、そういったことはあまり大きな声で喋らん方がよろしかろう」
この小川亭では幕末を通じて攘夷志士などを匿い、後に、この若女将貞は「勤皇婆」などと呼ばれ名を馳せることになった。




