点を根に戻す
千紗は帰宅して、玄関で一度だけ立ち止まった。
靴を脱ぐ前に、息を吸う。
よーい、息。後付けのよーいが、今日は早い。
「ただいま」
「おかえり。……今日は、点?」
俺がそう言うと、千紗は少しだけ笑った。
笑いは小さい。でも、沈んでない。
走り疲れのあとに出る、小さい笑い。
「点。すごい点。
今日、私、点になってた」
「点になるって、どういう」
「バラバラ。
朝の会議の私、昼の私、夕方の私が、別人みたい。
それぞれが、それぞれの場所で、“正しい顔”してた」
受信機が、ピッと点灯する。
“正しい顔”は、だいたい我慢の顔だ。
「刺さった?」
「刺さった。というか、抜けた。
芯が抜ける感じ。
どこで何を言ったか、全部覚えてるのに、
“私が言った”って感覚が薄い」
点が散って、線が消えて、根が見えなくなる。
こういう日は、無理に明るくしない。
でも暗く沈ませない。
根っこを触れば、自然に上がる。
俺はテーブルに鈴を置き、ちりんと鳴らした。
武器。背中を押す合図。
「さぁ。点を集めて、根に戻そう」
「根?」
「roots。
点が散ってるときは、“今ここ”に戻る根が必要」
千紗はコートを脱いで、テーブルの端に置いた。真ん中じゃない。
生活の真ん中に外の点を置かない。
それだけで、点が一つ整列する。
「ねえ」と千紗が言った。「今日、何が一番きつかったか分かる?」
「聞く。受信する」
「全部、点だったから、誰にも説明できなかった。
『今日どうだった?』って聞かれても、
『忙しかった』しか言えない。
忙しいって言葉、雑すぎる」
雑は心を噛む。
だから分解。
点を名前で呼ぶ。
名前は根へのロープになる。
チッが舌の裏に浮いた。
俺は歯の裏で止める。
チッ=ブザー。凹凸。
「凹凸」
千紗も小さく言って、椅子に座った。
ソファじゃない。床でもない。
第三の動きの中間地点。
点の着地。
「じゃあ、点を五つにしよう」
「五つ?」
「内なる五人、今日の点を回収する」
俺は飲み物を五つ並べた。白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。
いつものキャスト。今日の回収班。
「今日の朝の点、誰だった?」
千紗は白湯を指差した。
「白湯。
会議の前、緊張してて、呼吸だけしてた」
「昼の点は?」
「コーヒー。
数字と締切で頭がカチカチだった」
「夕方の点は?」
「炭酸。
ちょっとイライラして、言葉が強くなりそうだった」
「ほうじ茶と紅茶は?」
千紗はほうじ茶を見て、少し笑った。
「ほうじ茶は…帰り道。
焦げないようにって、ずっと言ってた。
紅茶は…人に話すとき。言い方を整えようって」
よし。点が顔を持ち始めた。
点は“私”に戻り始める。
俺は冷蔵庫からりんごを出して、テーブルに置いた。
「シャク、いる?」
「いる」
千紗がかじる。
シャク。
音が、散った点に一本の細い線を引く。
線は根へ繋がる。
「じゃあ次」と俺は言った。「点を“根”に結ぶ質問を三つだけ」
「三つだけ」
「うん。質問は最大三つ」
俺は指を立てる。
「1) 今日、いちばん守りたかったものは何?
2) そのために、何を我慢した?
3) 明日に持ち越したくない点はどれ?」
千紗はしばらく黙って、りんごをもう一口。シャク。
それから、ゆっくり答えた。
「守りたかったのは……自分の丁寧さ。
走っても、跳ねても、雑になりたくなかった」
「うん」
「我慢したのは……言い返したい気持ち。
『まだ?』って言われても、怒鳴らなかった」
「それは強い」
「持ち越したくない点は……夕方の炭酸。
あのイライラを、明日に持っていきたくない」
根が見えた。
“丁寧さ”。
それが千紗のroots。
散った点を繋ぐ根。
俺は紙に書いた。
『roots:丁寧さ(私の署名)
点:白湯/コーヒー/炭酸/ほうじ茶/紅茶
戻り方:凹凸→椅子→シャク→鈴』
千紗はそれを見て、息を吐いた。
芯が戻るときの息。
「ねえ」と千紗が言った。「点って悪いものだと思ってた」
「点は悪くない。
点は“変化”だ。
同じでい続けるより、人は点になって当然」
「じゃあ、rootsがあればいい?」
「うん。
点が散っても、rootsがあれば戻れる。
ヤワじゃない。スプリング。根があるから戻る」
千紗が鈴に指を伸ばし、ちりんと鳴らした。
「さぁ」
「さぁ」
「合言葉、増やしたい」と千紗が言う。「今日のやつ」
「いいね。短いやつ」
千紗は少し考えて、言った。
「……『根っこ』」
「そのまま?」
「うん。
散ったら『根っこ』って言う。
丁寧さに戻る」
「最高。合言葉、根っこ」
「根っこ」
「凹凸」
「凹凸」
俺は冷蔵庫の磁石の下に、新しいメモを貼った。真ん中じゃない、端っこ。
『点→roots
合言葉:根っこ
守るもの:丁寧さ
戻り方:凹凸→椅子→シャク→さぁ』
点は散る。毎日散る。
でも根があれば、散っても大丈夫。
根は見えないけど、触れる。
触れれば、点はまた“私”に戻ってくる。




