↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
119/167

次の小さな一歩の向こう

 「その先にあるものってさ」


 千紗がそう言ったのは、冷蔵庫を閉めた音の直後だった。

 朝の台所は、生活の音が主役だ。白湯の湯気、トーストの焼ける匂い、アンが椅子の脚に頬をこすりつける音。椅子。第三の動き。


「その先?」

 僕は白湯を飲みながら聞き返した。

「うん。その先」

 千紗はマグを両手で包んで、窓の方を見た。曇ってるのに、眩しい顔をしている。

「あなた、最近“その先”を見ようとすると固まるでしょ」

「固まるって言い方、冷凍庫みたいだな」

「冷凍は保存だから悪くないけど、今日は解凍したい」

 千紗が言って、鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ」


 さぁ。

 背中を押す合図。刃物じゃない武器。

 僕はつい笑ってしまった。朝から「さぁ」って、元気すぎる号令に聞こえるのに、千紗の「さぁ」はいつも“軽く押す”だけだ。段付きスイッチの20くらい。


 アンが椅子に飛び乗り、僕の皿の近くで香りだけ嗅いで去った。猫は本当にスイッチが滑らかだ。食べると決めないまま嗅いで、去れる。ゼロか百かじゃない。


「で、何の“その先”」

 僕が訊くと、千紗は少しだけ口角を上げた。

「今日の予定の先」

「今日の予定は…洗濯と、買い物と、僕の中火タイム?」

「そう。それをやった“その先”」

「……何があるの」

「あるか分からないやつ」

 千紗はさらっと言ってのけた。

「分からないやつを、分からないまま触る日」


 胸の奥で、ちいさく「チッ」が鳴った。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 “分からない先”って言葉は、僕の中ではすぐ大会のスタートラインになる。よーい、の空気。そこから百まで走れないといけない気がして、固まる。


