表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/26

優しさの棘

 その優しさは、舐めると甘い。飲み込むと喉に刺さる。


 冷蔵庫の奥に、賞味期限の切れたヨーグルトがひとつ残っている。捨てればいいのに捨てられないのは、食べ物を粗末にしたくないからじゃなくて、「捨てる」という行為が、何かを終わらせることに似ているからだと気づいたのは、ずいぶん後だった。


 私は今、終わらせられないものを、机の上に並べている。


 薬局でもらった白い紙袋。入院の案内。会社に提出する休職の書類。スマホの画面に固定された未送信メッセージ。

 それらを、生活の小物みたいな顔で置いておく。見ないふりをするために、ちゃんと見える位置へ。


 窓の外では、雨が薄く降っている。春の入り口の雨は、ひとつひとつが軽くて、なのにやけにしつこい。カーテンの隙間から入る光も、明るいようで暗い。白い部屋が、少しだけ灰色に寄る。


 玄関のチャイムが鳴った。


 反射で立ち上がりかけて、私はいったん座り直した。心臓が一拍遅れて、「来るな」と言う。けれど身体はもう、来るのが分かっていたみたいに動きたがっている。


 もう一度、チャイム。

 優しい回数。責めないテンポ。


 私は深呼吸して、玄関へ向かった。廊下の床板が微かに鳴る。こんな音も、誰かが聞いていると思うと、急に恥ずかしくなる。


 覗き穴から見ると、彼がいた。傘を畳んで、濡れた髪を指で梳いている。いつもの癖。ドアの前で整えるのは、私に気を遣っているからだ。


 鍵を開ける手が、少し震えた。


「……おはよう」


 ドアを開けた瞬間、外の湿った空気が流れ込んだ。彼は私を見ると、安心したように眉を下げた。その顔だけで、私はもう「来ないで」と言えなくなる。


「顔、色ないな」


「そう?」


「うん。……これ」


 彼が差し出したのは、コンビニの袋だった。中身は分かる。プリンとか、ゼリーとか、喉に通る甘いもの。気づけば私はそれを受け取っていた。手の中に重さが増えると、断るための言葉はどんどん薄くなる。


「上がる?」


 言ったのは私だ。言ってしまったのは私だ。

 彼は一瞬だけ迷うように目を伏せて、それから小さく頷いた。


「少しだけ。濡れてるし」


 少しだけ。

 その言葉が、私を救う顔をして私を追い詰める。少しだけならいい。少しだけだから、とりあえず。そうやって物事は、いつも“少しずつ”長引く。


 彼が靴を揃える。私の家のスリッパを履く。そこまでが自然すぎて、胸がきゅっとなる。家に入るって、生活に入るってことだ。生活は、心の場所まで侵入してくる。


 リビングのテーブルの上、終わらせられないものが並んでいるのを見られないように、私は身体で隠すように立った。


「散らかっててごめん」


「いや、いいよ」


 いいよ。

 その一言は、いつだって免罪符みたいに優しい。優しいほど、私は自分を許せなくなる。あなたが“いいよ”と言うから、私は“いいこと”になってしまう。いいことになってしまったら、私はまた頑張れるふりをしてしまう。


 彼はソファに座らず、テーブルの手前で立ったまま袋を開けた。ゼリー、プリン、栄養ドリンク、スポーツ飲料。気配りの見本市みたいなラインナップ。


「食べられる?」


「たぶん」


「たぶん、じゃなくて。今、いける?」


 その問いかけが、私にとっては危険だった。

 “今”を聞かれると、嘘がつけない。過去や未来なら誤魔化せるのに。


「……ゼリーなら」


「よし」


 彼は冷蔵庫を開ける前に、私の顔を見た。勝手に開けていいか、聞いている。そういうところが優しい。優しいから、刺さる。


 彼が冷蔵庫の中を覗いた瞬間、あの賞味期限切れのヨーグルトを見つけてしまったらどうしよう、と私は思った。見つけてしまったら、捨てる捨てないの話になる。捨てる捨てないの話は、終わらせる終わらせないの話になる。


