表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/90

掌に収まる欠片

 千紗が「欠片……」と呟いたのは、玄関の鍵を回した直後だった。

 ただいま、の前に出る言葉がそれって、だいぶ珍しい。


「ただいま」

「……ただいま。ねえ、今日の私、欠片しか残ってない」


 言い方が、投げやりじゃないのが逆に心配になる。俺の“受信機”が、音の端っこを拾って起動する。

 千紗は靴を脱いで、ソファじゃなく椅子に座った。背もたれを少し立てる。キュ、と床が鳴る。第三の動きが先に空気を整える合図。


「凹凸?」と俺が聞くと、千紗は頷いた。


「凹凸。刺さった。胸の内側、ちょっとザラザラ」


 苛立ちというより、摩擦。表面張力の膜が薄くなって、擦れた感じ。

 俺はテーブルの端の小さな鈴に指を置く。まだ鳴らさない。鳴らす前に“置く”だけでも、落ち着くときがある。


「欠片って、何の欠片」

「……自信」千紗は笑った。笑いは出るのに泡が立たない。「自信が、欠片1ピースしかない」


 欠片1ピース。言い方がゲームみたいで、ちょっとだけ救いが混じる。全部じゃなく、ひとつ。ゼロじゃない。

 俺の中で「チッ」が鳴りかけて止まる。ブザーは、千紗を責めたいわけじゃない。今このままだと、千紗が自分に厳しい方向へ滑るという警報。


 ブザー→凹凸→一手。


 俺は鈴を鳴らした。チリン。

「さぁ。欠片1ピースを、ちゃんと“ピース”にしよう」


「なにそれ」千紗が少しだけ口角を上げる。「欠片のままだとダメ?」


「欠片は欠片で大事。でも、欠片って“壊れた側”の言葉じゃん。ピースは“組み上がる側”の言葉」


 千紗は膝の上で手を握って、ほどいた。ほどいた指先が落ち着かない。

 俺は冷蔵庫を開けて、りんごを取り出した。こういう時は、食感で割る。言葉が渋滞するとき、シャクは交通整理になる。


「シャク、いる?」

「いる」千紗は即答した。「今日の口の中、粉っぽい」


 りんごを切る。今日は厚すぎず薄すぎず。噛む回数が増えすぎると疲れるし、少なすぎると気持ちが滑る。

 千紗がひと切れ噛む。


 シャク。


 音が、部屋の輪郭を立てる。外の世界が少し遠くなる。ここが“帰る場所”になる。


「で」俺は言った。「今日、何があった?」


 千紗はりんごをもうひと切れ噛んでから話し始めた。


「上の人にさ、言われた。『最近、言い切りが弱いね』って」

「うん」

「別に怒られたわけじゃない。むしろ心配された。でも…」千紗は指でテーブルの木目をなぞった。細い溝がスリットみたいに続く。「“弱い”って言葉、便利すぎる。私の全部が弱いみたいに聞こえる」


