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東海道中の出来事

同年、春。


東海道三番目の宿場・神奈川の手前、約一里、生麦村なまむぎむら


「ここが例の生麦村、か。…何もないな」

篠原泰之進は、退屈な田園風景に気の抜けた感慨かんがいを漏らした。

たしかに、そこは何の変哲へんてつもない農村だった。

「別に何かを期待していたわけじゃないが、少し拍子抜ひょうしぬけだ」


篠原という男は、年の頃三十半ば、押し出しも効いて、一見、一廉ひとかどの武芸者たる風貌ふうぼうをしていた。

久留米藩士として江戸藩邸に勤務していた三年ほど前に桜田門外の変が起きて、ちまた沸騰ふっとうする攘夷論じょういろんに感化され、脱藩だっぱん

そのまま、通っていた道場の伝手つてを頼り、江戸の講武所柔術師範こうぶしょじゅうじゅつしはん窪田治部右衛門くぼたじぶえもんの屋敷に潜伏した。

悪い人間ではなかったが、雰囲気に流されやすいというか、流行はやりに感化されやすいところがある。

その居候先いそうろうさきでさらに攘夷じょうい論にかぶれ、生麦事件なまむぎじけんの一報を聞いたときには、もう居も立ってもいられなくなった。

ちなみに、先述した窪田治部右衛門くぼたじぶえもんという人物は、この物語で重要な役割を果たすことになるため、頭の片隅に留めておいて欲しい)


文久3年、草莽そうもうの志士となった篠原は、諸国を遊歴ゆうれきする旅を思い立ち、東海道を西へ。

つまり、上方かみがたに向かっていた。


長閑のどかな景色を眺めながら、やがて神奈川宿を過ぎ、芝生しぼうという村までやってくると、街道は海の方に分岐している。

わざわざ山を切り開いて作った「野毛のげ切通きりどおし」と呼ばれる新しい間道で、その先は横浜村へと続いていた。

この集落は、今や外交の表舞台として世間の耳目じもくを集め、すさまじい勢いで開発が進み、もはや村というにははばかられるほどの規模に発展していたが、意外なことに街道からずいぶん離れた場所にあった。

これには横浜港の成り立ちにも関わる理由がある。


そもそも、今から10年前、黒船に乗ってやってきたペリーが開港を要求したのは、水運の要衝ようしょうである神奈川港のはずだった。

しかし、東海道を通る多くの日本人が外国人と接触するのを嫌った幕府は、「神奈川」という地域を無理やり拡大解釈して、神奈川宿から一里も離れた対岸の小村しょうそん横浜よこはま」に目をつけ、ここに新しい港を作ったのがはじまりである。

つまりこの村は、260年もの間、世界から隔離かくりされていた人種が、異邦人とどう向き合うか、それを試す、ある種の社会実験の場を兼ねていたと見ることもできる。


当然、その横浜を見聞けんぶんするつもりでいた篠原は、枝道えだみちの方へれていった。

こうしている今も、横浜では激しい外交交渉が戦われているはず、だったが、やはり代わり映えのしない田舎道が続いている。

田植え前の田圃たんぼには、一面に菜の花が咲き乱れ、うららかな春の日差しに思わず眠気を誘われた。

何処どこ道端みちばたで昼寝でも、などと考えながら歩いていると、名主なぬしのものとおぼしき大きな農家から、男たちの怒声が聴こえてきた。


“Je l'ai trouvé !”

“Les femmes se distinguent. Vous pensiez sérieusement pouvoir nous distancer ?”


聞きなれない、鼻にかかったような響きの言葉だ。

しかし、母屋おもやの前にそれらしき人影はない。

元来、好奇心の強い篠原は、わざわざ道を外れて建物を周りこんでみた。


裏手には、帷子川かたびらがわから引き込んだ水路の脇に水車小屋があって、木戸の前に見たこともない赤毛の大男が二人、仁王立におうだちしていた。

ともに円筒形の帽子をかぶり、赤いシングルの詰襟つめえりを着て、白のキュロットにブーツをいている。

初めて目の当たりにする日本人には、ギョッとするような出で立ちである。


紅毛人こうもうじん(外国人)か!)

