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旅立つ日 Part2

雨はいつの間にか雪に変わっていた。

大蔵おおくらが妙にあおざめた顔で戻って来たとき、すでに道場には医者が到着していた。

大蔵おおくらは事情を説明する内海の話を半ば聞き流しながら、清水真郷しみずまさとと名乗るその医者をじっと見つめていた。

「ずいぶん若い医者だな。大丈夫なのか」

蘭方医らんぽういの卵だそうで、腕は確かなようです」

「わざわざ麹町こうじまちからきたとか?」

「ええ。例の真田範之助が手配してくれたんです」

その名を聞き、大蔵おおくらは一瞬だけまゆひそめたが、何も言わなかった。


清水の治療は夜を徹して続いた。

薬湯やくとうを煮る匂いと、濡れた木の匂いが混じり、道場は眠らぬ夜を迎える。

弟子たちは皆、誠一郎の容体に気をみながら、言葉少なに控えの間で夜明けを待っていた。

誰ひとり、畳に横になろうとする者はいない。


それぞれ江戸からの出立を控えた加納道之助と藤堂平助は迷っていた。

「もう少し先延ばしにしようかと」

異口同音に告げる二人を、大蔵おおくらは静かにさとした。

男子一生だんしいっしょうの事業を成すつもりなら、親の死に目にも会えない覚悟を持て。まして、時代は刻一刻と動いているのだ。為すべきことがあるなら、先生から教わった剣法を生かすのは今を置いてないのではないか」

その言葉に、内海は感極まった。

胸の奥にめ込んでいた思いが、せきを切ったようにあふれ出す。

「先生、先生はまだ、報国の志を捨ててはいないのですね」

大蔵おおくらは一瞬、視線をらし、そして少しはにかむように笑った。

「ばか、伊東先生なら、そうおっしゃるはずだと思っただけだ」


「けど、オレは…」

それでも躊躇ためらう藤堂に、大蔵おおくらは声を落とした。

「お父上が二条城守衛に推されたといううわさを聞いた。向こうに行けば会う機会があるかもしれん」

藤堂平助には伊勢津藩主藤堂高潔いせつはんしゅとうどうたかきよ落胤らくいんといううわさがあり、本人は何も話したがらなかったが、大蔵おおくらはおそらくその沈黙こそが答えだと感じていた。

「は?そんなもん関係ねえよ。あんな野郎、別に親だなんて思ってねえし」

「だがな、平助。それでも、血の繋がりというのは何物なにものにも代えがたい」

藤堂の意地を張る様子に、大蔵おおくらは苦笑を浮かべる。

藤堂は、その態度に反発するように声を荒げた。

「先生を江戸に縛り付けているのも、それか?まだ報国の志があるなら、本当は京に上りたいんじゃないのか」

「確かに、そんなときもあったが…」

今はもう違うという口ぶりだった。

「そんなのウソだ。お琴さん…姉さんのことだろ?ほんとは先生だって…」

琴の名前を聴いた途端とたん大蔵おおくらの顔は青ざめた。

藤堂は失言をさとり、後悔の念に顔をゆがめた。

「ああ、認めよう。血の頸木くびきを断ち切るのは容易たやすくない。だから、お前は行くがいい。行って、一人前になったお前の姿を父上に見せて来い」

「…わかったよ」

短く答えた藤堂の声は、どこか震えていた。

「ふたりとも、今日はもう帰って休め。先生のことは我々に任せよ」

大蔵おおくらは背を向け、低く告げた。


二人の足音が遠ざかるのを待って、師範代しはんだいの中西登が、ためらいがちに大蔵おおくらへ歩み寄った。

「しかし先生、加納はともかく、平助を止めなくていいんですか。やつが行動を共にしている試衛館しえいかんの連中は、多摩たま百姓ひゃくしょうですよ?浪士組とやらは、流行はやり病のような攘夷じょうい熱にほだされた怪しげな集団なのでは?」

「それもこれも、時代だよ。彼らのはやる気持ちを止めることは誰にもできん」


苦い過去。

あの日、大蔵おおくらは親友を止めることが出来なかった。

そのことに後悔はない。

後悔があるとすれば、友の死が報われなかったことだ。

「いまは好きにさせてやろう」

そう言い残し、大蔵おおくらは誠一郎のせる離れへと足を向けた。


「あとは、しばらく様子を観ましょう」

憔悴しょうすいしきった医者がそう言って腰を上げると、部屋に張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。

「ありがとうございます」

大蔵おおくらは深く頭を下げ、医者を門まで見送った。

「伊東先生は助かりますか」

「どうかな。あのお歳だ。いずれにせよ医者に出来るのはここまでです」

清水は白い息を吐きながら言葉をにごした。


離れでは、卯梅うめが誠一郎の枕元に座り、途切れ途切れに息をつく父の様子を見守っていた。

灯明とうみょうの火が揺れるたび、痩せたほおに影が落ちる。

戻って来た大蔵おおくらは、その背にそっと羽織はおりを掛けた。

「代わろう。少し寝た方がいい」

卯梅うめは首を振り、目を伏せたまま小さくつぶやいた。

「みな、行ってしまうのね。何もかも変わっていく。なんだかこの世に私だけがひとり取り残されてしまうような気持ちです」

「平助も加納も、自分の道を見つけたんだ」

「そうね。みんな、若くして国のために尽くそうとしているのに、私は自分の心配でいっぱいいっぱい。母はもういないし、このうえ、お父様が死んでしまったら、どうなるんだろうなんて…」

大蔵おおくらは何も言わず、泣き崩れる卯梅うめの肩を、そっと抱いた。

「…白粉おしろいの匂い」

「夕べ、柳町で飲んだからな」


次の瞬間、卯梅うめの平手が大蔵おおくらほおを打った。

「なんてひとなの?あんなときに!」

「昨日は色々あってな」

「出てって!お父様は私がます!」

突き放そうとする卯梅うめの唇を、大蔵おおくらはいきなり奪った。

驚き、身を固くする卯梅うめの耳元に大蔵おおくらささやいた。

「私は何処どこにもいかない。私はもう、まつりごとに関わりたいとは思わない」


翌日。文久三年二月七日


誠一郎の容体は変わらず、だが時間だけが確実に過ぎてゆく。


藤堂平助と加納道之助は、師の寝顔を静かに見舞い、道場にいとまを告げた。

「オレは明日、試衛館しえいかんの方々と京に上ることになったんだ」

藤堂が清々しい顔で加納に言った。

「では、道中横浜に立ち寄ることがあれば顔を見せてくれ」

「いや、浪士組は中山道を行くらしいから、横浜は通らない」

道之助は、感慨深げに道場の門を見やった。

「そうか。じゃあ、私たちもここでお別れだな」

二人は、言葉少なに固い握手を交わした。


藤堂は大蔵おおくらの前に立ち、深々と頭を下げた。

「それでは行って参ります」

大蔵おおくらけわしい表情で懐中かいちゅうに腕を組み、すぐには答えなかった。

「…死ぬな、平助。私からの手向けの言葉はそれだけだ」

大蔵おおくらにとって、それは桜田門外の変で失った友、森山繁之助に言えなかった言葉だった。

「ですが、オレにも尽忠報国じんちゅうほうこくの…!」

藤堂の反論を、大蔵おおくらは言わせなかった。

「いいか。私の許可なしに死ぬことは許さぬ。自分の命を安く売るな」

「は…はあ」

「もういい。行け」

藤堂は最後に一度だけ振り返り、そして道場を後にした。



師、伊東誠一郎が他界したのは、それから二月ふたつきほどのち、桜が花を散らす頃だった。




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