覚悟のスイッチ
「いざ」って言葉は、気合いの音がする。
でも本当は、気合いより先に戸が鳴る音だ。
カチッ。
玄関の鍵を回す音。
ガチャ。
ドアノブに手を置く音。
その二つの音がそろうだけで、私はもう半分外へ出ている。身体は勝手に“出る人”の形を覚えてしまった。怖いのに。いや、怖いからこそ、勝手に出るようになったのかもしれない。怖がって立ち止まると、生活が止まるから。
今日は、止めてはいけない日だ。
テーブルの上に置いた封筒が、白すぎて目立つ。会社のロゴが印刷されているだけで、紙が刃物みたいに見える。中身は退職届。提出先は、午前十時の面談。相手は部長。
退職届は、紙一枚なのに重い。
重いから、私は昨日の夜から何度も手に持って、また置いた。持った瞬間に「これを持つ人になる」という現実が腕に乗る。置くと「まだ決めてない人」に戻れる。戻れることが怖い。戻れるうちは、いつでも先延ばしできるから。
だから私は、先に別のものを揃えた。
靴。コート。ハンカチ。名刺入れ。
そして、心の中の“型”。
型は便利だ。
「お世話になっております」
「恐れ入ります」
「申し訳ございません」
こういう言葉は、防具になる。
でも今日の私は、防具じゃ足りない。
剣が必要だ。
剣といっても、誰かを切るためじゃない。
自分の迷いを切るための、細い刃。
私は洗面所で顔を洗い、鏡の前で自分を見た。
目が少し赤い。寝不足。泣いたわけじゃない。泣く暇がなかった。泣く暇がないのは、泣けないより苦しい。
「……いざ、尋常に」
声に出してみると、意外と笑ってしまった。
誰に向かって言ってるんだ。剣道部でもないのに。
でも、言葉はスイッチだ。言った瞬間に、背筋が少しだけ立つ。
リビングのソファに、彼女が座っている。
同居人で、恋人で、最近は半分、保護者みたいな顔をする人。
「起きた?」
「うん」
「朝、食べる?」
「無理」
「じゃあ、飲む」
彼女は言い切って、マグカップを差し出した。中身は白湯に少しだけ蜂蜜を入れたやつ。喉の奥が焼けるように乾いているとき、これが一番効く。
私は受け取って一口飲んだ。
甘い。
甘いのに、胸がきゅっとする。こういう優しさがあると、私は「やめようかな」と思ってしまう。やめたら、生活が壊れるんじゃなく、怖さが一瞬減るだけだと分かっているのに。
「持った?」
彼女が封筒を指差す。
私は机の上の退職届を見た。
「……まだ」
「じゃあ、持つところから」
彼女は立ち上がらない。
代わりに、手のひらを上に向けて差し出した。受け取るためじゃない。合図のため。
“ここから”の印。
私は封筒を手に取った。
紙が指に触れた瞬間、身体が冷たくなる。
それでも、封筒はただの紙だ。私の心臓のほうが、よっぽど騒がしい。
「怖い?」
彼女が聞く。
「怖い」
「逃げたい?」
「逃げたい」
「でも、行く?」
私は、息を吸って吐いた。
昨日までの私なら「行く」と言えなかった。
「行けると思う」みたいに、曖昧にした。
今日は違う。
「行く」
言えた。
言った瞬間、彼女が小さく頷いた。拍手じゃない頷き。押すでもなく、支えるでもなく、“決めた”を確認する頷き。
「じゃあ」
彼女が言う。
「いざ、だね」
私は笑ってしまった。
笑えるのが不思議だった。
笑いは逃げじゃない。緊張がほどける方の笑いだ。
玄関までの数歩が、長く感じた。
靴を履く。
コートを羽織る。
封筒を持つ手に汗が滲む。
自分の汗で紙が湿りそうで、妙なところが気になる。
ドアノブに手をかけたところで、彼女が背中に声を投げた。
「ねえ」
「なに」
「“負けてもいい”って、知ってる?」
負け。
退職は勝ちか負けか。
分からない。
でも今日の私は、勝ち負けで決めたわけじゃない。
「負けたくない、って思ってた」
私は正直に言った。
「うん。でもね。今日の目的は、勝つことじゃない。
ちゃんと出すこと。ちゃんと言うこと。ちゃんと立つこと。
それだけで、充分に“尋常”」
尋常。
普通。
正々堂々。
私は、ようやくその言葉の意味を少し理解した気がした。派手な決意じゃない。震えてても、逃げずに立つこと。
私は振り返った。
彼女は玄関の手前で止まっている。玄関の外には出ない。送り出す距離を守る人だ。押しすぎない。代わりに、言葉を渡す。
「帰ったら、どうする?」
彼女が聞く。
「……どうするって?」
「帰ったら、まず、靴を脱ぐ。次に、深呼吸。次に、ちゃんと報告。
それから、プリン」
プリン。
生活の火。
私は笑って頷いた。
「プリン、買って帰る」
「よし」
鍵を回す。
カチッ。
その音が、胸の奥のスイッチと同じ音に聞こえた。
ドアを開けると、朝の空気が冷たくて、思ったより清々しい。
空は晴れている。
世界は、私の大事件を知らない顔で回っている。
「行ってきます」
私は言った。
“行ってきます”は、帰る前提の言葉だ。
それが今日の私には救いだった。
「いってらっしゃい」
彼女が言う。
声が、少しだけ強い。強くしてくれている。私のために。
駅までの道、私は封筒をコートの内側に抱えた。
抱えたまま歩く。
歩くたびに、紙が胸に当たる。
当たるたびに、私は思い出す。
これは刃物じゃない。
刃物みたいに見えるだけ。
切るのは、相手じゃない。
私の迷いだ。
会社のビルが見えてきた。
足が少し止まりかける。
止まりかけて、私は心の中で言った。
いざ。
尋常に。
そして、エントランスの自動ドアが開いた。
風が変わる。
私は一歩踏み込んだ。
勝ち負けじゃない。
今日は、ちゃんと立つ日だ。




