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声の置き場所

 アンが、朝の六時に鳴いた。

 正確には、鳴いたというより“鈴を鳴らした”。首輪のチリンが先に鳴って、そのあとに「にゃ」がついてくる。順番が逆だと、妙に笑える。生活の音の編集が、そこにある。


「おはよう、アン」


 俺が布団から起き上がると、千紗が寝返りの途中で小さく唸った。起きる気配はない。でも、耳は起きてる。受信機は、寝てても働く。


 台所でケトルのスイッチを入れる。湯が沸く低い唸り。いつもの音。いつもの膜。

 白湯を二つのカップに注いで、湯気の向こうに朝の顔を作る。


 千紗は少し遅れて起きてきて、椅子に座った。ソファじゃない。椅子。背もたれを少し立てる。キュ。第三の動きが、朝でも働く。


「白湯、先?」

「先」


 会話が短いのは、悪いことじゃない。短い会話の中に“いつも通り”がある。as ever のボタン。


 でも、千紗の目は、今日少しだけ遠い。疲れてる。渦の残り香。昨日のすれ違いの糸の端。

 俺の受信機が、朝の静けさの中で拾う。


「凹凸?」と俺が聞くと、千紗は首を傾げた。


「凹凸じゃない……でも、喉が、詰まってる」


「喉が?」


「うん。言葉が出ないのに、何か出したい感じ。……歌いたい、みたいな」


 歌。タイトルみたいな単語が、生活のテーブルに置かれると、急に軽くなる。でも軽くしすぎると薄くなる。ほどほどの厚みが必要だ。


「歌う?」俺は笑って言った。「朝から?」


「歌うっていうか」千紗は白湯をすすって、喉を温める。「歌、みたいに言いたい。言葉のままだと、刺さるから」


 刺さる。凹凸の話に近い。でもまだ手すりを掴むほどじゃない。刃物じゃない武器で、角度を変えるくらいでいい。


「じゃあ、歌に変換する手順、やろう」俺は言った。


「手順、好きだよね」千紗が笑う。炭酸が一粒だけ泡を出す笑い。


 俺はテーブルにメモを置いて、一本線を引いた。左にSURFACE、右に中身。スリットを作るのは、もはやうちの朝のストレッチだ。


「左に、今の表面」

「……『別に平気』」千紗が言った。

「右に、中身」

「……『平気じゃないけど、声にすると怖い』」


 書けた。声にできた。まだ歌じゃない。でも歌の入口。


「歌ってさ」俺は言った。「声を“そのまま”出すんじゃなくて、声を“乗せる”じゃん」


「乗せる」

「うん。メロディに乗せると、同じ言葉でも刃になりにくい。角が丸くなる」


 千紗は頷いて、少し考えた。「じゃあ、私の“平気じゃない”を、丸くしたい」


「食感、使う?」

「シャク?」

「うん。声の前に、噛んで喉を開く」


 俺はりんごを切った。今日は薄く、でも芯に近いところの硬い部分を混ぜる。柔らかいだけだと、喉は開かない。硬さが、声の支えになる。


 千紗がひと切れ噛む。シャク。

 音が、喉の奥のドアノブを回すみたいに響く。


「ちょっと出る」千紗が言った。「声、出る気がする」


「じゃあ、試しに」俺は鈴を鳴らした。チリン。さぁ。

「一行だけ、歌っぽく言ってみて」


「歌っぽくって何」千紗が笑う。

「メロディは要らない。語尾を、少し伸ばすだけでいい」


 千紗は白湯を一口飲んで、息を整えてから言った。


「だいじょうぶ……じゃ、ないんだよ」


 語尾が少し伸びた。それだけで、同じ内容が刺さりにくくなる。歌は、生活の表面張力になる。


「いいじゃん」俺は言った。

「恥ずかしい」

「恥ずかしいは正常」

「WAIT!」千紗が笑って言って、両手で顔を覆った。「朝からなにしてんの私」


 でも笑いが出る。炭酸が泡を出す。これは良い方向。


 俺はコップを五つ並べた。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人を呼ぶ。歌は、感情の合唱にもなる。


「今日の主役は?」俺が聞く。

「紅茶」千紗が言った。「言葉にしたい。だけど角を丸くしたい」

「コーヒーは?」

「ちょっと怒ってる。でも怒りをそのまま出したくない」

「ほうじ茶は?」

「いつも通りでいろって言ってる」

「炭酸は?」

「笑って誤魔化したい」

「白湯は?」

「抱えてる。黙って抱えてる」


 千紗は言い終えて、少しだけ肩を落とした。落としたというより、声の重さを椅子に預けた感じ。


「歌ってさ」千紗が言う。「ステージがないと歌えないと思ってた。でも、今みたいに、テーブルでもいいんだね」


「テーブルがステージでもいい」俺は言った。「スポットライトは、湯気で」


 千紗が吹き出した。「湯気ライト」


「今日は曇ってるから、ちょうどいい」


 千紗はメモの右側を見て、少し考えてから追記した。


『歌=刺さらない言い方』


 そして左側に、ちょっと照れくさそうに書いた。


『平気(歌で言う)』


「ねえ」千紗が言った。「今日、会社でさ。嫌なことあったら、どうしよう」


「そのときは」俺は言う。「まずWAIT。止まる。噛む。で、一行だけ歌う」


「会社で歌うの?」

「小声で。心の中で。受信機は心の中でも働く」


 千紗は笑った。「変な人になる」


「変でいい。変は凹凸」


 アンがテーブルに前足をかけて、りんごを狙った。千紗が「だめ」と言って、鈴がチリン。生活の音が、ちゃんとある。


 千紗は立ち上がって、椅子をほんの一センチ、俺の方へ寄せた。キュ。第三の動きが“近づく”方向に働く。


「ねえ」千紗が言った。「あなたは、私の歌、どう思う?」


 俺は一拍置いた。歌に評価を付けると、歌はすぐ萎む。だから評価じゃなく、具体を添える。about love の手順。


「好き」俺は言った。「今の『だいじょうぶじゃないんだよ』の、語尾。ちゃんと戻ってくる音だった」


「戻ってくる音」


「うん。渦に吸われても、すれ違っても、戻る道があるって音」


 千紗は目を伏せて、りんごを噛んだ。シャク。

 音が、今日の一番最初の歌詞みたいに響いた。


「さぁ」千紗が鈴を鳴らした。チリン。

「行ってくる。……歌、持って」


 俺は頷いた。

 歌は、特別な日だけのものじゃない。

 生活の表面に置ける、小さな声の椅子だ。

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