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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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がんばってるの練習

 玄関のドアが閉まる音って、家の中でいちばん短い「おかえり」だと思う。

 でもその日、千紗の「おかえり」は音じゃなく、靴の脱ぎ方で来た。


 いつもなら、つま先をそろえて、きれいに置く。

 今日は、片方が少しだけ外側を向いていた。

 ほんの数度。だけど、受信機には十分な叫び。


 僕はキッチンの蛇口を止めて、濡れた手を拭いた。

 アンが廊下を小走りで行って、千紗の足元にすり寄る。

 千紗はしゃがんでアンの頭を撫でて、撫でたまま動かない。


「……ただいま」

「おかえり」

 僕は言いながら、言葉の温度を調整した。熱くしない。冷たくしない。

 今は“整音”が要る日だ。


 千紗が立ち上がって、僕の顔を見る。

 目が合う。

 FACE TO FACE。

 だけど、向かい合うって、殴り合いの合図じゃない。

 今日のは、ただ“そこにいる”確認に近い。


「ねえ」千紗が言う。

 声が軽い。軽いのに、指先だけが少し重い。

「今日さ、たまり場式、やっていい?」

「うん」

 僕は即答した。

 それだけで、千紗の肩が一ミリ落ちる。落ちるのは、安心の方向。


 千紗は冷蔵庫を開けて、掲示板の“うちのニュース”を見た。

 そして、そこに新しい紙を貼った。真っ白じゃなく、薄いクリーム色。


『本日の議題:がんばってます(※説明しすぎない)』


「説明しすぎない、が注意書きなの?」

「うん」千紗は笑った。「あなた、心配すると説明で埋めるから」

「……埋めるかも」

「埋めるのも優しさ。でも、今日はスリット作る」

 千紗は椅子を二脚、テーブルの向かい合わせに置いた。

 真正面。逃げ道ゼロみたいに見える配置。

 でも彼女は、椅子をほんの少しだけ斜めにした。

 ゼロか百かにしない角度。

 線じゃなく、通り道。


「座って」

「はい」

 僕は椅子に座る。千紗も座る。

 アンは当然のように、僕らの間の床にどっかり寝そべった。

 第三の動き。緩衝材。議長兼クッション。


 千紗が小さな鈴をテーブルに置く。

 ちりん、と一回鳴らす。

 刃物じゃなく背中を押す合図。

「さぁ」

 今日の“さぁ”は、軽くない。

 だけど、重く沈ませない重さ。


「じゃ、型」千紗が言う。

「チッ→凹凸→一手?」

「うん。あなた、チッして」

 僕は舌で「チッ」と鳴らした。ブザー。

 心の運転モードが切り替わる。


「凹凸」

「一手」

 千紗が返す。手すりがある。倒れても戻れる。


「今日の“がんばってます”はさ」千紗が言う。「“がんばれてる”じゃない」

「うん」

「“がんばってる最中”」

「うん」

「そして、それを顔を合わせて言う練習」

 彼女は、顔をしかめて笑った。照れ隠し。

「……恥ずいね」

「うん、恥ずい」

「でもやる」

「やる」


 千紗はコップを五つ並べた。内なる五人。

 今日は中身が全部違う。ちゃんと用意してある。

 白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。

 それぞれ、少しずつ。


「今日はね」千紗が言う。「“がんばってます”を、誰が言ってるか当てるゲーム」

「ゲームにするの、上手い」

「暗くしないための技」

 千紗はウィンクみたいに片目を閉じた。

「ルール:一回に言えるのは一文だけ。長文禁止」

「了解」

「あと、言ったらりんご」

「シャクで区切る」

「そう」


 千紗はりんごを切って、皿に置いた。

 その音が、今日はやけに気持ちいい。

 包丁の刃は怖くない。家庭の音。


「じゃ、私から」

 千紗は白湯を持って、一口飲んだ。

 素直の担当。


「……がんばってます」

 たったそれだけ。

 短いのに、顔の筋肉が少し震えた。


「どのがんばり?」

「質問は一つだけ」千紗が言う。「あなたの一手は?」

「一手……」

 僕は考えて、言った。

「手すり、出していい?」

「凹凸」

 千紗が即答する。

「じゃ、聞く」

 僕は一つだけ質問を選ぶ。

「今日は、体?心?それとも、世界?」

 千紗は一瞬だけ目を泳がせて、それから僕を見た。

 FACE TO FACE。逃げない。


「世界」

「……了解」

 それ以上言わない。長文禁止。

 僕はりんごを口に入れる。

 シャク。

 音が、会話を落ち着かせる。


「あなたも」千紗が言う。「言って」