 幸い、彼は見つけなかった。あるいは見つけても、見ないふりをしたのかもしれない。


 ゼリーを皿に移して、スプーンを添えて、私の前に置く。その一連の動きが、あまりにも馴染みすぎている。私はスプーンを持ったまま、固まった。


「……ほんとにさ」


 彼が、椅子に腰を下ろした。私の向かいじゃなくて、斜め。真正面に座らないのは、圧をかけないためだ。優しさの角度まで計算されている。


「無理してたんだな」


「無理なんてしてない」


 反射で言い返してしまう。

 嘘だと分かっているのに、口が勝手に「大丈夫」を吐く。これが私の最悪な特技だ。


 彼は怒らなかった。笑いもしなかった。ただ、少しだけ目を細めて、雨の日の窓みたいな顔をした。


「……そう言うと思った」


 その言い方が、私をまた刺す。

 分かっている。分かっているから来た。分かっているから優しい。

 分かっているから、私の逃げ道がなくなる。


「ねえ」


 彼は声の温度を落とした。責めるためじゃなく、静かにするために。


「病院、行った?」


 私はゼリーの蓋を剥がす手を止めた。

 行った、と言えば、話が進む。

 行ってない、と言えば、怒られるか心配される。

 どちらも、私には重い。


「……行った」


「診断は?」


 診断名を言うと、現実になる。

 現実になると、私の“いつもの私”が壊れる。


 私はスプーンの先でゼリーを少しだけ崩した。透明の塊が、ぷるんと揺れて、割れた。

 割れるのは簡単だ。戻すのは難しい。


「休めって」


「うん」


「休職の紙、出た」


「うん」


「……出したくない」


 最後だけ、声が小さくなった。

 言葉にした途端、涙が出そうになる。私は慌ててゼリーを口に入れた。甘い。冷たい。喉に通る。甘いのに、胸が痛い。


 彼は頷いた。

 頷き方が、あまりにも“分かる”という顔だったから、私は怖くなった。


「出したくないの、分かる。でも」


 でも。

 その接続詞は、優しさに棘を付ける。

 私は身構えた。自分の中の小さな動物が、耳を伏せる。


「出さないと、もっと壊れる」


 壊れる。

 その単語が、部屋の空気を少し重くした。

 私は笑って誤魔化そうとした。けれど笑いは喉で引っかかった。


「壊れてないよ」


「壊れてない人は、そう言わない」


 彼の声は、静かだった。

 静かだから、逃げられない。


 私はスプーンを置き、両手で膝を握った。指先が冷えている。冷えているのに、汗が滲む。身体は矛盾ばかりだ。


「ねえ、私さ」


 言いかけて、止まる。

 何を言いたい?

 彼に、何を言わせたい?

 「大丈夫だよ」? 「分かった」? 「全部やるよ」?

