距離感
蟲魔の事件から、一週間が経った。 この一週間、香輔と杏の二人はほとんど会話がなかった。
「……はぁ」
これでいいと香輔は思う。 お互いのためだと、空いた心の隙間を埋める言い訳のように自分に言い聞かせる。
――距離を取るのが、一番安全だ。
杏に危険を及ぼすなら、大元の自分が離れるべきだ。
それに、おそらく……、
(杏は僕の記憶障害に気づいている)
彼の自然能力、分析の後遺症。
蟲魔と対峙した後に、明らかに欠けていることに自覚していた。いや、正確には鶴宮杏という人物は覚えているはずだ。それなのに、彼女への接し方が分からない。
杏と対面した時には内心では焦っていたが、どうにか平常心を保っていられた。
それでも、やはり勘づいているのだろう。
お互いのためだと無理矢理納得しているとはいえ、微妙な距離感が生まれた。
「……静かすぎるだろ」
ぽつりと零した言葉は、誰に届くでもなく消えた。
教室のざわめきはいつも通りだ。 午前は一年生混同で果樹班の他にも、野菜班と花卉班共に生徒たちが集まり、教卓に立つ教師は土壌肥料の地脈と自然エネルギーの流れを解説している。
いつも通りすぎる教室。
一人を除いて。
(……、)
視線を上げれば、斜め前。 杏はノートに目を落としたまま、一度もこちらを見ない。
いや――正確には、香輔が気づくよりも早く、逸らしているだけだ。
(監視役、ね……)
杏は責任感が強いはずだ。監視役とは言っていたが、そういう名目は無しで、お世話係に喜んで受けたと言う。
だからこそ、問い詰めたあの時の杏の目は任務としてのそれじゃなかった。 もっと個人的で、もっと――踏み込んだ何かだった。
「……やめだ」
考えるほど、足が止まる。
これが、記憶障害の影響なのか、心の中に残る星雪香輔の想いなのか知るよしもない。
彼女にそれ以上踏み込んだら行けないという無意識からの警告だったかもしれない。
結果的には遠ざける形になった。
それが最善だと信じて。
チャイムが鳴る。 授業の終わりを告げる音に、教室が一気に緩む。
立ち上がる音が重なり、人の流れができる。
その中で、杏は迷いなく席を立った。
(……また、か)
こちらを見ないまま、教室を出ていく背中。
呼ぶ暇もない。いや、呼べば、止まるかもしれない。声をかければ、振り向くかもしれない。
けれど――
喉の奥で、言葉が引っかかる。
何を言えばいい?
そもそも、望んでいた距離感を戻してどうする。
また、嘘を並べて言い訳を言うのか。
自分で分かっている言葉を、どうして口にできる。
結局、何も言えないまま。
その背中は、人の波に紛れて消えた。
(……これでいい)
静かに息を吐き、繰り返す。言い聞かせるように。
関わらせなければ、守れる。 知らなければ、傷つかない。
そういうものだと、思っていた。
「コウちゃん」
不意に、背後から声がした。
「何か、言うことあらへん?」
振り向くと柔らかな微笑みを浮かべる、初名だった。
その目は、笑っていない。
(……うわぁ)
おそらく、一番面倒なのが関わってきた。
「な、なんでございましょう?」
おずおずと、初名に向き直る。正座できるならその場で正座したくなる雰囲気を作り出していた。
周囲のざわめきが、わずかに遠のいた気がする。
「一週間、様子を見てた」
静かに告げられる言葉。
「今までアンちゃんとコウちゃんとの様子を遠くから見てた。正直、二人の関係にわえが出しゃばったらあかんと思ってた……けど。もう、我慢できやん」
彼女にしては珍しく、この一週間を黙っていたようだ。しかし、ふつふつと湧き上がる溜まっていた感情が抑えられなかった。
初名はスーっと息を吸って、
「何なん!? このモヤモヤする絶妙な距離感は!! 」
教室中に響く勢いで初名は叫んだ。
「初名、声が大きい」
「関係あらへん!」
ビシッと指を突き付けられ、香輔は口を閉じる。
「アンちゃんは避けとるし、コウちゃんは追いかけやんし、二人とも何考えとるん!?」
「いや、ちがっ、避けてるわけじゃ」
「避けとるやん!」
ぐっ、と言い返せない自分が悔しがる香輔。
初名が気づかれるほど、ギスギスしていたのだろうか。もしかしたら、周りにも察しているかもしれない。
(まぁ、それは当たり前か)
そう思うのも無理はない。
杏が世話係だとあれだけ言っておきながら、あからさまに距離を置き、こちらを避けているのが誰だって見え見えだ。
初名はそれが我慢できなかった。
「わえは二人の事情をよく知らん。何で追いかけやんの!? 」
「ち、違うんだ初名。これは……その……、これでいいんだ」
香輔の曖昧な答えに初名はポツリと言う。
「……わえの原因でケンカしたの?」
「それは絶対に違う!」
慌てて否定をする。
初名は誰よりも責任感が強いし、自分自身を追い詰める。それは彼女の心の在り方だ。
他とは違う存在が、どうしても胸の中に引っかかってしまうのだろう。
だからこそ、真実を言えなかった。
蟲魔『ハダニ』の対峙で、初名の『天雷梅』を扱う時に自然能力を発動してしまう。
その後遺症に杏との関係にヒビが入ってしまった。
初名をトリガーに発症したなんてことを伝えたら、間違いなく自分自身を責めるだろう。
(初名には余計な負担をかけたくない)
下手に心の隙を見せるわけにはいかない。だから、いつも通りの声音で言う。
「……僕と杏のことなら心配いらない。今はちょっとケンカしてるだけだ。すぐにでも元通りになるさ」
初名の心に触れた以上、誰よりも味方であり続ける彼には、弱音を吐けない。
「……うん。わかった。でも、困ったことがあったら迷わずわえに頼るんやで!」
「ああ、頼りにしてる」
いつもの笑顔に戻った初名は、どっしりと自分の胸を叩く。
たとえ、偽りの優しさだとしても、香輔の胸の内はすでに覚悟をしていた。記憶障害に他人がノイズを起こそうが、梅咲初名だけが目印となる。
それだけは忘れない。
(頼りにしているのは本当だ。僕が諦めていた心をキミのおかげで取り戻してくれた)
裏切るなんて、出来るはずがなかった。




