闇医者
大蔵は台の茶屋でなんとか着替えると駕籠を雇い、脚を引きずりながら、辛うじて下谷の置屋まで辿り着いた。
「着物を汚してしまった。すまない」
勝奴は血に染まるその着衣を見て、目を見開いた。
「大変!なにがあったの!お医者様に診せなきゃ!」
「いいから、放っといてくれ。藩に知られて騒ぎになるのは不味い」
大蔵は蒼ざめた顔で拒んだ。
「…例の清水様なら、こっそり手当てしてくれるわ」
「ダメだ。あんな得体の知れない奴に…!」
大蔵はそこまで絞り出すと、糸が切れたように気を失った。
「まったく…」
勝奴は店の者に駕籠を呼ばせると、大蔵の荷物を解き、血の滴る振袖を押し入れに隠した。
その時、風呂敷包みから血を吸ったシルクのスカーフがひらりと落ちた。
「…こんな舶来品、どこで貰ったのかしら」
一瞬、嫉妬にも似た感情が勝奴の瞳をよぎる。
が、今はそれどころではない。
駕籠が着くと、勝奴はなんとか大蔵を背負って行き先を告げた。「麹町にやって。清水真郷って、医者崩れのご浪人なんだけど」
「ああ、知ってるよ。あの界隈じゃ有名人だ。金がなくても看てくれるってね」
駕籠かきはそう言ってから、急に勝奴の懐具合が気になりだしたのか、疑わし気な視線を向けた。
「…まさか疑ってるの? ほら、前金よ!」
勝奴は、ため息をついて駕籠かきに一分銀を握らせた。
「冗談だろ。麹町はお城の反対側だぜ?」
つまり、おおよそ一里半(5.6Km)の道程である。
大蔵の様子で切迫した雰囲気を察して、足元を見ているらしい。
「わかったわよ!釣りは取っときな」
勝奴は投げつけるように、もう一枚銀貨を渡した。
意識のない大蔵を駕籠に押し込みながら、勝奴は耳元に囁いた。
「言っとくけど、これは貸しだからね?」
駕籠に同行した勝奴は、夜半、押し込み同然に棟割長屋の一室を強襲した。
そろそろ布団に入ろうと寝間着に着替えていた清水真郷が、板戸の隙間から顔を覗かせる。
「勝奴?どうしたんだ、こんな時間に?」
「お望みの御仁をお連れしたわよ」
運び込まれた瀕死の患者を見て、清水は半分閉じかけていた目を見開いた。
「彼は…伊東道場の?」
勝奴は有無を言わせず大蔵を運び込んで、傷を診せた。
事情を聴かされた清水は、さらに目を丸くした。
「おいおい、こりゃ…銃創じゃないのか。この傷で歩いて帰って来たって?!」
勝奴は、思いつめた顔で清水に迫った。
「死なせないで」
狭い四畳半は一瞬にして濃厚な血の臭いと、薬草の苦い香りに包まれた。
「弾は抜けてるのか?」
「さあね。私が見たときは、ろくに口も利けなかったから」
「やれやれ。厄介な患者を持ち込んでくれたな」
清水は大蔵の傷口を洗浄するため湯を沸かすよう勝奴に指示すると、袖をまくり上げ、ノミを握る手に力を込めた。
勝奴は血に染まった清水の指先を見つめながら、自分の両腕をきつく抱いた。
ほとんど昏睡状態だった大蔵が、ようやく目覚めたのは二日も経った後だった。
四畳半の天井は低く、薬湯の蒸気で湿っている。
大蔵の身体は、焼けるような高熱に晒され続けていた。
「伊東様?」
ずっと付き添っていた勝奴が、そのやつれた頬に手を触れると、薄っすらと目を開けた大蔵は天井をじっと見つめた。
「…例の歌だが」
「えっ?」
「切られた月桂樹が、大樹公。それを拾うのが、外様の雄藩…そういうことか」
それが第一声だった。
勝奴は熱に浮かされた譫言の意味をしばらく考えて、自分が歌い聴かせたフランス民謡のことを言っているのだとようやく思い当たった。
「馬鹿ね。あれは、大昔からある歌よ。そう言ったでしょ?」
だが、大蔵は朦朧としたまま、自分の考えを話し続けた。
「だとすれば、踊りながら口づけを交わすのは誰だ。例えば薩摩と……」
「まるで釜次郎さんと話してるみたい。ねえ、何か食べた方がいいわ」
「それは誰…?」
大蔵はようやく勝奴と目を合わせた。
「なんでもない。ただの幼馴染よ。ほら、お水」
勝奴は湯呑を大蔵の口元に運んだ。
大蔵は喉を鳴らして水を飲み干すと、少しだけ意識がはっきりしたのか、傍らに置かれたシルクのスカーフに目を留めた。
「…それは?」
「大事なものなんでしょう?洗ったけど、血の跡がとれない」
勝奴の言葉には、微かな棘が含まれていた。
その翌日。
傷口の熱が引くのも待たず、大蔵は何事もなかったかのように道場へ戻った。
卯梅は目に涙を溜めて大蔵に詰め寄った。
「私がなにも気づいてないとお思いですか!? 何日も家を空けたと思ったら、青白い顔で戻ってきて!! どこかお怪我をされたんでしょう!」
「…疲れているだけだ。心配をかけてすまなかったな」
大蔵が行方をくらましていた三日間、卯梅は夫が出仕できない理由を釈明するため、病状まで考えねばならなかった。
「心配? 私は…不安なんです。貴方が思いつめた顔で何も言わずに出ていくたびに、もう二度と戻って来られないんじゃないかと」
「ここは私の家で、お前は妻だ。そんなわけなかろう」
大蔵は努めて穏やかに応じた。
死線を彷徨った二日間で、彼の感情の中で何かが失われていた。
「本当に? 大蔵様は何か大きな秘密を抱えてらっしゃる」
「だとしても、それはこの家と関わりのないことだ」
「…もう、いいです」
卯梅は短く吐き捨てると、顔を覆って奥へと走り去った。
大蔵はそれ以上追うことはせず、ただ痛む傷口を押さえながら、暗い部屋に引きこもった。
あれだけ二人を慕っていた内弟子の鎗次郎も、彼らの不穏な雰囲気をなんとなく察して、近ごろは近寄ろうとしなくなっている。
大蔵は形ばかり傷が塞がると、周囲の制止も聞かず再び横浜へと向かった。




