3-4 悲しみの風は台地に吹く
瞬間、正気に戻った心。しかし風は止まない。もう止め方を知らない。止めてくれ、とリノヴェルカは叫んだ。ああ、とイヴュージオが頷く。
かつて仲良しだった兄妹。しかし残酷な運命は、こうして二人を戦い合わせた。
今はリノヴェルカが悪、イヴュージオが善だ。きっとイヴュージオはリノヴェルカを殺す。そしてイヴュージオが神となり、リノヴェルカは救われる。
「お前の地獄は――この僕が終わらせるッ!」
波濤。噴き上がった鉄砲水が、水の竜となってリノヴェルカを噛み千切らんと襲いかかる。疾風。風が爆発する。風を編んで作られた風の竜が水の竜に噛み付いた。そして両者は同時に消滅、次の手を打たんとそれぞれが思考する。
神となったリノヴェルカの力は強い。しかしイヴュージオだってもう、以前の弱い力しか持っていないわけではない。そして今のリノヴェルカは手加減して倒せるような相手でもない。だからこそ。
「海よ! 弾けて砕けよ! 我引き起こすは世紀の災厄!」
イヴュージオが全力を解き放つ。伸ばされた手の先、みるみるうちに集まっていく水。それは巨大な津波となって、町を押し流していく。巨大な波はリノヴェルカに向かい、彼女を呑みこまんとその顎あぎとを開ける。リノヴェルカは風でこれを押し返そうとしたが、重さが違う。リノヴェルカはそのまま波に呑み込まれた。
しかしこの程度で終わるリノヴェルカではない。目を狂気にぎらつかせた彼女は、呑み込まれる寸前に風を集めて空気の球を作り、その中に閉じこもって溺死を防いだ。やがて空気の球は地上に上がり、彼女は大きく息をつく。間髪を入れずに力を解き放つ。呼び出したのは竜巻だ。町ひとつを滅ぼしそうなほど巨大な竜巻は、海の水を巻き込んでイヴュージオに迫る。すさまじいスピードだ。あれに巻き込まれれば、亜神と言えどもひとたまりもないだろう。それを見、イヴュージオは一切躊躇わずに自身が生んだ津波の中にその身を躍らせた。海の中にいれば地上の影響を受けない。当然のことである。リノヴェルカの竜巻は木々をなぎ倒しながら別の町へと進んでいく。戦いの中、兄妹の力はますます被害を生んでいく。
水が外へ抜けていく。別の町を呑み込まんと移動する津波。水から顔を出したイヴュージオ。狙い打つように風の刃が一閃。頬を切り裂かれるが、致命傷ではない。水に流されるイヴュージオを負い、戦いは次の町へ。
押し寄せてきた大津波と竜巻に、阿鼻叫喚の光景が広がる。ぶつかり合う風の力と海の力。どうしようもない想いが砕けて散る。
イヴュージオは勢いを込めて、水の槍をリノヴェルカに向けて放つ。不意打ちの一撃はリノヴェルカの脇腹をかすり、リノヴェルカはそのまま落下して着水、しかし沈むことはなく水に浮かぶ兄を睨みつける。
水の中ならばイヴュージオの領域だ。突如生まれた渦がリノヴェルカの足元を掬い、リノヴェルカはそのまま渦に呑み込まれる。だが、風の魔法で空気の泡を作ることは忘れない。呑み込まれる瞬間、出来る限り多くの空気を巻き込んだリノヴェルカ。空気の泡を操って水中を移動、兄の真下に狙いを定める。発射。空気の泡の先端を鋭く光らせて、魚雷の如く兄に打ち込む。勢いで自分も水から飛び出し風の力で飛翔、下を見る。
決着はついていた。
さああ……と水が引いていく。空気の刃に切り裂かれ、兄は致命傷を負っていた。
血まみれの兄。見て、正気が復活する。気がつく。自分はどうしようもないことをしてしまったのだと。
「イヴ……!」
叫んだ瞬間、竜巻は消滅した。
荒れ果てた台地に横たわり、イヴュージオは笑っていた。
「リノ……」
「嘘だ! 私がイヴを殺しただと!? 私は私は私はァッ!」
「ははは、計画通り」
そこへ。
した声。
「ネフィル様……」
イヴュージオの呼んだその名を聞いて、リノヴェルカの中に再び燃え上がる怒り。
漆黒の髪、紫の瞳、褐色の肌。紫のマフラーを巻き付けた少年が、嘲笑うように唇をひん曲げて、そこに立っていた。
