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プロローグ

 ー『魔族』は悪だ。ー


 そんな認識が広まったのは、いつからだろうか…。



 かつて世界を瘴気で包み込み、数多の国と種族を滅ぼした魔王は『魔族』だった。

 魔王は瘴気を纏う、意識のない魔族や魔獣を従えて支配領域を拡大し、わずか七十年ほどで世界の九割を支配した。

 国民と土地を守るため、各種族は果敢に魔王に立ち向かっていった。だが、圧倒的な戦力差を前に打ちのめされ、最後の十年間は防戦一方だった。



 立ち向かうものが一人もいなくなったある日、魔王は突然消えた。

 大地を覆っていた瘴気も、空を覆っていた暗雲もたちまちに消え去り、世界に平和が訪れた。

 実感のない平和の訪れに、国民は動揺して素直に喜べずにいた。


 人間をはじめとして生き残った種族たちは、魔王が消えた原因の究明に励み、唯一わかったのは


「魔王は『何者か』によって討伐された」


ということだった。



 各種族はこの漠然とした事実に対してやりきれない思いを抱いた。

 魔王を討伐してくれた勇ましき者に感謝することができず、愛する民、土地、歴史を失った悲しみと怒りのやり場に困り、ふと魔族の存在を思い出した。

 ーー魔王を輩出し、自らも魔王とともに世界を侵略した、あの魔族を。

 魔王への怒りの矛先が、全て『魔族』へと向かうのは自明の理だった。


 各種族の怒りに気づいた魔族は、「当時我々のほとんどは魔王に精神を支配されていた。意思は奪われていたので、各種族を魔王の命によって襲っていたのだ」と弁明した。

 当然どの種族も納得するはずがなく、むしろ火に油を注いだ。

 やがて、「魔族は野蛮で、傲慢で、残虐で、近くにいると殺されてしまう」という考えは世界中に浸透し、魔族は信用を失った。



 だけど、本当に魔族は冷徹で残酷なのだろうか…?

 

 彼らが言っていた通り、魔王に操られていただけなのではないか…?



 俺はどうしてもこの話を素直に聞くことができない。

 魔族がもし生まれながらにそんな残虐な性質を持っているなら、魔王が出現する前からその認識が広まっているはずだ。

 それなのに、王都の図書館でいくら文献を漁ってもそのような記述を探すことはできなかった。


 

 みんなわかっていたはずなんだ。魔族が物語で語られるほど恐ろしくないことに。

 それでもこの考えを捨てられないのは、きっとーー


 魔族は「人間の敵」でなければならないからだ。


ーーーーーーーーーー


 「ウオララアァァアアアアアアア!!!!」


 魔族の鬼気迫る咆哮が、考え事をしていた俺の意識を現実に戻した。

 正面から蛮刀を構えて向かってくるのは、馬や熊の頭をした獣人たちだ。

 人数は七人。少し多いが、それぞれが別々に動き、連携が見られない彼らは今の俺たちの敵ではない。


 彼らのうちの一人、身長三メートルはあろうかという巨軀の馬頭が、前衛にいる俺に向かって蛮刀を力任せに薙いだ。

 月光を受けて鈍く光る刃が、空を切って俺の首めがけて一直線に向かってくる。

 まともに受けようとすれば、剣ごと首を吹き飛ばしてしまいそうな威力だ。受け流そうなどと考えてはいけない。

 横に避けるのも当然難しく、前後に避けるのも蛮刀の間合いを鑑みてリスキーだ。


 (横薙ぎの攻撃は上下に逃げるのが鉄則…!!)


 俺は即座に上空へと飛び上がった。その一瞬で二メートル近く跳躍し、空中で魔族と目が合った。


「……ッ!!」


 馬頭はその跳躍力に驚愕した様子だった。しかし、刀を力任せに振るった直後で、すぐには体勢を変えられない。俺はその隙を逃さず、馬頭の首を愛用の片手剣で両断した。


 首は血飛沫をあげて宙を舞い、短い滞空を経て地面に落ちた。馬頭の身体が倒れたのはそれと同時だった。

 幾度となく魔族の首を断ち切ってきた俺は馬頭を倒せたことを確信し、次の敵を見据えて地を蹴った。


ーーーーーーーーーー


 周りでは他のパーティメンバーの攻撃によってすでに五体が倒され、残るは一体になっていた。

 普通のパーティであれば、一体の魔族を倒すのにも少なくとも数十秒はかかる。その魔族をこの速さで仕留められるのは、俺たちが「勇者パーティ」だからだ。



 冒険者の中でも、ダンジョンに潜らず戦場で魔族との戦いを専門とするものたちがいる。その中でさらに多くの武勲を立て、国家に認められたパーティに送られる称号、それが「勇者パーティ」だ。