 便利な言葉は、表面をつるつるにする。つるつるは滑る。滑ると、渦に落ちる。

 俺は頷く。拾って、置く。


「千紗の“言い切り”って、何のために必要だった?」

「……守るため」

「誰を?」

「自分も、相手も。どっちも」


 その答えが、千紗の良いところだ。攻撃じゃなく、境界線のための言い切り。刃物じゃない武器の側の人。


「じゃあ、“弱い”って言葉は」俺は言う。「千紗の武器を鈍らせる言い方だね」


「そう。で、帰り道に、ずっと思った。私、もう言い切れないのかなって」

「欠片1ピースになった」

「うん。欠片だけ」


 アンが足元を歩いて、首輪の鈴を鳴らした。チリン。生活の確認音。

 千紗の肩が、ほんの少しだけ落ちる。落ちるのは悪いことじゃない。力を抜ける場所があるってこと。


「五人、呼ぼう」俺はコップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人は、感情整理の会議室だ。


「今日の主役は?」

「コーヒー」千紗が言った。「怒ってる。『言い切れ』って叩いてくる」

「ほうじ茶は?」

「落ち着けって言う。『いつも通りで』って」

「紅茶は?」

「説明したい。上の人に、私の意図を」

「炭酸は?」

「笑ってごまかしたい。『気にしすぎ』って」

「白湯は?」

「黙って抱える。胃が重い」


 千紗は言い終えて、少しだけ笑った。「忙しい」


「忙しいなら、分ける」俺は言う。「で、ピースの話」


 俺はメモ用紙を出して、真ん中に一本線を引いた。左にSURFACE、右に中身。スリットを作る。


「左に、今日言われた“表面”」

「……『弱いね』」

「右に、中身」

 千紗は少し止まってから、書いた。

「……『丁寧にしたい』」


 丁寧にしたい。言い切りを弱めていたのは、弱さじゃなく配慮の可能性がある。

 俺はそこに、ピースを一つ足す。


「それ、欠片じゃなくてピースに近い」

「え」

「丁寧にしたい、は“選んでる”だろ。弱さじゃなく選択」


 千紗はペン先を指でくるくる回した。先端をゆっくり、荒く。考える癖。

 そして、ぽつりと言った。


「でも…選んでたとしても、結果が弱く見えるなら意味ないじゃん」


 ここが渦の入口だ。

 俺の中で「チッ」が鳴る。ブザー→凹凸→一手。


「凹凸」俺は言った。「いま、滑りそう」

「うん」千紗が頷いた。「滑る」


「一手」俺は鈴を鳴らした。チリン。さぁ。

「“言い切り”を、強さの演技じゃなく、手順にする」


「手順?」

「うん。ゼロか百かじゃなく、椅子一センチの言い切り」


 千紗が眉を寄せる。「言い切りにも一センチあるの?」


「ある」俺は言って、紙に短く書いた。


『私は〜だと思います。→ 私は〜です(理由一行)』


「これ」俺は指でトントンする。「欠片1ピースの言い切り。全部の自信じゃなくても言える」


「理由一行…」


「理由は“防御”じゃなく“説明”でいい。紅茶が担当」


 千紗はしばらく黙って、炭酸を開けた。プシュ。泡の音が、張り詰めた膜に小さな穴を開ける。


「ねえ」千紗が言った。「今日、帰り際に、変なもの貰った」


「変なもの?」

「同僚の子がさ、机の上に置いてって…」千紗はバッグを開けて、指先で何かをつまんだ。小さい、厚紙みたいな。

 それは、ジグソーパズルのピースだった。裏にマジックで書いてある。


『これ、千紗さんっぽいので。』


「なにそれ!」俺は声が出てしまって、千紗も笑った。ようやく炭酸の笑いが混じる。


「その子、最近パズルにハマってるらしくて。配るんだって、ピース」

「配るな」

「でしょ。でも、今日の私には…刺さった。ピースって、足りないと完成しないじゃん。だから、ひとつでも持ってれば“完成側”にいる気がする」


 欠片1ピース。今日のタイトルが、掌に来た。

 俺はそのピースを受け取って、光にかざした。絵柄は、青い空の端っこ。雲の欠片。端っこなのに、ちゃんと空。


「これ、いいね」俺は言った。「端っこ担当の美しさ」


「端っこ担当」千紗が繰り返す。「私、端っこ担当なのかな」


「端っこ担当は強いぞ。端っこがないと全部が崩れる」

「急に数学」

「いや、パズル」


 千紗はピースを見つめて、少しだけ息を吐いた。白湯が席に戻った呼吸。


「じゃあさ」千紗が言う。「このピース、うちの合図にしない?」


「合図?」

「うん。言い切りが揺れたとき、これを触る。凹凸の代わりじゃなくて、凹凸の横に置く手すり」


 俺は頷いた。いい。手すりは一本より、二本あるほうが転びにくい。

 俺は紙に、うちの仕様を書き足した。


『チッ(ブザー)→ 凹凸 → ピース → 一手』


「ピースって入るの、かわいい」千紗が笑う。

「かわいさは武器」

「刃物じゃないやつね」


 千紗は椅子をほんの一センチ、俺の方へ寄せた。キュ。第三の動きが近づく方向に働くと、言葉が柔らかくなる。


「ねえ」千紗が言った。「あなた、私が言い切れないとき、イラついてる?」


 質問が、すれ違いの入口に似てる。でも今日は手順がある。

 俺は一拍置いてから、具体で返す。about love のやり方。


「イラつかない」俺は言った。「ただ、千紗が自分の良さを“弱い”ってラベルで雑に片付けそうになると、チッが鳴る」


「チッ、あなたの中でも鳴るんだ」

「鳴る。ブザーは、守るための音」


 千紗はピースを指で撫でた。紙端の硬さ。滑らない。表面がつるつるじゃない。


「じゃあ、今日の練習」千紗が言った。「欠片1ピースの言い切り、やってみる」


「どうぞ」


 千紗はメモを見て、深呼吸した。

 そして、言った。


「私は、今回の資料の構成、これで行きたいです。理由は、相手の読む順番が迷子にならないから」


 短い。言い切った。理由一行。

 言い切りが“強さの演技”じゃなく、“手順の共有”になっている。


「行けるじゃん」俺が言うと、千紗は照れくさそうに顔をしかめた。


「行けんだろう、って言わないで」

「じゃあ言わない」

「うん。でも…」千紗はピースを握って、少し笑った。「たぶん、行ける。欠片じゃなく、ピースで」


 アンがテーブルの下で鳴いて、首輪の鈴がチリンと返事をした。

 俺は鍋を温め直して、湯気を立てる。質問より先に湯が出る。今日も、言い切りより先に湯気が出る。


 千紗が小さな鈴を鳴らした。チリン。


「さぁ」千紗が言う。「ごはん食べて、ピース箱、作ろう」


「ピース箱?」

「うん。今日みたいに、ひとつでいいから“完成側”に連れてくるもの入れる箱」


 欠片は、壊れた証拠じゃない。

 ピースは、組み上がる未来の一部。

 掌に収まる一片でも、ちゃんと明日の形を持っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