偽物同士の席合わせ
冷蔵庫の“うちのニュース”掲示板に、見覚えのない貼り紙が増えていた。
『本日の議題:フェイクの取り扱い ※刃物禁止 ※心拍は急がせない』
字が千紗のだ。丸いのに、芯だけは折れない。
僕は貼り紙を指でなぞってから、背中で小さく息を吐いた。
「……刃物禁止って、うちで包丁禁止されたら詰むけど」
台所の奥から、千紗が顔だけ出して言った。
「今日は“武器”を別のにします」
ちりん。
彼女は鈴を鳴らす。刃物じゃなく背中を押す合図の音。
「さぁ」
「……さぁ、って言われると断れないやつ」
アンが「にゃ」と短く鳴いた。参加表明。僕の足首に体を擦りつけてから、いつもの椅子の下に潜り込む。
椅子が第三の動きになる予告だ。ここは、僕らのたまり場。
「座って」千紗が言う。
テーブルの上には、コップが五つ。白湯、紅茶、ほうじ茶、コーヒー、炭酸。内なる五人の定位置。
そして真ん中に、りんご。赤い皮が、今日の空気を少し明るくしている。
「今日のテーマ」
千紗はカップを指で軽く押して、順番に“起動”させるみたいに言った。
「嘘の嘘。偽物の偽物。つまり、フェイク×フェイク」
「……聞いたことあるようで、うちの扱いは初めてだね」
「うん。だって最近、うち、ちょっと増えてる」
千紗は視線を泳がせずに言う。受信機が真正面。小さな叫びを落とさない角度。
増えてる。
僕も、薄々思っていた。
例えばこの一週間、千紗はスマホを伏せて置く回数が増えた。
僕も、外出前のポケットを二度触る癖が出た。
そして互いに、それを指摘しない。
指摘しないことが優しさだと信じたい、便利な嘘。
「ねえ」千紗が言う。「先に確認する」
「うん」
「現実通り、今、怪しい」
「……うん」
「でも、暗くしない。沈めない。疑うんじゃなく、取り扱う」
千紗は笑って、鈴をもう一度鳴らした。
ちりん。
音が、場の温度を一段だけ下げて整える。冷たいじゃない。熱くしすぎないための温度。
「じゃ、型」千紗が言う。
「チッ=ブザー→凹凸→一手、だよね」
「そう。あなた、先にチッして」
僕は舌で「チッ」と鳴らした。
ブザー。ここからは、僕らの手順で安全運転。
「凹凸」
「一手」
千紗が即答する。刺さったときの手すりが、ちゃんと共有されている。
僕は少しだけ肩を落とした。
「一手目」千紗が言う。「“嘘”を、どの棚に置くか決める」
「棚?」
「冷蔵庫じゃなくて、心の倉庫の話」
彼女は指で空中に棚を描く。見えないけど、そこにあると決めるやつ。ゼロか百かにしない手順。
「危ない嘘と、無害な嘘と、遊びの嘘。混ぜると事故る」
「たしかに」
「だから今日は、遊びの嘘を作って、危ない嘘を引っ張り出さないようにする」
「……嘘で嘘を包むってこと?」
「そう。フェイク×フェイク」
千紗はにこっとする。
「偽物同士で、座る席を作る」
アンが椅子の下から顔を出した。まるで「議事録取ってる?」みたいな顔。
僕は笑ってしまう。猫がいるだけで、言葉が少し丸くなる。
「じゃあさ」僕は言う。「僕らが今抱えてる“本物の嘘”は、棚の奥に置く」
「うん。置く。触れないで守る」
千紗はテーブルに手袋を置いた。薄い手袋。
「今日はこれ。触れないで守る」
「了解」
僕は手袋を指でつまんで、軽く頷いた。
「二手目」千紗が言う。「フェイクを言う」
「フェイクを言う」
「うん。ルールは三つ」
千紗は指を立てる。
「一、相手を傷つけない。二、最後に“戻る”を言う。三、りんごのシャクで区切る」
「区切り担当、りんごなんだ」
「シャクは強い。いい感じに現実に戻る」
「確かに」
千紗は白湯のカップを押した。
「白湯さん、あなたから」
僕は白湯の声で、素直に言う。
「僕は今、世界一怪しい男です」
「はは」千紗が笑う。「具体」
「ポケットに、何か入ってます」
「何が?」
千紗の受信機が微妙に鋭い。
僕は一瞬迷ってから、フェイクで行くことにした。
「……小型の宇宙」
「やば」
千紗はほうじ茶のカップを押して、落ち着き声で言った。
