優しさの棘
その優しさは、舐めると甘い。飲み込むと喉に刺さる。
冷蔵庫の奥に、賞味期限の切れたヨーグルトがひとつ残っている。捨てればいいのに捨てられないのは、食べ物を粗末にしたくないからじゃなくて、「捨てる」という行為が、何かを終わらせることに似ているからだと気づいたのは、ずいぶん後だった。
私は今、終わらせられないものを、机の上に並べている。
薬局でもらった白い紙袋。入院の案内。会社に提出する休職の書類。スマホの画面に固定された未送信メッセージ。
それらを、生活の小物みたいな顔で置いておく。見ないふりをするために、ちゃんと見える位置へ。
窓の外では、雨が薄く降っている。春の入り口の雨は、ひとつひとつが軽くて、なのにやけにしつこい。カーテンの隙間から入る光も、明るいようで暗い。白い部屋が、少しだけ灰色に寄る。
玄関のチャイムが鳴った。
反射で立ち上がりかけて、私はいったん座り直した。心臓が一拍遅れて、「来るな」と言う。けれど身体はもう、来るのが分かっていたみたいに動きたがっている。
もう一度、チャイム。
優しい回数。責めないテンポ。
私は深呼吸して、玄関へ向かった。廊下の床板が微かに鳴る。こんな音も、誰かが聞いていると思うと、急に恥ずかしくなる。
覗き穴から見ると、彼がいた。傘を畳んで、濡れた髪を指で梳いている。いつもの癖。ドアの前で整えるのは、私に気を遣っているからだ。
鍵を開ける手が、少し震えた。
「……おはよう」
ドアを開けた瞬間、外の湿った空気が流れ込んだ。彼は私を見ると、安心したように眉を下げた。その顔だけで、私はもう「来ないで」と言えなくなる。
「顔、色ないな」
「そう?」
「うん。……これ」
彼が差し出したのは、コンビニの袋だった。中身は分かる。プリンとか、ゼリーとか、喉に通る甘いもの。気づけば私はそれを受け取っていた。手の中に重さが増えると、断るための言葉はどんどん薄くなる。
「上がる?」
言ったのは私だ。言ってしまったのは私だ。
彼は一瞬だけ迷うように目を伏せて、それから小さく頷いた。
「少しだけ。濡れてるし」
少しだけ。
その言葉が、私を救う顔をして私を追い詰める。少しだけならいい。少しだけだから、とりあえず。そうやって物事は、いつも“少しずつ”長引く。
彼が靴を揃える。私の家のスリッパを履く。そこまでが自然すぎて、胸がきゅっとなる。家に入るって、生活に入るってことだ。生活は、心の場所まで侵入してくる。
リビングのテーブルの上、終わらせられないものが並んでいるのを見られないように、私は身体で隠すように立った。
「散らかっててごめん」
「いや、いいよ」
いいよ。
その一言は、いつだって免罪符みたいに優しい。優しいほど、私は自分を許せなくなる。あなたが“いいよ”と言うから、私は“いいこと”になってしまう。いいことになってしまったら、私はまた頑張れるふりをしてしまう。
彼はソファに座らず、テーブルの手前で立ったまま袋を開けた。ゼリー、プリン、栄養ドリンク、スポーツ飲料。気配りの見本市みたいなラインナップ。
「食べられる?」
「たぶん」
「たぶん、じゃなくて。今、いける?」
その問いかけが、私にとっては危険だった。
“今”を聞かれると、嘘がつけない。過去や未来なら誤魔化せるのに。
「……ゼリーなら」
「よし」
彼は冷蔵庫を開ける前に、私の顔を見た。勝手に開けていいか、聞いている。そういうところが優しい。優しいから、刺さる。
彼が冷蔵庫の中を覗いた瞬間、あの賞味期限切れのヨーグルトを見つけてしまったらどうしよう、と私は思った。見つけてしまったら、捨てる捨てないの話になる。捨てる捨てないの話は、終わらせる終わらせないの話になる。
幸い、彼は見つけなかった。あるいは見つけても、見ないふりをしたのかもしれない。
ゼリーを皿に移して、スプーンを添えて、私の前に置く。その一連の動きが、あまりにも馴染みすぎている。私はスプーンを持ったまま、固まった。
「……ほんとにさ」
彼が、椅子に腰を下ろした。私の向かいじゃなくて、斜め。真正面に座らないのは、圧をかけないためだ。優しさの角度まで計算されている。
「無理してたんだな」
「無理なんてしてない」
反射で言い返してしまう。
嘘だと分かっているのに、口が勝手に「大丈夫」を吐く。これが私の最悪な特技だ。
彼は怒らなかった。笑いもしなかった。ただ、少しだけ目を細めて、雨の日の窓みたいな顔をした。
「……そう言うと思った」
その言い方が、私をまた刺す。