篠原は、“夷狄いてき”との初遭遇ファーストコンタクトに身を固くした。


そろいの着衣コスチュームから察するに、彼らが着ているのはおそらく制服であり、つまり職業軍人だろうか。

男たちは水車小屋から、一人の女を引きずり出そうとしていた。

「いやです!よしてください!」

女の顔は見えないが、泣き叫ぶ、か細い声だけが聴こえる。


「お前たち!そこで何をしている!」

篠原は、ほとんど反射的に大声を発していた。


男たちが振り向き、一瞬、篠原に気をとられたすきに、女はその手を振りほどいて篠原に駆け寄ってきた。

「お侍様さむらいさま、お助け下さい!」

篠原は女をかばうように背後へと押しやり、紅毛人こうもうじんにらみつけた。

貴様きさまらが誰であれ、この国の女に手を出すことは許さん」

しがみつく女の手が小刻みに震えているのを感じる。

美しい女だった。

「娘、名はなんという?」

「こ、琴と申します」


“Nous sommes les propriétaires légitimes de la femme !(我々は、その女の正当な所有者だ!)”

男たちの一人が叫んだ。

もちろん、篠原にはその抗議を理解できない。


「お琴、なんなんだ、こいつらは?」

篠原は困惑して、琴にたずねた。

仏蘭西フランス公使館こうしかんの護衛兵です。切支丹キリシタンの僧侶に言いつけられて、私を捕えに来たんです」

「なんだと?いったい、どういうことだ」

しかし、詳しい事情を聴く猶予ゆうよなどなかった。


護衛兵たちは二人に詰め寄り、篠原が抜刀するいとまもなく、女の腕を引きはがした。

「やめんか!」

篠原は得意の体術で相手のふところに潜り込み、

背中越しにえりそでをとって、背負い投げの動作に入ろうとした。

が、彼らの制服はぴったりと身体に張り付いていて、うまくつかむことが出来ない。

あっという間に突き飛ばされ、体勢を崩したところを殴りつけられた。

護衛兵のこぶしは篠原のほお骨を捉え、彼をあぜいつくばらせた。

さらに、四つんいになった篠原のみぞおちを、もう一人が蹴り上げる。

「ぐっ!」

フランス人はうつぶせに倒れた篠原の背中を片膝ひざで押さえつけ、あっという間に組み伏せてしまった。


その間に、もう一人の男が、琴ににじり寄った。

“Réfléchissez. Tu retournes là où tu dois être.(観念しろ。おまえは、自分が居るべきところへ戻るんだ)”


しかし。

琴は、先ほどまでのしおらしい態度から一変して、不敵に笑った。


「私に刃物を持たせたのが運の尽きね」

彼女はいつの間にか、篠原の脇差わきざしを抜き取っていた。


フランス人は後ずさった。

“Va te faire foutre !(クソッタレ!)”

毒づいて、ふところからピストルを出し、身構える。

“Hé, écoutez, d'accord ? Okoto-san, il faut que tu te calmes. (なあ、いいか?お琴さん、落ち着くんだ)C'est vrai que tu es dans une situation difficile en ce moment. Mais ce n'est pas la pire.(確かに今のあんたは、なげくべき身の上かもしれん。だが、最悪ってわけじゃない)Sais-tu comment sont traités les esclaves noirs en Amérique ? Comparé à eux, tu as encore la chance de porter de beaux vêtements et de vivre dans un manoir. (アメリカの黒人奴隷こくじんどれいたちがどんな扱いを受けているか、あんた知ってるか?連中に比べれば綺麗な服を着て、お屋敷に住めるあんたはまだ幸せだ)

Le fait est que chaque vie est différente selon le point de vue que l'on adopte.(つまり、どんな人生も、視点によって見え方が変わるってことさ)”

琴は、激しい口調で反論した。

“Oui, j'en suis sûr. Dans cette logique, je suis bien plus heureux que les veaux élevés dans un restaurant de hot-pots de bœuf à Irifune-cho. Mais de telles comparaisons ne signifient rien. (ええ。その理屈で言えば、わたしは入船町いりふねちょう牛鍋屋ぎゅうなべやで飼われてる子牛よりずっと幸せってことになる。けど、そんな比較に、なんの意味があるっていうの)”

どうやら彼らの言葉が話せるらしい。


挿絵(By みてみん)


「お侍様さむらいさま。私はね、青い眼の坊主に買われてめかけにされ、はずかしめられて、逃げてきたの」

琴は、何かの決意を秘めた目で、いつくばる篠原に語りかけた。

「この刀が吸った血を、忘れないで」


「え?」

篠原の返事は、自分でも呆れるほど間が抜けていた。


次の瞬間、琴は脇差で自分ののどを突き、

鮮血が護衛兵の顔に飛び散った。


篠原を押さえつけていた護衛兵も、思わず手を離して悪態あくたいをついた。

“Merde ! Oh, mon Dieu ! Putain de merde !(クソ!なんてこった!畜生!)”


