名づけない風
それは、痛いわけじゃない。
悲しいわけでもない。
何があったと説明できるほど、出来事もない。
なのに、部屋の空気だけが、ほんの少し重い。
ソコハカトナク。
たぶん、こういう時のための言葉だ。
朝、僕は白湯を飲んでいた。
いつもなら、白湯が議長として僕の内なる五人を整える。
白湯・紅茶・ほうじ茶・コーヒー・炭酸。
でも今日は、白湯の声が薄い。
議長が不在。
会議室がざわつく。
アンは椅子の上で丸くなっている。椅子。第三の動き。
猫はいつも通り。
いつも通りがあると、逆に“僕だけ変”が目立つ。
千紗がキッチンから顔を出した。
「……風、ある?」
受信機が早い。怖いくらい。
「ある」
僕は正直に言った。
「なんか、ある」
「ソコハカトナク?」
「うん。まさにそれ」
言えた瞬間、少し楽になる。
名前がつくと、正体不明が“扱えるもの”に変わる。
千紗は冷蔵庫の扉を開けて、貼り紙を一枚増やした。
そこには、ひらがなで一言。
「ふわ」
「……ふわ?」
「今日の状態。名づけない。ふわ」
千紗が鍵の鈴をちん、と鳴らす。
「さぁ。まず、凹凸」
凹凸。刺さったときの手すり。
でも今日は刺さってる感じじゃない。
刺さらず、ふわっと沈む。
だからこそ、手すりが要る。
「凹凸」
僕が言うと、千紗が頷いた。
「いい。次、一手」
「一手、何する」
「“ふわ”を十にしない。欠片にする。三つでいい」
三つ。
素直な虹は三色。
シンプルシンボルは三つ。
段付きスイッチも三段。
僕らの生活は、三で回ることが多い。
千紗は紙を一枚置いて、縦線を一本引いた。線。
さらに、その線に小さなスリット。
「左が“体”、右が“心”。間にスリット。通気口」
「通気口」
「閉じない。閉じると暗く沈む」
僕は紙を見ながら、三つの欠片を探した。
ふわの正体を、無理に暴かない。
ただ、触れられるサイズにする。手袋で触るみたいに。
「一つ目」
千紗が促す。
「体」
「……眠い」
「理由一行」
錨の手順が混ざる。風に飛ばされないように。
「昨日、寝るの遅かった」
「現実通り」
千紗が小さく言って、鈴をちん、と鳴らした。
「固定。二つ目」
「心」
僕は少し考えて、言った。
「……焦り」
「何に?」
「何かに追われてる気がする。でも何か分からない」
「分からない、でOK」
千紗は即答した。
「ないものはない。分からないものは分からない。今日は“ふわ”だから」
分からない、と言っていいのが救いだ。
説明できない不調ほど、説明しようとして泥に沈む。
今日は沈ませない。
浮かせたまま、手すりに寄せる。
「三つ目」
千紗が言う。
「環境」
「……天気」
窓の外は曇っている。光が弱い。
それだけで、人は少しふわになる。
「よし」
千紗が頷く。
「欠片、三つ。ピース化できる」
「ピース」
「欠片→ピース化/完成側へ戻る」
ここで僕の胸の奥が、少しだけ軽くなった。
“ふわ”が霧じゃなく、薄い布くらいになる。
でもまだ、動き出すスイッチが入らない。
オンにもオフにもならない。
だから段。
20/50/80。
「段、決めよ」
千紗が言う。
「今日は20」
「20で何する」
「生きることだけ」
「生きることだけって、曖昧だな」
「じゃ、具体。白湯。シャワー。短い散歩。アンを一回撫でる。以上」
「それ、いい」
「それが“現実通り”の20」
千紗は鍵の鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ。ひとつだけ」
ひとつだけ。
僕はまず、シャワーにした。
シャワーは、ふわを水で流すんじゃなく、“温度を戻す”道具だ。
シャワーを浴びて出ると、千紗がタオルを投げてよこした。
投げ方が雑で優しい。
それだけで笑いそうになる。
笑いは炭酸。圧抜き。
「次、散歩」
千紗が言う。
「外の線、見に行こ」
「外の線?」
「電線とか、ガードレールとか。線は戻るためにもある」
僕らは近所を少し歩いた。
曇り空の下、アスファルトの境界線、横断歩道の白、フェンスの縦線。
世界は線だらけで、全部が「止まっていい」と言っているみたいだった。
ソコハカトナク、の正体は、たぶん“止まれ”の合図だったのかもしれない。
帰宅すると、アンが玄関で待っていた。
僕はアンを一回だけ撫でた。ひとつだけ。
猫の体温が指に残る。
体温は現実通り。
ふわを地面に戻す。
「最後にシャク」
千紗が言う。
りんごを切って、一口噛む。
シャク。
音が、布みたいな“ふわ”を、さらに小さく折りたたむ。
「ねえ」
僕が言う。
「今日の“ふわ”、悪者じゃなかった」
「うん」
千紗が頷く。
「ふわは天気。天気は叱らない。対策するだけ」
「対策って、手順?」
「そう。手順。凹凸、線、段、椅子、白湯、シャク。あと鈴」
千紗が最後に鈴をちん、と鳴らした。
「さぁ」
名づけない風は、名づけないままでもいい。
でも、扱い方はある。
僕らは今日も、ソコハカトナク沈みそうな日を、暗くせずに、手すりと手順で歩いていく。