分かっている。分かっているから来た。分かっているから優しい。
分かっているから、私の逃げ道がなくなる。
「ねえ」
彼は声の温度を落とした。責めるためじゃなく、静かにするために。
「病院、行った?」
私はゼリーの蓋を剥がす手を止めた。
行った、と言えば、話が進む。
行ってない、と言えば、怒られるか心配される。
どちらも、私には重い。
「……行った」
「診断は?」
診断名を言うと、現実になる。
現実になると、私の“いつもの私”が壊れる。
私はスプーンの先でゼリーを少しだけ崩した。透明の塊が、ぷるんと揺れて、割れた。
割れるのは簡単だ。戻すのは難しい。
「休めって」
「うん」
「休職の紙、出た」
「うん」
「……出したくない」
最後だけ、声が小さくなった。
言葉にした途端、涙が出そうになる。私は慌ててゼリーを口に入れた。甘い。冷たい。喉に通る。甘いのに、胸が痛い。
彼は頷いた。
頷き方が、あまりにも“分かる”という顔だったから、私は怖くなった。
「出したくないの、分かる。でも」
でも。
その接続詞は、優しさに棘を付ける。
私は身構えた。自分の中の小さな動物が、耳を伏せる。
「出さないと、もっと壊れる」
壊れる。
その単語が、部屋の空気を少し重くした。
私は笑って誤魔化そうとした。けれど笑いは喉で引っかかった。
「壊れてないよ」
「壊れてない人は、そう言わない」
彼の声は、静かだった。
静かだから、逃げられない。
私はスプーンを置き、両手で膝を握った。指先が冷えている。冷えているのに、汗が滲む。身体は矛盾ばかりだ。
「ねえ、私さ」
言いかけて、止まる。
何を言いたい?
彼に、何を言わせたい?
「大丈夫だよ」? 「分かった」? 「全部やるよ」?
どれも欲しい。どれも怖い。
彼は私の沈黙を待った。急かさない。
急かさないのに、待つ時間が増えるほど、私の胸は締まっていく。
「私、いなくてもいい人になりたかった」
言ってしまった。
言ってしまったから、戻れない。
彼が一瞬だけ息を止めたのが分かった。
それから、ゆっくり息を吐いて、視線を床に落とした。雨が窓を叩く音が、その間を埋める。
「……どういう意味」
怒っていない。
けれど困っている。
私はそれに耐えられない。困らせたくない。困らせないために、私は今まで“平気”を演じてきたのに。
「私がいなくても、回るように。誰にも迷惑かけないように。……そういう人、えらいでしょ」
「えらい、けど」
彼は顔を上げた。目が濡れているように見えた。雨のせいかもしれない。私のせいかもしれない。
「それ、寂しいだろ」
寂しい。
私はその言葉を、飲み込めなかった。喉にひっかかって、痛い。
「寂しいって言ったら、弱いみたいじゃん」
「弱くていいだろ」
「……弱いの、嫌い」
私は言い切って、ふっと笑ってしまった。
自分で自分を追い詰める言葉を、まるで冗談みたいに言ってしまう。そうでもしないと、割れそうだった。
彼は立ち上がって、テーブルの端に置いてある書類の束を見た。私が身体で隠そうとしていた“終わらせられないもの”。
見られてしまった。
私は反射で手を伸ばした。でも遅かった。
「これ、休職の……」
「見ないで」
声が尖った。
尖らせたくなかった。
でも止まらなかった。
彼は紙に触れなかった。ただ、見るだけ。目で読むだけ。
それだけなのに、私は裸にされたみたいな気持ちになる。
「……出したくないの、俺が嫌だから?」
その問いは、刃じゃない。針だ。小さくて、刺さる。
「違う」
「じゃあ、何が怖い?」
怖いのは、たくさんある。
職場に迷惑をかけること。評価が落ちること。戻れなくなること。自分が役に立たない人になること。
でも一番怖いのは、たぶん。
「……あなたに、見捨てられること」
言った瞬間、自分でも驚いた。
そんなの、言うつもりじゃなかった。
彼の前では強くいたかった。平気な私でいたかった。
なのに、口が勝手に本音を出してしまった。
彼は、少しだけ笑った。
笑い方が、苦い。
「見捨てないよ」
即答。
即答が、優しい。
優しいから、胸が痛い。
「でもさ」
彼は続けた。
“でも”が来る。私は身構える。
「見捨てないって言うと、あなたは余計に頑張るだろ」
図星。
私は何も言えない。
「見捨てない。けど、頑張らせない。……それ、両立させたい」
彼は、私の前にしゃがんだ。視線の高さを合わせる。大人が子どもにするみたいな仕草。私はそれが嫌だった。嫌なのに、泣きそうになる。
「ねえ。今、俺にできること、選んで」
選ぶ。
