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ちゃんと戻る、っていう希望  作者: 科上悠羽


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床に聞く

 「そこに正座」


 その言葉って、本来は罰の匂いがする。

 叱られる前提、空気が締まる前提。

 でも僕らの家では、たまにそれが“救命措置”になる。

 刃物じゃない武器みたいに。


 朝、僕はやらかした。

 いや、やらかし“かけた”。

 アンのトイレ砂を補充しようとして袋を持ち上げた瞬間、底が裂けて、床にざざざ、と砂が雪みたいに降った。

 白じゃないけど、散らばり方が「台無し」を演出する。

 そして僕は反射で大声を出しそうになった。


 胸の奥で「チッ」。

 舌打ちじゃない、ブザー。

 チッ=ブザー→凹凸→一手。


 凹凸。刺さったときの手すり。

 僕は息を吸いかけて止めた。

 吐くのが先。クロール。


 その時、キッチンから千紗の声。


「そこに正座」

 真顔の声なのに、どこか軽い。

 “叱る”じゃなく“止める笛”の響き。


「……え、僕?」

「うん。あなたの心が暴走しそうだから」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「さぁ。正座」


 アンはというと、椅子の上で悠々と毛づくろいしている。椅子。第三の動き。

 犯人は猫じゃない。裂けた袋だ。

 でも猫は「関係ないけど見守る」顔をしている。裁判官みたいに。


 僕は散らばった砂の前で、正座した。

 床が冷たい。現実通り。

 膝がちょっと痛い。現実通り。

 でも、痛いってことは、いまここに体があるってことだ。

 頭の中の“台無しドラマ”が、床の冷たさで一回止まる。


「どう?」

 千紗が僕の横にしゃがんで聞く。受信機の目。

「……止まった」

「いい。正座は“止まる”の最短距離」

「罰じゃないの?」

「罰は暗く沈む。リセットは明るい」

 千紗は淡々と言う。

「うちの正座はリセット。たまり場式の一種」


 たまり場式。

 型。

 僕らが沈まないための運用。


「凹凸」

 千紗が小さく言う。

「凹凸」

 僕も返す。

 合言葉で、手すりを握る。


 凸は、「焦り」。

 凹は、「自分に怒り」。

 怒りが刃物になる前に、正座で止める。

 止める笛。CALLED GAME。

 “そこに正座”は、僕らの笛の言い換えだ。


「一手」

 千紗が言う。

「ひとつだけ、選んで」

 ひとつだけ。

 僕がここでやるべき一手は、掃除じゃない。

 まず、錨。

 風に飛ばされない発言手順。


「錨:現実通り」

 僕は言った。

「理由:砂が散っただけ。家は壊れてない」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「固定」


 固定されると、僕の中の“最悪”が小さくなる。

 砂は砂。

 最悪じゃない。

 面倒ではあるけど、面倒は刃物じゃない。


「次は線」

 千紗が言って、指で床の上に境界を描く。

「ここまでが“散った”。ここからが“まだ”。線を引く」

「線は優しい境界」

 僕が言うと、千紗は満足そうに頷いた。

「そう。線で割ると、全部が全部じゃなくなる」


 千紗は紙を一枚持ってきて、床に置いた。

 その上に、○|△を書いた。シンプルシンボル。


「今どれ?」

 千紗が聞く。

 僕は胸の中を探る。

 △ほど危なくない。

 でも○でもない。

「|」

「止まる」

「うん」

「止まったなら、椅子」

 千紗がソファを指差す。

「正座は一回で十分。次は椅子で続ける」


 正座はリセット。

 椅子は継続。

 第三の動き。

 ゼロか百かじゃない手順。


 僕は立ち上がって、ソファに座った。

 千紗が掃除機を出してくる。

 僕の中で「僕がやらなきゃ」が鳴りかけて、またチッ。

 ブザー。


「凹凸」

「凹凸」


 一手は、役割分担。

 片方が掃除機、片方が袋の片付け。

 僕は裂けた袋の残りをまとめて、ゴミ袋に入れる。

 砂が散ったこと自体より、“自分を責める癖”の方が厄介だ。

 だから、運用で潰す。


 掃除機の音が、ぶうん、と鳴る。

 音って、生活の現実通りだ。

 現実通りは、暗く沈ませない。

 やることをやれば終わる、と教えてくれる。


 床がきれいになる。

 線で分けた境界が消える。

 ピース化。欠片→ピース化。完成側へ戻る。


「終わったね」

 千紗が言う。

「終わった」

 僕は深く息を吐いた。吐くのが先。

 胸の奥のブザーが、やっと静かになる。


 アンが床に降りてきて、何もなかった顔でその場を通り過ぎた。

 猫は“終わった”が上手い。

 僕はその背中を一回だけ撫でた。ひとつだけ。


「ねえ」

 僕が言う。

「“そこに正座”って、言われるとちょっと笑いそうになる」

「笑っていいよ」

 千紗が鈴をちん、と鳴らす。

「うちの正座はギャグじゃなく、救命具。でも笑えた方が救命率が上がる」


 救命率。

 言い方が現実通りで、僕はまた笑った。

 ギャグに寄せすぎない温度で。


「最後にシャク」

 千紗が言う。

 りんごを切って、一口噛む。

 シャク。

 音が、朝の砂を“ただの出来事”に戻してくれる。


 罰みたいな言葉を、リセットに変える。

 正座を、暗く沈むものにしない。

 それが僕らの運用だ。

 床に膝をつけて、現実通りを聞いて、鈴で始め直す。


 千紗が最後に、ちん、と鳴らした。

「さぁ」

 その一音で、今日の朝はちゃんと生活に戻った。

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