「宇宙は冷蔵庫に入れないでください」
「じゃ、棚に置く」
「棚は奥」
「奥は危ない嘘用」
「だからダメ」
僕らは同時に吹き出した。
アンが「にゃっ」と鳴いた。笑い声が大きい、という注意だと思う。
僕は口を押さえながら、りんごをひとかけ口に入れた。
シャク。
音が空気を切って、座り直す。
「次、私」千紗が言う。「私も怪しいです」
「うん、怪しい」
「私は今、あなたに隠し事をしている」
「それはフェイク?」
「フェイクです」
「宣言助かる」
僕が言うと、千紗は頬を膨らませた。
「あなた、宣言がないと怖い顔する」
「そう?」
「する。だから私は“安全運用”する」
千紗は鈴を鳴らした。
ちりん。
「錨、打つ」
錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。
「錨の一語」千紗が言う。
「……安心」僕が答える。
「理由一行」
「今日は疑う日じゃなく、扱う日だから」
「ちりん」
錨が降りて、部屋がゆっくり落ち着く。
僕は思った。こういうところ、千紗は本当に上手い。
上手いけど、上手いからこそ、気づきにくい叫びがある。
「じゃ、フェイクの続き」千紗が言う。
「どうぞ」
「私は今、冷蔵庫の奥に、あなたの秘密を隠している」
「……冷蔵庫の奥」
「うん。チーズの裏」
「え、リアル」
「フェイクです」
「ちょっと待って、チーズの裏、見たくなるじゃん」
「見たらダメ」
「ダメって言われると見たくなる」
「だから見ないでください」
千紗は真顔で言ったあと、ぷっと笑った。
「あなた、今の声、受信機が“乱れ”た」
「うるさいな」
「でも、乱れが出たときの手すりは?」
「凹凸」
「そう」
アンが椅子の脚を爪で軽く叩いた。コン、と。
椅子が第三の動きで「落ち着け」をやってくる。
僕は椅子に背中を預け、息を吸い直した。
「……ねえ」僕は言う。「僕も一個、フェイク言っていい?」
「どうぞ」
「僕は今、千紗のことを、ちょっと疑ってます」
「フェイク?」
「フェイク」
「疑い方がうまい」
「うまくない。下手だから、型が要る」
僕はりんごを指で転がす。
「で、疑いが出たら、チッ」
「うん」
「凹凸」
「うん」
「一手」
「うん」
言葉を繰り返すだけで、胸の中に線が一本引かれる。
壁じゃない。通れる線。
「でもさ」千紗が言う。「今日、本題はこれじゃない」
「うん」
「フェイク×フェイクは、座るための席」
「席ができたら?」
「本物を、ちょっとだけ、取り出す」
「ちょっとだけ」
「コップくらい」
千紗はコップを指でトンと叩いた。空っぽでも器は器。全部言えなくても、受け止める形はある。
僕は一度、手袋をはめた。触れないで守る。
守るのは、相手じゃなく、相手を責めたくなる自分。
そして、僕の“ゼロか百か”に寄る癖。
「じゃ、錨」千紗が言う。
「また?」
「また。大事だから」
鈴が鳴る。ちりん。
「錨の一語」
「……戻る」僕は言った。
「理由一行」
「本題で転びそうになったら、ここに戻る」
「ちりん」
戻る。
たまり場式の錨が、テーブルの真ん中に置かれた。
「じゃあね」千紗が言う。「本物、ちょっとだけ」
彼女は紅茶を一口飲んでから、言いにくそうに鼻を掻いた。
これが千紗の“迷い”の癖だ。受信機が拾うサイン。
「最近、私、あなたに隠してる」
「うん」
「でも、あなたを困らせたいわけじゃない」
「うん」
「びっくりさせたい」
言い切ったあと、千紗は少し照れた。
「……これ、言った」
「言った」
「だから、あなたの怪しさは、責めない」
「僕の怪しさも、びっくりさせたい」
「やっぱり」
千紗は笑って、ほうじ茶のカップを押した。落ち着き担当が頷く時間。
「で、問題」千紗が言う。「びっくりの“嘘”って、扱いミスると事故る」
「そうだね」
「だから、フェイク×フェイクで席作った」
「賢い」
「賢いから、もう一歩」
千紗は鈴を持ち上げて言う。
「さぁ」
「……さぁ、で押されるやつ」