選べる。
その言い方が、さっきより少しだけ刺さらない。主導権が私に戻ってくる。
「一つめ。今日は帰る。プリンだけ置いてく。
二つめ。書類を書くの、手伝う。
三つめ。何もしない。ただ、雨が止むまでここにいる」
三つ。
多すぎない。
逃げ道がある。
それでも、私は迷った。
私は、いなくてもいい人になりたかった。
でも本当は、いてほしかった。
「……三つめ」
声が震えた。
彼は頷いた。
「了解」
彼はソファに座った。今度は、私の隣じゃなく、少し離れた端。
距離をとる。
それもまた、優しさ。
優しさの棘を抜くための、工夫。
私はゼリーをもうひと口食べた。喉が少し楽になる。
雨音が一定のリズムで続く。
沈黙が、少しだけ“居られる沈黙”になる。
「ねえ」
しばらくして、彼が言った。
「いなくてもいい人、にならなくていいよ」
私は笑いそうになった。
そんな簡単に言わないで、と言いたかった。
でも、その簡単さが救いでもある。
「……いなくてもいいって、楽じゃん」
「楽そうに見えるだけだよ。いなくてもいいって、“いてもいい”が消えるから」
いてもいい。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
柔らかいのに、重い。
私はふと、冷蔵庫の中のヨーグルトのことを思い出した。
捨てられないのは、終わらせるのが怖いから。
でも、終わらせないままだと、腐っていくだけだ。
私は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
彼が何も言わないのを背中で感じながら、あのヨーグルトを取り出す。
期限は一週間前。フタの端が少し膨らんでいる。
私は、それをゴミ袋に入れた。
捨てた瞬間、胸がチクリとした。
でも、痛みは一瞬で、代わりに空気が入ってくる。
私は振り返って、彼を見た。
彼は何も言わなかった。ただ、少しだけ頷いた。
それが、“いいよ”よりもずっと良かった。
スマホがテーブルの上で光った。
未送信メッセージのアイコンが、私を見ている。
私はそれを手に取り、画面を開いた。
『ごめん。しばらく会えない。
今の私は、ちゃんと休むのが仕事みたい。
落ち着いたら、こっちから連絡する。』
打って、止まった。
送信ボタンが、青く光る。
彼は覗き込まない。聞いてもこない。
ただ、雨音の中で呼吸している。
私は、親指を送信に置いたまま、少しだけ笑った。
「……ねえ、これ送ったらさ」
「うん」
「嫌われるかな」
彼は、間髪入れずに言った。
「嫌われない。けど、相手が拗ねる可能性はある」
「現実的だね」
「現実って、優しいより役に立つときある」
私は吹き出した。
ほんの短い笑い。だけどちゃんと笑えた。
笑えたから、私の中の“もうひとり”が少しだけ顔を上げる。
送信。
画面が切り替わって、送信済みの表示が出る。
私の胸が、ぎゅっと縮む。
でも、縮み方が違う。
今までの“我慢”の縮み方じゃなくて、“覚悟”の縮み方だ。
雨が少し弱くなっていた。
彼が窓の外を見て、ぽつりと言った。
「今日、雨止んだら、散歩だけする?」
「……散歩」
「うん。歩ける範囲で。コンビニまでとか」
その提案が、絶妙だった。
遠くへ行かない。何かを頑張らない。
でも、世界に戻る練習になる。
「……うん。コンビニなら」
「よし。じゃあ、プリン追加で買おう」
「プリン好きだと思ってるでしょ」
「好きじゃないの?」
「……好き」
私は、頬が少し熱くなるのを感じた。
優しさが刺さらない瞬間がある。
それはたぶん、私が“受け取る”側に立てたときだ。
窓の外の雨が、ふっと途切れる。
雲の隙間から、薄い光が差して、床に小さな四角を作った。
私はその光を見ながら思った。
いなくてもいい人になりたかったのは、誰かに捨てられる前に自分から消えたかったからだ。
でも今日、私は消えなかった。
消えずに、ただ休むことを選んだ。
それは、優しさの棘を抜く作業みたいで、少し痛い。
でも、痛みの先にちゃんと“私”が残るなら、それでいい。
彼が立ち上がって傘を指差す。
「止んでる。行けそう」
私は頷いて、上着を取った。
玄関で靴を履きながら、ふと思う。
私は、いてもいい。
いなくてもいい人じゃなくて、いてもいい人として。
ドアを開けると、雨上がりの匂いがした。
濡れたアスファルトの匂いは、少しだけ苦くて、少しだけ新しい。
舐めると甘い優しさじゃなくて、飲み込める優しさを、今日は選べる気がした。




