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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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バイバイは小さな扉

 「それじゃあ、バイバイ」


 その言葉って、軽い顔をしている。

 子どもが手を振るみたいな、薄い音のくせに。

 言ったあとに残る空気は、案外しっかりしている。

 壁ではないのに、境界みたいな。


 朝、玄関で千紗が靴紐を結びながら言った。

「今日、ちょっと実家寄ってくるね。夕方には戻る」

「うん」

 僕は頷いた。

 ただ“うん”だけで済むはずなのに、胸の奥が小さくざわつく。

 大げさな不安じゃない。

 ソコハカトナク、の風。

 いつも一緒の人が、いない時間ができると、部屋が一段広くなる。

 広いって、時々怖い。


 アンが椅子の上で丸くなって、こちらを見ている。椅子。第三の動き。

 猫は家に残る。

 残るものがあるのに、残らない気がする。

 そういう日がある。


「……来た?」

 千紗が顔を上げる。受信機が早い。

「来た」

「何が」

「“いなくなる”のやつ」

「そっか」

 千紗が軽く言う。

 その“そっか”が、僕の胸に小さな椅子を置く。

 立ったまま焦らないでいい。


 胸の奥で「チッ」が鳴りかけた。

 ブザー。

 チッ=ブザー→凹凸→一手。


「凹凸」

 千紗が言う。

「凹凸」

 僕も返す。

 合言葉で手すりを出す。


 凸は、「寂しい」。

 凹は、「寂しいって言うのが恥ずかしい」。

 別に永遠の別れじゃないのに、心が勝手にドラマを盛る。

 冗談じゃない。

 でも、ドラマ化は癖だ。癖は運用で扱える。


「一手」

 千紗が言って、玄関の靴箱の上を指でトン、と叩いた。鈴の代わり。

「バイバイを“扉”にする」

「扉?」

「うん。壁にしない。閉じて終わりじゃなく、開けて戻ってくる扉」

「……なるほど」

「だから手順。錨いこ」


 錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。

 僕は短く言った。


「錨:戻る」

「理由:夕方に戻ってくる。だから“いなくなる”じゃない」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「固定。さぁ、バイバイ○」


「○?」

「そっか○と同じ。受け取った、の○」

「……バイバイ○」

 僕が言うと、千紗は笑って手を振った。

「それじゃあ、バイバイ」


 玄関の扉が閉まる。

 カチャ。

 音が、家を二つに分ける線になる。線。

 でも線は優しい境界。

 スリットは、電話とかメッセージとか、あと“帰ってくる時間”だ。

 完全に閉めない。


 部屋が静かになった。

 静かすぎて、アンの足音がやけに大きく聞こえる。

 アンは椅子から降りて、僕の足元に来て、何も言わずに座った。

 猫の“いる”は、言葉より強い。


 僕はスマホを見た。

 やることはある。洗濯、買い物、少しだけ中火の企画。

 でも今日は、千紗がいない分だけ、僕のスイッチが極端になりそうだ。

 オンにして全点灯か、オフにして真っ暗か。

 段付きスイッチが必要。


 胸の奥で「チッ」。

 ブザー。

 凹凸。

 一手。


「段」

 僕は小さく呟いた。

 冷蔵庫の貼り紙を見に行くと、千紗が昨日貼ったやつがある。


「switch=20/50/80

 0/100は禁止

 最後にシャク」


 今日は……50でいい。

 ひとりの時間は、50が現実通り。

 100にすると夜が焦げる。

 0にすると夕方が重くなる。


 僕は洗濯を回し、キッチンだけ整えた。

 罰ゲーム化しないように線を引く。

 床は磨かない。磨き始めると自分を罰する方向へ行く。

 今日は“戻る”の日だ。たまり場式の錨。


 昼過ぎ、千紗から写真が届いた。

 実家の近所の小さな公園。

 ベンチに座って撮った、地面の影と空。

 短いメッセージが付いている。


『今ここ。

空、意外と青い。

夕方ね。』


 それだけ。

 でもそれだけが、スリット。通気口。

 僕の胸の中の空っぽが、器として残る。


「そっか○」

 僕はひとりで言って、笑った。

 ひとり言が増えたら、それは寂しさじゃなく、運用が回ってる証拠だ。

 暗く沈ませないための、ちょっとしたギャグ。寄せすぎない温度。


 夕方が近づくと、僕は少し落ち着かなくなった。

 “まだかな”が、胸の奥で小さく膨らむ。

 待つのは、苦手だ。

 待つと、頭が勝手に最悪を作る。

 spilt milkみたいに、起きてもない失敗を床にこぼす。


 チッ。

 ブザー。


「凹凸」

 僕が言う。

 返事はない。

 でも合言葉は、返事がなくても効く。

 凹凸は自分の手すりだから。


 一手は、椅子。第三の動き。

 僕はソファに座って、白湯を飲んだ。

 吐くのが先。クロール。

 そして、錨。


「錨:現実通り」

「理由:遅れても帰ってくる。今日の扉は閉まってない」


 固定。

 固定すると、待つ時間が“空っぽ”じゃなく“器”になる。

 コップ。空っぽでも器は器。


 その時、玄関が鳴った。

 ガチャ。

 線が開く音。

 扉が戻ってくる音。


「ただいま」

 千紗の声。

 その瞬間、部屋の空気が一段戻る。

 戻るって、物理なんだ、と毎回思う。

 匂いと音と、足音で戻る。


「おかえり」

 僕が言うと、千紗は靴を脱ぎながら笑った。

「待ってた?」

「……ちょっと」

「そっか」

 千紗が頷く。

 叱らない。茶化さない。

 受け取る。


「今日のバイバイ、どうだった?」

「壁になりかけたけど、扉にできた」

「いいね」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ。最後にシャク」


 りんごを切って、一口。

 シャク。

 音が、今日の“バイバイ”を、ちゃんと区切りにしてくれる。

 別れを暗くしない区切り。

 区切りは、終わりじゃなく、次へ進むための線。


 アンが千紗の足元にすり寄って、いつも通りの顔をした。

 猫はバイバイを知らない。

 でも猫は“戻る”を知っている。

 それで十分だ。


「ねえ」

 僕が言う。

「“それじゃあバイバイ”って、意外と優しい言葉だね」

「うん」

 千紗が頷く。

「壁じゃなく、扉。閉めるためじゃなく、また開くため」

 そして、もう一回鈴を鳴らす。ちん。

「さぁ」


 僕らは今日も、別れを暗く沈ませず、生活の運用に変えていく。

 バイバイは、終わりじゃない。

 小さな扉の音だ。

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