確信する。こいつが兄を変えたのだと。
燃え上がった怒り。どうしようもないほどに。
「貴――様ァッ!」
怒りのあまり駆けだした瞬間、
「リノ!」
声がして。
包まれる。いつも一緒にいた海の香り。大切で、大好きで、しかし変わってしまって。救おうとしたその存在の、声が、腕が、リノヴェルカを包み込む。
リノヴェルカが踏み出した先、本来リノヴェルカの身体があった場所。
イヴュージオの身体に、禍々しい刃が突き立っていた。
「何とも麗しい兄妹愛だな」
ネフィルの声が興味深いものでも見たかのように響く。
イヴュージオ。リノヴェルカとの死闘で死にかけていたはずの兄が、最後の力を振り絞ってリノヴェルカを守った。その青の瞳にもう、冷酷さはない。最後の瞬間、イヴュージオは元の優しい兄に戻ったのだ。
全身から血を噴き出しながらも、イヴュージオは倒れた。イヴュージオの身体の下になりながらも、リノヴェルカは信じられないものでも見るかのように兄を見た。
血まみれの唇が動いて言葉を紡ぐ。
「リノ……僕、は……」
その先を、聞くことは出来なかった。
イヴュージオの瞳から光が失われる。その手がぱたりと地面に落ちる。その身体から体温が失われていく。止まった鼓動、途絶えた呼吸。その何もかもが、明確に示すこと。それは、
イヴュージオの、死。
溢れる思い。どうしようもないほどに。いつかはわかりあえると思っていた。ネフィルさえ倒せば何とかなると思っていた。それなのにリノヴェルカは暴走し、それを止めようとした兄は最後の最後にリノヴェルカを守って死んで。
死んだ。イヴュージオが、死んだ。死んでしまった。
どうしようもない現実がリノヴェルカを襲う。
「ああ……」
喉から漏れたのは、悲鳴のような慟哭。
「あああ……!」
ネフィルもイヴュージオももうどうでも良かった。リノヴェルカの、壊れかけたぼろぼろの心は、ついに、
壊れた。
「あああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
最悪な運命が、二人を永遠の別離へと追い込んだ。
もうリノヴェルカを止めてくれる人はいない。その滂沱と流れる涙を拭ってくれる人はいない。
爆発する感情を、その力を、抑えてくれる人はもういない。
リノヴェルカは心を閉ざした。もう何も感じないように、何もかもを封じてしまおうと試みた。それでも溢れる力は、暴れる力は止まるところを知らなくて。
力だけが、彼女を中心とした場所で暴れ続ける。神となった以上、死ぬこともできなくなったリノヴェルカ。彼女は悲哀と絶望と底知れぬ虚無感を抱えながら、永遠を生きることを運命づけられた。
◇
アルティーラ台地。リノヴェルカの長い旅の終着点。すっかり荒地となった場所に、烈風が吹き過ぎる。しかし人々はたくましいもので、町をつくろうと動き始めていた。
心を封じたリノヴェルカ。彼女を中心に神殿を作り、そこから町を広げていく。彼女の悲しみの風は時を経ていくうちに弱まって、台地は人が住める程度にはなった。そうしてその町――ツウェルは生まれた。
町の最深部、今も彼女は眠っている。穏やかな風を吹かせる彼女はいつしか町の人々に愛される神となったが、その心は永遠に閉ざされたままで。
時折思い出す悲哀の記憶が町に烈風を吹かせる時はある。そのたびに人々は、いつか彼女が救われる日が来ることを、と願うのだ。
裏切られ、利用され、大切な人をその手に掛けて、自分を失った風の神。
大地を駆けることを忘れ、人を信じることを忘れ、喜びの意味さえも忘れてしまった。
だが、それから幾千年。誰もが望んだ救いはやってくる。描いた絵を実体化させる少年が、「荒ぶる神」となった彼女を封じにツウェルへ来る。
そうだ、そうなのだ。救いは、来るのだ。
風神の愛した台地には、悲しみの花ばかりが咲くわけではないのだから。
【完】