 どれも欲しい。どれも怖い。


 彼は私の沈黙を待った。急かさない。

 急かさないのに、待つ時間が増えるほど、私の胸は締まっていく。


「私、いなくてもいい人になりたかった」


 言ってしまった。

 言ってしまったから、戻れない。


 彼が一瞬だけ息を止めたのが分かった。

 それから、ゆっくり息を吐いて、視線を床に落とした。雨が窓を叩く音が、その間を埋める。


「……どういう意味」


 怒っていない。

 けれど困っている。

 私はそれに耐えられない。困らせたくない。困らせないために、私は今まで“平気”を演じてきたのに。


「私がいなくても、回るように。誰にも迷惑かけないように。……そういう人、えらいでしょ」


「えらい、けど」


 彼は顔を上げた。目が濡れているように見えた。雨のせいかもしれない。私のせいかもしれない。


「それ、寂しいだろ」


 寂しい。

 私はその言葉を、飲み込めなかった。喉にひっかかって、痛い。


「寂しいって言ったら、弱いみたいじゃん」


「弱くていいだろ」


「……弱いの、嫌い」


 私は言い切って、ふっと笑ってしまった。

 自分で自分を追い詰める言葉を、まるで冗談みたいに言ってしまう。そうでもしないと、割れそうだった。


 彼は立ち上がって、テーブルの端に置いてある書類の束を見た。私が身体で隠そうとしていた“終わらせられないもの”。

 見られてしまった。

 私は反射で手を伸ばした。でも遅かった。


「これ、休職の……」


「見ないで」


 声が尖った。

 尖らせたくなかった。

 でも止まらなかった。


 彼は紙に触れなかった。ただ、見るだけ。目で読むだけ。

 それだけなのに、私は裸にされたみたいな気持ちになる。


「……出したくないの、俺が嫌だから?」


 その問いは、刃じゃない。針だ。小さくて、刺さる。


「違う」


「じゃあ、何が怖い?」


 怖いのは、たくさんある。

 職場に迷惑をかけること。評価が落ちること。戻れなくなること。自分が役に立たない人になること。

 でも一番怖いのは、たぶん。


「……あなたに、見捨てられること」


 言った瞬間、自分でも驚いた。

 そんなの、言うつもりじゃなかった。

 彼の前では強くいたかった。平気な私でいたかった。

 なのに、口が勝手に本音を出してしまった。


 彼は、少しだけ笑った。

 笑い方が、苦い。


「見捨てないよ」


 即答。

 即答が、優しい。

 優しいから、胸が痛い。


「でもさ」


 彼は続けた。

 “でも”が来る。私は身構える。


「見捨てないって言うと、あなたは余計に頑張るだろ」


 図星。

 私は何も言えない。


「見捨てない。けど、頑張らせない。……それ、両立させたい」


 彼は、私の前にしゃがんだ。視線の高さを合わせる。大人が子どもにするみたいな仕草。私はそれが嫌だった。嫌なのに、泣きそうになる。


「ねえ。今、俺にできること、選んで」


 選ぶ。

 選べる。

 その言い方が、さっきより少しだけ刺さらない。主導権が私に戻ってくる。


「一つめ。今日は帰る。プリンだけ置いてく。

 二つめ。書類を書くの、手伝う。

 三つめ。何もしない。ただ、雨が止むまでここにいる」


 三つ。

 多すぎない。

 逃げ道がある。

 それでも、私は迷った。


 私は、いなくてもいい人になりたかった。

 でも本当は、いてほしかった。


「……三つめ」


 声が震えた。

 彼は頷いた。


「了解」


 彼はソファに座った。今度は、私の隣じゃなく、少し離れた端。

 距離をとる。

 それもまた、優しさ。

 優しさの棘を抜くための、工夫。


 私はゼリーをもうひと口食べた。喉が少し楽になる。

 雨音が一定のリズムで続く。

 沈黙が、少しだけ“居られる沈黙”になる。


「ねえ」


 しばらくして、彼が言った。


「いなくてもいい人、にならなくていいよ」


 私は笑いそうになった。

 そんな簡単に言わないで、と言いたかった。

 でも、その簡単さが救いでもある。


「……いなくてもいいって、楽じゃん」


「楽そうに見えるだけだよ。いなくてもいいって、“いてもいい”が消えるから」


 いてもいい。

 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 柔らかいのに、重い。


 私はふと、冷蔵庫の中のヨーグルトのことを思い出した。

 捨てられないのは、終わらせるのが怖いから。

 でも、終わらせないままだと、腐っていくだけだ。


 私は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。

 彼が何も言わないのを背中で感じながら、あのヨーグルトを取り出す。

 期限は一週間前。フタの端が少し膨らんでいる。


 私は、それをゴミ袋に入れた。


 捨てた瞬間、胸がチクリとした。

 でも、痛みは一瞬で、代わりに空気が入ってくる。


 私は振り返って、彼を見た。

 彼は何も言わなかった。ただ、少しだけ頷いた。

 それが、“いいよ”よりもずっと良かった。


 スマホがテーブルの上で光った。

 未送信メッセージのアイコンが、私を見ている。

 私はそれを手に取り、画面を開いた。


『ごめん。しばらく会えない。

 今の私は、ちゃんと休むのが仕事みたい。

 落ち着いたら、こっちから連絡する。』


 打って、止まった。

 送信ボタンが、青く光る。


 彼は覗き込まない。聞いてもこない。

 ただ、雨音の中で呼吸している。


 私は、親指を送信に置いたまま、少しだけ笑った。


「……ねえ、これ送ったらさ」


「うん」


「嫌われるかな」


 彼は、間髪入れずに言った。


「嫌われない。けど、相手が拗ねる可能性はある」


「現実的だね」


「現実って、優しいより役に立つときある」


 私は吹き出した。

 ほんの短い笑い。だけどちゃんと笑えた。

 笑えたから、私の中の“もうひとり”が少しだけ顔を上げる。


 送信。


 画面が切り替わって、送信済みの表示が出る。

 私の胸が、ぎゅっと縮む。

 でも、縮み方が違う。

 今までの“我慢”の縮み方じゃなくて、“覚悟”の縮み方だ。


 雨が少し弱くなっていた。

 彼が窓の外を見て、ぽつりと言った。


「今日、雨止んだら、散歩だけする?」


「……散歩」


「うん。歩ける範囲で。コンビニまでとか」


 その提案が、絶妙だった。

 遠くへ行かない。何かを頑張らない。

 でも、世界に戻る練習になる。


「……うん。コンビニなら」


「よし。じゃあ、プリン追加で買おう」


「プリン好きだと思ってるでしょ」


「好きじゃないの?」


「……好き」


 私は、頬が少し熱くなるのを感じた。

 優しさが刺さらない瞬間がある。

 それはたぶん、私が“受け取る”側に立てたときだ。


 窓の外の雨が、ふっと途切れる。

 雲の隙間から、薄い光が差して、床に小さな四角を作った。


 私はその光を見ながら思った。

 いなくてもいい人になりたかったのは、誰かに捨てられる前に自分から消えたかったからだ。

 でも今日、私は消えなかった。

 消えずに、ただ休むことを選んだ。


 それは、優しさの棘を抜く作業みたいで、少し痛い。

 でも、痛みの先にちゃんと“私”が残るなら、それでいい。


 彼が立ち上がって傘を指差す。


「止んでる。行けそう」


 私は頷いて、上着を取った。

 玄関で靴を履きながら、ふと思う。


 私は、いてもいい。

 いなくてもいい人じゃなくて、いてもいい人として。


 ドアを開けると、雨上がりの匂いがした。

 濡れたアスファルトの匂いは、少しだけ苦くて、少しだけ新しい。


 舐めると甘い優しさじゃなくて、飲み込める優しさを、今日は選べる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