僕はポケットを触った。二度。癖が出る。
千紗はそれを見て、目を細める。受信機が“拾った”顔。
僕は観念して、テーブルの上に小さな紙袋を置いた。
「これは、フェイク」
「なにが」
「中身の重要度」
「重要度フェイクってどういうこと」
「……大したことないフリをするやつ」
「それ、危ない嘘棚行き」
「うっ」
千紗が笑いながら、りんごを僕の口に入れてくれた。
シャク。
音で落ち着く。
僕らは本当に、食感に助けられている。
「じゃ、交換」千紗が言う。
彼女は冷蔵庫の奥から、チーズの裏ではなく、野菜室のさらに奥から紙袋を取り出した。
「……ほんとに隠してた」
「隠すでしょ。びっくりだもん」
千紗は得意げに言ってから、急に真面目な顔をした。
「でも、今からは、嘘じゃなくなる。ピース」
千紗は掲示板から「ピース」と書かれた紙片を剥がして、テーブルの真ん中に置いた。
欠片を完成側へ戻す合図。
「同時に開ける?」千紗が言う。
「うん」
「チッしたら止めていい」
「凹凸」
「一手」
「戻る」
「現実通り」
合言葉を重ねるたびに、僕の肩が軽くなる。
嘘が“敵”じゃなく“道具”に戻っていく。
「せーの」
僕らは同時に紙袋を開けた。
僕の袋から出てきたのは、薄い手袋。黒じゃなく、淡いグレー。指先だけ色が違う。
千紗の袋から出てきたのも、薄い手袋。こちらは薄いベージュ。指先だけ色が違う。
「……手袋」
「……手袋」
僕らは同時に言って、同時に固まった。
アンが椅子の下から出てきて、手袋の上に前脚を乗せた。議長が「議決」を下すみたいに。
「え、なに、これ」僕が言う。
「私、あなたが最近、冷たい日に手をポケットに突っ込んでるの見て」千紗が言う。
「僕も、千紗がコンビニのレジ前で手を揉んでるの見て」
「同じじゃん」
「同じだね」
「ひとつになっちゃえじゃん」
「それは別プロジェクト」
「ははは」
笑いながら、僕は気づいた。
僕らの“嘘”は、相手を操るためじゃなく、相手を喜ばせるための未完成だった。
未完成は、扱いを間違えると刺さる。
だから僕らは、フェイク×フェイクで席を作った。
偽物同士が座れる席。そこから、本物を少しだけ出す。
「でもさ」千紗が言った。
彼女は手袋を指でつまんで、僕の方に差し出す。
「これ、色違いで、片方ずつ交換しない?」
「交換?」
「うん。左右で色が違うと、かわいい」
「それ、外でやると“嘘みたい”に見えるね」
「嘘みたいでいいじゃん」
千紗は鈴を鳴らした。ちりん。
「今日は嘘を味方にする日」
僕らは片方ずつ交換して、手袋をはめた。
僕の左手はベージュ、右手はグレー。千紗は逆。
ゼロか百かじゃない。左右で中間を作る。スリットみたいな余白。
「ねえ」千紗が言う。「これ、合言葉を付けよう」
「凹凸?」
「凹凸は手すり。手袋は別」
「じゃ、なんだろ」
千紗は少し考えて、笑った。
「“フェイク”」
「そのままじゃん」
「でも、うちの“フェイク”は、事故らない方の棚って意味にする」
「いいね」
「フェイクって言われたら、疑うんじゃなく、座る」
「座る」
僕は椅子を少し引いて、千紗の隣に寄せた。
椅子が第三の動きで、距離をちょうどよくしてくれる。
アンが当然のように僕らの間に割り込んで、膝に乗ろうとした。
僕は笑って抱き上げる。
「アンもフェイクに参加?」
アンは「にゃ」と鳴いた。たぶん“参加”だ。
「じゃ、最後」千紗が言う。
「戻る?」
「戻る」
僕らは同時に言って、同時にりんごをかじった。
シャク。
音が、今日の議題を気持ちよく終わらせる。
嘘は、二人で扱うと武器になる。
刃物じゃない方の。
背中を押す鈴と、座る椅子と、手袋の薄い布。
偽物同士で作った席の上に、本物がちゃんと置けたら、それでいい。
冷蔵庫の掲示板に、千紗が新しい紙を貼った。
『本日の結論:フェイクは棚に。疑いは手すりに。最後は戻る。』
僕はその横に、小さく書き足した。
『そして、アンは議長。』
アンが「にゃ」と鳴いた。
議長は異議なし、らしい。




