噛むと噛まれるの境界線
帰宅した俺を迎えたのは、キッチンから聞こえる「カチカチ」だった。
包丁じゃない。キーボードの音。
この家では、刃物よりキーボードの方がよく鳴る。たぶん平和。
「ただいま」
「おかえり。……見て。いま、噛まれてる」
千紗はダイニングテーブルにノートPCを置き、眉間に細い線を作っていた。
その線は“怒り”じゃなく“集中の痛み”。
受信機がピッと光る。
「何に噛まれてる?」
「バイト」
「アルバイト?」
「違う。byteの方」
千紗は画面を指差した。そこには、見慣れない英数字が並んでいる。
文字列の中で、赤いエラー表示がちかちかしていた。
「データが一個だけズレてる。たぶん一バイト。たった一バイトが、全部の表示を噛みちぎってる」
千紗の言い方が妙に生々しくて、俺は笑いそうになった。
でも笑いに寄せすぎると、千紗の眉間の線が固まる。
俺は代わりに、椅子を一脚引いた。第三の動きの準備。
「今日、仕事で噛まれた?」
「うん。『今日中』が来た。で、今、ここ。
仕事の後に、趣味で噛まれてる。私、なにしてんの」
千紗の最後の一言が、手すりになってる。
“なにしてんの”は、責めじゃなく、止める合図。
俺はポケットの小さな鈴をテーブルに置いて、ちりんと鳴らした。
武器。刃物じゃない。背中を押す合図。
「さぁ。噛まれてるなら、噛み返す?」
「噛み返し方が分からない」
「じゃあ、byteをbiteに変換しよう」
「……なにそれ」
「食感で割る」
俺は冷蔵庫を開けて、りんごを取り出した。
今日の道具は、いつも通り。
包丁は使わない。今日は“かじる”だけでいい。
「シャク、いる?」
「いる」
千紗はりんごを受け取り、かじった。
シャク。
音が、画面の赤い点滅を一瞬だけ遠ざける。
千紗の肩が少し下がった。
「で、状況説明。どんな噛まれ方?」
千紗は画面をスクロールしながら言った。
「ログのフォーマットが、昨日まで動いてたのに、今日だけ崩れてる。
ヘッダの長さが想定より1バイト短い。たぶん、全角半角か、改行コードの違い」
「一バイトで世界が終わるやつ」
「そう。世界が終わる前に食べたいもの、りんご」
「出た」
千紗が少し笑った。
炭酸が脳内でぷしゅっと開く。ここでテンションを上げすぎると危険。
俺は椅子をくるりと回した。第三の動き。落ち着くための回転。
「じゃ、取り調べ開始」
「また取調室?」
「いや、今日は“デバッグ室”。
被疑者はバグ。尋問官は俺。千紗は目撃者」
「言い方が大げさ」
「大げさにすると、敵が小さく見える。噛まれた痛みが、噛めるサイズになる」
千紗はりんごをもう一口。シャク。
噛む音が、biteの側に味方する。
「まず、チッは出た?」
「出た。出かけた。『チッ』って言いそうになった」
「ブザー。凹凸」
「凹凸」
合言葉を口にした瞬間、千紗の眉間の線が少しほどけた。
凹凸は、刺さったときの手すり。
「次。一手」
「……一手、って?」
「“一バイト”に対して、一手だけ。
全部直そうとすると百になる。ゼロか百かじゃなく、椅子を置いて三十度」
千紗は頷いて、ノートにメモを取った。
その文字が、少し丸い。焦りが薄まってるサイン。
「一手。まず、差分を見る」
「いい。線を引く」
俺は画面のログを指差した。
「昨日の正常ログと今日の異常ログ。
先頭から同じ位置まで、文字数じゃなくバイト数で比較する。
“byte”の世界だから、bite(感情)を入れすぎない」
「うまいこと言ったつもり?」
「つもり」
「じゃあ、もう一口りんごあげる」
「くれ」
俺もりんごをかじった。シャク。
食感で割ると、頭の中が整理される。ほんとに。
千紗はPCで比較ツールを開き、二つのログを並べた。
赤い部分が一か所だけ光る。
「ここ。見て。昨日は『;』で終わってるのに、今日は『;』になってる」
「全角だ」
「たったそれだけで、後ろが全部ズレてる」
千紗の声が、悔しさから“納得”に変わっていく。
敵の正体が見えると、人は急に強くなる。
「直す?」
「直す。……でも、これ、私の環境だけかも」
「受信機の出番。相手の小さな叫びを拾う。
つまり、“誰がこのログを出してるか”を拾う」
「ログ出力の担当…」
「自分だけで抱えない。助けを拾う」
千紗は頷いて、チャットを開いた。
でも送信ボタンの前で止まる。椅子。第三の動き。
「なんて書けばいいか分かんない」
「短く、でも柔らかく。紅茶の出番」
俺は頭の中の五人に目配せした。
紅茶が小さく手を挙げる。
「こう。
『ログの区切り記号が半角から全角に変わっている可能性があります。こちらで確認できますか?』」
「いい。責めてない。線がある」
千紗はそのまま送った。
送信した瞬間、肩が落ちる。背負ってたものが少し軽くなる。
「ねえ」と千紗が言った。「これってさ、結局一バイトの話なのに、私、さっきまで全部がダメみたいな気分になってた」
「それが“byteの噛み傷”」
「biteじゃなくて?」
「biteもある。でも、byteがbiteになる瞬間が危ない。
小さいズレが心を噛む」
千紗は息を吐いて、椅子にもたれた。
第三の動きが、今は休む側に寄る。
「私、噛まれやすいのかな」
「噛まれやすいんじゃない。噛み応えがあるんだよ。
ちゃんとしたい人ほど、byteに噛まれる」
「褒めてる?」
「褒めてない。観察」
千紗が笑って、炭酸を一口飲んだ。ぷは。
炭酸は今日、暴れない。いい泡。
スマホが震えた。相手から返信。
『確認しました。確かに全角が混ざってました。修正します!助かりました!』
千紗は画面を見て、目を丸くした。
「……助かったって言われた」
「HIGH & HIGHの小さい版だ」
「私、今日はHIGHじゃない。
でも…ちょっとだけ、上がった」
「それでいい。上がりすぎないのが上手い」
千紗はりんごの最後の欠片をかじる。シャク。
噛む音が、今日の終わりを切ってくれる。
「ねえ、タイトルつけるなら何?」
「え」
「今日の出来事。
一バイトに噛まれて、りんごに噛み返して、直した夜」
俺は少し考えて、鈴を鳴らした。ちりん。
合図。背中を押す。
「『小さいバグは噛める』」
「いいね。私の勝ち」
「勝ちって言うな」
「勝ち。byteに勝った。
biteで」
千紗が炭酸の缶を軽く叩いて言う。
「さぁ、今日はもう画面閉じる。
目も噛まれるから」
「了解。椅子は残す?」
「残す。第三の動き、ここに置いとく」
デスクライトを消すと、部屋がやっと普通の夜になる。
噛まれた跡は残るけど、血は出てない。
そのくらいの傷なら、りんごのシャクで治る。
千紗が小さく言った。
「ねえ、受信機、ありがとう」
俺は答えの代わりに、鈴を鳴らした。
ちりん。
噛む音と、鳴る音。
それがこの家の、いちばん平和な武器だった。