 チッ=ブザー→凹凸→一手。

 凹凸。刺さったときの手すり。


「来た?」

 千紗が僕の顔を見て言う。受信機が優秀すぎる。

「……来た。先って言われた瞬間、チッ」

「凹凸」

「凹凸」


 合言葉を返すと、胸の中に手すりが生える。

 凸は、「やりたい気持ち」。

 凹は、「失敗が怖い」。

 どっちも本物で、どっちも僕だ。


「一手」

 千紗が言った。

「“その先”を、手袋で触る」

「手袋?」

「うん。直接触ると熱いでしょ。守りながら触る」

 千紗は引き出しから、薄手の軍手を一組出してきた。なぜある。

「ほら」

「家庭に軍手があるの、現実通りすぎる」

「現実通りは強い」

 千紗は真面目な顔で頷く。

「今日は“手袋の日”。触れないで守る。触れるけど守る」


 僕は軍手を受け取った。布の匂いがする。洗剤の匂いと、ちょっとだけ外の匂い。

 それだけで、未来が“生活の延長”に見える。大会じゃない。家の匂いだ。


「じゃ、何を触るの」

「その先の“形”」

 千紗はテーブルに紙を置き、一本線を引いた。線。

 その線に小さな切れ目を入れる。スリット。

「線は境界。スリットは通気口。完全に閉めない。ゼロか百かにしない」

「また運用だ」

「運用があなたを救う」


 千紗は線の左に「今日」、右に「その先」と書いた。

 さらに右側を三つに区切って、丸を三つ描く。

「その先は三つまで」

「三つ」

「三つがちょうどいい。多いと怖い。少ないと重い」

「たしかに…」


 アンが椅子の上で丸くなって、目だけこちらを見ている。裁判官みたいな顔だ。

 でも猫の判決はいつも「寝る」。それがいい。


「内なる五人、呼ぶ?」

 千紗が聞く。

 こういう時は呼んだ方が早い。頭の中の会議が勝手に始まるから。


「白湯:落ち着け」

「紅茶:礼儀を忘れるな」

「ほうじ茶:温めながらいけ」

「コーヒー:具体に落とせ」

「炭酸:行け!今すぐ!その先は派手に!」


「議長は白湯」

 千紗が即決する。

「炭酸は観客席」

「観客席でもうるさい」

「うるさくていい。でも議長にしない」


 僕は軍手を片方だけはめた。片手だけがポイントだ。全部装備すると、なんか工事現場になる。

 片手なら、触るけど生活のまま。


「その先の丸、三つ」

 千紗がペンを僕に渡す。

「何を書く?」

 僕はしばらく黙ってから、ひとつ目の丸に書いた。

「1:続く」

「ふわっとしてる」

「ふわっとでいい日」

 千紗が頷く。

「続くは、先の形だね。二つ目」

 僕は二つ目に書いた。

「2:戻る」

「戻る?」

「うん。もし失敗したら戻る。たまり場式の錨」

 千紗が少し笑う。

「いい。三つ目」

 僕は迷った。

 “その先”って、光る景色とか、成果とか、誰かに褒められる瞬間とか。

 そういうのを置くと、急にそれが義務に見える。

 義務は刃物になる。僕に対して。


 胸の奥で「チッ」。ブザー。

 でも今日は手すりがある。


「凹凸」

 千紗が小さく言う。

「凹凸」

 僕も返す。

 一手。一手は、コップ。


「コップ」

 僕が言うと、千紗はうん、と頷いた。

「空っぽでも器は器。三つ目は“器”にしよ」

 僕は三つ目に書いた。

「3:器」

「何の器?」

「まだ分からないけど、空っぽでも器」

「最高」

 千紗は言いかけて、すぐ言い換えた。

「現実通り」


 現実通り。

 その言葉で、紙の上の三つの丸が、急に安心の図になる。

 成果じゃなくて、運用。

 向こう側が見えなくても、歩き方は持てる。


「仕上げ」

 千紗が言った。

「錨、打つ」

 錨の一語+理由一行+鈴。風に飛ばされない発言手順。

 僕は軍手をした手でペンを持って、短く言う。


「錨:現実通り」

「理由:その先は今日の延長」

 千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「固定。さぁ、出かけよ」


「どこに」

「その先に」

「説明して」

「説明すると大会になる」

 千紗が肩をすくめた。

「今日は“行ってみてから決める”。たまり場式の変形」


 僕らは近所の小さな公園まで歩いた。

 雨上がりの匂いが残っていて、地面はところどころ濡れている。

 アスファルトの線が光って、横断歩道の白が少し眩しい。線。

 線は冷たいだけじゃない。戻る方向も教えてくれる。


 公園の端に、工事用の白いテープが貼ってあった。

 立ち入り禁止の線。

 僕はつい、その線を見て胸がきゅっとなる。

 “ここから先はダメ”の線は、昔から苦手だ。


 チッ。

 ブザー。


「来た?」

 千紗が言う。

「線で、ちょっと」

「凹凸」

「凹凸」


 千紗は僕の軍手を指差した。

「手袋。触れないで守る」

「触らない」

「ううん、触る。線を“道具”にする」

 千紗はテープの少し手前の地面を指差す。

「ここに椅子」

「椅子?」

「座る。第三の動き。立ち入り禁止の線の前で立ったままだと戦う。座ったら、ただの線になる」


 僕はベンチに座った。椅子。第三の動き。

 座ると、確かに線の威圧が減る。

 線は境界で、境界は守るためのもの。

 ダメのためじゃなく、事故が起きないため。

 意味が戻る。


「ねえ」

 千紗が言う。

「その先って、こういうことだと思う」

「どういう」

「線の向こうに行くことじゃない。線の手前で、座れるようになること」

「……座れるようになる」

「うん。座れると、選べる。行くか、行かないか。いつ行くか」


 選べる。

 それは怖さの反対だ。

 怖さは、選べない気がするときに増える。


 千紗がカバンから小さなメモ帳を出した。

 そこには、僕らの合図が並んでいる。凹凸、戻る、現実通り、たまり場式。

 そして新しく「ピース」の文字。


「今日のピース、ひとつ」

 千紗が言う。

「欠片→ピース化。完成側へ戻る」

「今日のピースは何」

「あなたが今、ここで座れたこと」

「それがピース?」

「うん。あなた、線の前で立ち尽くす癖あるから」

「……ある」

「座れた。だから先が怖くないサイズになった」


 僕は軍手を外して、掌を見た。

 何も変わってない。

 でも、何も変わってないのがいい。現実通り。

 変化は派手じゃなくていい。生活の中で起きるのが一番強い。


 帰り道、千紗が唐突に聞いた。

「その先、ひとつだけ言って」

「ひとつだけ」

「うん。未来の大イベントじゃなくて、今夜の“その先”」

 今夜。

 僕の中火タイムの、その先。

 僕は少し考えて言った。


「終わったら、ちゃんと終わる」

「止める笛」

「うん。CALLED GAME。中断は敗北じゃない」

「最高」

 千紗はまた言いかけて、言い換える。

「ピース」


 家に帰ると、アンが玄関で待っていた。

 猫は“その先”を考えない顔で、僕らの足元に頭をこすりつけてくる。

 僕は一回だけ撫でた。ひとつだけ。

 それで十分だ、と猫が教えてくる。


 夜。

 僕はタイマーを10分にセットして、強火で企画ノートを開いた。

 ピピピが鳴ったら中火。

 今日は“その先”を見ない。

 見るのは“次の小さな一歩”だけ。

 タイトル案を一行、メモを二つ、保留を一つ。スリットを作る。線を引く。椅子を置く。


 タイマーが鳴って、僕はちゃんと手を止めた。

 止められた。

 その瞬間、胸の奥でブザーが鳴らない。

 静かだ。

 静かって、勝ちみたいだ。


「できた?」

 千紗がソファから聞く。

「できた。終われた」

「そっか○」

 千紗が笑って、相槌を記号にする。

「受け取った、の○ね」


「じゃ、最後」

 千紗が立ち上がって、鍵の鈴をちん、と鳴らした。

「さぁ。シャク」


 りんごを切って、一口噛む。

 シャク。

 音が、今日の“その先”を、ちゃんと生活の中に落としてくれる。

 向こう側が光って見えなくてもいい。

 僕らには、手すりと、合図と、器と、戻る場所がある。


「その先にあるものってさ」

 僕が言うと、千紗はりんごを噛みながら頷いた。

「うん?」

「たぶん、でっかい答えじゃなくて…次の小さな一歩を置ける余白だと思う」

「いいね」

 千紗は目を細めた。

「余白があると、受信機が拾える。小さな叫びも、小さな希望も」

 そして、もう一回鈴を鳴らす。ちん。

「さぁ。明日も、次の小さな一歩」


 アンが椅子の上で丸くなって、目を閉じた。

 猫はいつも、“その先”を寝ながら進む。

 僕らもそれでいい。

 暗く沈まずに、現実通りの速度で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。