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一つにするのは答えじゃなく温度

 帰宅した瞬間、俺は思った。

 今日は、家の空気が“二人”じゃなく“二枚”だ。


 二枚の紙が、風でぴたぴた張り付いているみたいな。

 近いのに、擦れる。

 同じ部屋にいるのに、音が別々。


「ただいま」


「おかえり」


 千紗の返事はいつも通り丁寧で、いつも通りの距離で、いつも通りの速度だった。

 でも“いつも通り”が、今日は少しだけ重い。

 受信機が、ピッと点灯する。


「刺さった?」


 千紗は一瞬笑って、すぐに真顔へ戻った。


「うん。刺さった。

 今日はね、“ひとつになっちゃえ”って言われた」


 チッが舌先まで来た。

 俺は歯の裏で止める。


 チッ=ブザー。凹凸。


「……誰に?」


「同僚。飲み会の帰り。

 『付き合ってるならさ、ひとつになっちゃえば?』って。

 冗談っぽく、でも“正解”みたいに」


 千紗はソファに座るでもなく、背もたれに手を置いたまま止まった。第三の動き。

 立つでも座るでもない、“まだ決めない”姿勢。


「それ、嫌だった?」


「嫌っていうか、怖かった」

 千紗は自分の指先を見た。

 爪の先をくるくる触る癖が出ている。苛立ちを内側で吸収する儀式みたいな動き。


「ひとつになる、って、良い言葉みたいに言うじゃん。

 でも私、ひとつになったら、どっちかが消える気がした」


 うん、と俺は頷いた。

 “ひとつ”は、時々“ゼロ”と背中合わせだ。

 混ぜると消える色がある。


 俺はテーブルに鈴を置いて、ちりんと鳴らした。

 武器。刃物じゃない。背中を押す合図。


「さぁ。今日は“ひとつ”を作り替える」


「作り替える?」


「うん。『ひとつになっちゃえ』って、答えを一つにしろって意味で言われがちだけど、

 俺たちは“答え”をひとつにしなくていい。

 “温度”だけひとつにすればいい」


 千紗が眉を上げる。


「温度」


「うん。今日のあなたと今日の俺の温度。

 それが同じなら、別々のままでも同じ場所にいられる」


 千紗は、少しだけ肩の力を抜いた。

 重かった“いつも通り”が、ほんの少し軽くなる。


「で、どうやって温度をひとつにするの」


「マグカップ」


 俺はキッチンから、マグを一つだけ持ってきた。

 普段は二つ出すのに、今日は一つ。意図的。


「一つのマグ?」


「うん。中身は二種類」


「混ぜるの?」


「混ぜる。でも、全部じゃない。スリットを作る」


 俺はテーブルに、白湯と紅茶のティーバッグを置いた。

 内なる五人の席を、今日は“二人”だけにする。多すぎると、話が散る。


 白湯が「呼吸」と言う。

 紅茶が「言葉」と言う。


「白湯は、温度を整える役。

 紅茶は、香りで戻す役」


 千紗が小さく笑う。


「相変わらず、運用が好きだね」


「好き。運用があると、消えないから」


 俺はケトルで湯を沸かし、マグに白湯を半分注いだ。

 残り半分は紅茶にする。ティーバッグを入れて、少し待つ。

 色が、じわっと広がる。

 混ざるけど、完全には混ざりきらない。境界が薄く残る。スリット。


「見て。ひとつのマグの中に、二つの層」


「……きれい」


「これが今日の“ひとつ”。

 ひとつの場所にいるけど、全部は混ぜない」


 千紗はマグを両手で包んだ。温度に触れる仕草。

 さっきまでの指先のくるくるが止まった。


「じゃあ私は、何を混ぜないのがいいと思う?」


 千紗が聞く。受信機が起動する質問。


 俺は少し考えて、答えた。


「今日の嫌だった気持ち。

 それは混ぜずに、千紗のまま持ってていい。

 俺がそれを奪って“分かった”にしない」


 千紗の目が、少しだけ潤んだ。でも沈まない。

 ここで沈ませないのが、俺の仕事。


「……じゃあ、あなたは何を混ぜない?」


「俺の『チッ』」


「ブザー?」


「そう。ブザーは外に漏らさない。

 でも鳴ったことは隠さない。凹凸で掴む」


 千紗が頷いた。


「じゃあ、温度をひとつにするための手順、書こう」


 千紗が自分からノートを引き寄せた。

 取り戻す姿勢。

 俺はペンを渡す。


 千紗が書いた。


『ひとつになっちゃえ(再定義)

 ・答えをひとつにしない

 ・温度だけ揃える

 ・混ぜないものを決める(境界=スリット)

・凹凸を合言葉にする

・鈴で“さぁ”を鳴らす』


「いい」


「でもさ」


 千紗が顔を上げる。


「温度って、どうやって揃えるの。

 私、今日、ちょっと怒ってる。

 あなたはたぶん、普通」


「普通じゃない。今日、俺も刺さってた」


「何に?」


「『もっと彼女を分かってやれ』って、同僚に言われた」


 千紗が目を丸くする。


「それ、言われがち」


「言われがち。

 でも“分かる”って、ひとつになれって圧と似てる。

 分かったフリは、ひとつに見せるだけで、実際はどっちも消耗する」


 千紗は息を吐いた。

 その呼吸が、少しだけ俺に寄る。

 温度が近づく。


「じゃあ、温度を揃える一手は?」


 千紗が問う。

 俺は鈴を鳴らした。ちりん。


「さぁ」


 合図で、身体を動かす。

 言葉だけだと、温度は揃わない。

 俺は冷蔵庫を開けて、りんごを取り出した。


「食感で割る。

 怒りの熱と、普通の温度の差を、シャクで埋める」


 千紗は笑って、りんごを受け取った。


「万能すぎ」


「万能じゃない。今日に効くやつ」


 千紗がかじる。


 シャク。


 俺もかじる。


 シャク。


 二つのシャクが、同じテンポになったとき、部屋の温度が揃うのが分かった。

 答えは揃ってない。

 でも息の速度が、同じ。


 千紗がぽつりと言う。


「ねえ。ひとつにならなくてもいいって、救われるね」


「うん。

 俺たちは“ふたつのまま一緒”が得意だと思う」


「ふたつのまま一緒」


「ひとつのマグに、二つの層」


 千紗はマグをひと口飲んだ。

 白湯の温度と、紅茶の香りが、同時に来る。


「……これ、いい。

 混ざってるのに、私が消えない」


「そう。

 ひとつになっちゃえ、は、今日の俺たちにはこういう意味」


 千紗が鈴に指を伸ばし、ちりんと鳴らした。


「さぁ」


「さぁ」


 外の世界は、すぐ“正解”を一つにしようとする。

 でも俺たちは、椅子を置いて、スリットを作って、凹凸を握って、

 温度だけ揃えて、同じ部屋にいる。


 それで十分だ。

 ひとつにならなくても、ちゃんと一緒になれる。

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