思いもかけない結末に、篠原はただ立ち尽くすことしか出来ないでいる。


“Cette femme est la préférée du Père Cachon, vous savez ? Comment expliquer la situation ?(神父様のお気に入りだぞ。なんと言い訳する?)”

女の遺体を見下ろしながら、一人が途方とほうに暮れた様子でもう一方の兵士にたずねた。


“Dites-leur simplement que vous êtes mort. Il existe de nombreuses alternatives aux prostituées.(ただ、死んだと伝えればいい。売女ばいたの代わりなどいくらでもいる)”

“Mais moins de six mois se sont écoulés depuis l'affaire Abbott.

(だが、アボットの一件があってから、まだ半年も経っていない。)

Je suis sûr que les fonctionnaires du bureau du magistrat vont faire des histoires…(奉行所の役人が騒ぎ立てるぞ…)”

“Ne vous préoccupez pas des absurdités. La situation est différente de celle de l'affaire Abbott. Dans ce pays, une femme qui couche avec un païen est traitée comme un porc. Si l'un des animaux d'élevage de quelqu'un meurt, personne ne s'en préoccupe. (バカを言うな。アボットの時とは事情が違う。この国では外国人と寝た女は豚と同じように扱われる。家畜が一匹死んだところで、誰も気に留めんさ)”


よしんば、篠原に彼らの国辱的こくじょくてきな言い草が理解できたとしても、返すべき言葉は見つからなかっただろう。

なぜなら、それがこの国の現実だった。


その動かぬ証拠が今、篠原の眼前、紅い血だまりの中に横たわっている。

辺りには、咲き乱れるすみれの花が風に揺られ、

水車から滴る水の音だけが聴こえていた。






【用語・地名・人名】

生麦村なまむぎむら:現在の横浜市鶴見区。1862年(文久2年)に、薩摩藩の行列を横切ったイギリス人を殺傷した「生麦事件」が発生した場所。篠原が「何もないな」と言っているのは、大事件の舞台でありながら静かな農村であることへの対比。

神奈川宿かながわしゅく:東海道五十三次、江戸から3番目の宿場。水運の拠点として栄え、開国後は当初ここに各国の領事館が置かれた。現在は横浜市神奈川区。海を見下ろす高台にあり、多くの景勝地や茶屋があった。

野毛のげ切通きりどおし:横浜開港に伴い、街道(東海道)と横浜港を直結させるために山を切り拓いて作られた近道。現在の横浜市西区付近。

横浜村よこはまむら:もともとは半農半漁の小さな村だったが、幕府が意図的に東海道から離れたこの地を開港場としたことで、急速に西洋文明が流入する異空間へと変貌した。

脱藩だっぱん:武士が藩の許可なく、所属する藩を離れて浪人になること。当時は死罪にも値する重罪だったが、国事に奔走する志士たちの多くがこれを行った。

草莽そうもう志士しし:「草莽」は草むら、つまり在野(民間)を意味する。官職や家柄にとらわれず、国家の危機に立ち上がった低い身分の武士や浪人、豪農たちのこと。

紅毛人こうもうじん:もとはオランダ人を指したが、幕末には転じて広く「西洋人」を指す蔑称・通称として使われた。髪が赤茶色に見えたことに由来する。

公使館こうしかん:外国の公使(外交官)が駐在する施設。現在の「大使館」に相当する。仏蘭西公使館フランスこうしかんなど当時は横浜の軍陣山(現在の港の見える丘公園付近)などに居留地や施設が置かれていた。

公使こうし / 各国公使の館:大使に次ぐ格式を持つ外交官(大使館に相当する外交拠点を公使館と呼ぶ)。関内にはフランス、イギリス、アメリカなどの公使館が集まっていた。

詰襟つめえり・キュロット・ブーツ:当時のフランス軍の軍服。和装が当たり前の日本人にとっては、非常に奇異で威圧的な服装に映った。

名主なぬし 村政の責任者。村役人のトップ。

めかけ:本妻とは別に、養われながら情交を結ぶ女性。ここではフランス人神父などの愛人とされた日本人女性(通称「ラシャメン」などと呼ばれた人々)の悲劇的な立場を指している。

牛鍋屋ぎゅうなべや:文明開化の象徴となる、牛肉を醤油や味噌のタレで煮込んで食べる「牛鍋(すき焼きの原型)」を提供する飲食店。文久2年(1862年)に横浜の入船町で開業した「伊勢熊」は横浜の入船町に実在した、日本における「牛鍋(現在のすき焼きの原型)」の開祖とされる店。当時、牛肉を食べる習慣のなかった日本において、外国人の居留地文化の影響を受けて誕生し、大流行した。



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