「僕?」

「うん。がんばってます」

「……」

 僕は頷いて、コーヒーを持った。鋭い担当。

 いつもなら、僕はコーヒーの声で“正解”を言いに行く。

 でも今日の目的は、正解じゃない。今だ。


「がんばってます」

 言った途端、喉の奥が少し熱くなった。

 僕はその熱を沈めないまま、でも燃やしすぎないまま、置く。


「どのがんばり?」千紗が聞いた。

「質問は一つだけ」僕は返した。「千紗の一手は?」

「……触れないで守る」

 千紗は手袋をテーブルの上に置いた。

 今日は、その合図が必要な日。

「じゃ、僕のがんばりは」

 僕は一文で言う。

「“心配の説明”を、今日はしないで座ってる」

 千紗が笑った。

 笑ったけど、目の奥が少し濡れている。

 その濡れは、痛みじゃなく、圧が抜けた水。


「上手」

「上手じゃない」

「上手だよ」

「がんばってます」

「うん」

 千紗は頷いて、りんごを噛んだ。

 シャク。

 音が、拍手の代わりになる。


「次、炭酸さん」千紗が言って、炭酸のコップを押した。

 勢い担当。

「がんばってます!!!」

 千紗はわざと大声の真似をした。

 アンが「にゃっ」と鳴いた。音量注意。

 僕らは笑う。笑いが、沈むのを止める。


「炭酸さんのがんばりは?」僕が聞く。

「“明るくしてる”」千紗が一文で言った。

「……それ、すごい」

「一文だけ」

「すごい」

 僕も一文で返した。

 千紗が頬を掻く。照れ。

 照れが出るくらい、本物。


 ほうじ茶のターンが来た。

 千紗がほうじ茶を飲んで、落ち着いた声で言う。


「がんばってます」

 今度は、さっきより少しだけ柔らかい。


「ほうじ茶さんのがんばりは?」

「“帰ってきた”」

 千紗はそれだけ言った。

 帰ってきた。

 家に帰ってきた、だけじゃない。

 ここに戻ってきた、も含む言い方。


 僕はりんごを噛んだ。

 シャク。

 音が、胸の中の言葉を整理する。


「ねえ」僕は言う。「今日、世界がんばりの日って言ったよね」

「うん」

「世界ってさ、具体にすると広すぎる」

「だから、一文」

「うん。一文で言う」

 僕は息を吸って、正面を見た。

 FACE TO FACE。逃げない練習。


「今日、外で“平気なふり”をしすぎて、帰ってきてから膝が笑ってる」

 僕は一文にした。

 でも、その一文の中に、ちゃんと体が入ってる。

 千紗は頷いて、鈴を鳴らした。ちりん。

 錨じゃない。承認の音。


「私も一文」千紗が言う。

 彼女は紅茶を持って、優しい論理の声で言う。

「今日、“がんばってる”って言いに来たのは、あなたを責めないため」

「……」

 僕は言葉を探して、見つけたのは合言葉だった。


「凹凸」

「うん」

「一手」

「うん」

「戻る?」

 僕が聞くと、千紗は小さく笑った。

「戻る」

 たまり場回の錨が落ちた。


 僕らは少しだけ椅子を近づけた。

 真正面のままじゃない。斜めのまま。

 線の上で、通れる角度。


「ねえ」千紗が言う。「FACE TO FACEってさ、向かい合うだけじゃなくて」

「うん」

「“同じものを見るために、いったん顔を見る”って意味だと思う」

「……いい解釈」

「でしょ」

 千紗は得意げに言って、すぐに照れた。

 照れた顔が出ると、僕は安心する。

 フェイクじゃない。ちゃんと今ここ。


「じゃ、最後に」千紗が言う。

「うん」

「がんばってます、の“証拠”を一つ」

「証拠?」

「今日のがんばりを、ピース化する」

 千紗は冷蔵庫の掲示板から、小さな紙片を剥がした。

 そこに書く。


『今日のがんばり:帰ってきた(世界)』


 僕も隣に書いた。


『今日のがんばり:説明しないで座った(心配)』


 千紗が鈴を鳴らす。ちりん。

 僕らの“がんばり”が、風に飛ばされないように。


 アンが紙の端に前脚を置いて、議長みたいに頷く。

 僕は笑って、アンの背中を撫でた。


「……ねえ」千紗が言う。「今日、終わり方、明るくしていい?」

「うん。どうする」

「りんご、最後の一口を、同時に噛む」

「それ、儀式みたい」

「儀式は暗くない。生活」

「いいね」


 僕らはりんごを一欠片ずつ持って、目を合わせた。

 FACE TO FACE。

 正解を言うためじゃなく、今を共有するための向かい合い。


「せーの」

 シャク。


 音が重なって、部屋が少しだけ明るくなる。

 がんばってます、は、勝ち誇る言葉じゃない。

 息をつなぐ言葉だ。

 そして、顔を合わせて言えた日は、ちゃんと、帰ってこれる。

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