 国内には七つしか存在せず、俺たちのパーティは先月加わったばかりの新米だ。

 平均年齢は二十一歳と七つの勇者パーティの中では最年少。最近は「新進気鋭の勇者パーティ」として王都で噂になっている。

 メンバーは剣士二人、武闘家一人、タンク一人、騎士一人、魔術師一人、僧侶一人の七人で構成されていて、人数がやや多いパーティだ。



 俺「クラウス」はその中で剣士として、もう1人の剣士「ゴットハルト」とともに前衛で剣を振っている。

 今日は「勇者パーティ」になってから初めての魔族軍砦への突入だ。突入自体は以前から何度も経験してきたことで、特に新しいことではない。


 だが、「勇者パーティ」としての最初の戦いで大きな戦果を上げられれば、俺たちの実力を、国家の名のもと知らしめることができる。

 実力を認められれば、より重要な戦場へ優先して派遣されて、地位と名誉が約束されたも同然となるのだ。

 とにかく、この初陣で戦果をあげることに、俺たちは固執していた。


ーーーーーーーーーー


 魔族軍砦の突入は順調そのものだった。

 偵察の報告通り、砦の内部はダンジョンの様相を呈していて、ダンジョンを改築して砦にしたことが窺えた。

 接敵してもそのほとんどは魔獣であり、魔族はあまり見かけない。これは、魔族たちが人間よりも少ない母数を補うため、ダンジョンに出現する魔獣を利用して戦力を増やしているからだろう。

 幸いなことに、こちらの人間軍には一定数冒険者集団が雇われている。魔獣の討伐に慣れている彼らにとって、魔獣は格好の餌食であり、人間軍の騎士が倒せない魔獣は彼らが片付けてくれた。


 人間軍の先頭にいるのは、もちろん俺たち「勇者パーティ」だ。矢継ぎ早に現れる魔獣や魔族たちを屠り、着実に敵の親玉がいる上の階層へと進んでいった。



 最上階の一つ下と思われる階層に来たとき、魔獣たちによる猛攻が突然止んだ。

 普段ならば警戒するところだが、これまでの階層で集中して進んできたため集中力が切れかけていたこと、魔獣や魔族の討伐が拍子抜けするほど余裕だったことが重なり、気が緩んでしまった。



 「勇者パーティとしてはじめての突入が、順調に終わりそうで良かったな」

  隣に立っていた勇者パーティの剣士「ゴットハルト」が笑いかけてきた。


  俺もその言葉に同意の笑みを返した。

 「この突入が成功すれば、国家に俺らの強さが認められる。そうなれば俺らの勇者パーティとしての地位や名誉は鰻上りだな」

 「ああ。このパーティを結成してから七年。色々あったが、ようやくここまで来れたんだ。この突入を大成功に収めて、俺たち「勇者パーティ」の伝説の序章を彩ろうぜ!」



 ゴットハルトの熱い言葉に、緩んでいた俺たちの気持ちは再び引き締まった。


 そうだ。勇者パーティとして魔族軍を討伐し、栄誉を勝ちとるためにここまできたんだ。最後まで頑張らなくちゃな。

 みなが決意を胸に抱き、目に火を灯したことを確認したゴットハルトは、「それじゃあ行こうか!」と言って、力強く足を踏み出した。その瞬間…


 ーーガコンッ。


 踏み出した足が乗った石レンガがわずかに沈み、トラップの作動音が聞こえた。

 俺たちは咄嗟に周囲から槍が飛び出したり、岩が落ちる可能性を考慮して、壁や天井を警戒した。

 にわかに光った足元に気づいたときには、退避するにはすでに遅く、勇者パーティは眩い光と共に転移魔法陣によって転送された。


ーーーーーーーーーー


 光が消えて視界が戻り、辺りを見渡すと、五十メートル四方はありそうな窓のない石レンガの空間に放り出されていた。

 先ほどまでいた場所とは異なる、湿った、血なまぐさい空気を感じる。前方を見ると向かいの壁には重厚な扉があった。周りを見渡しても他に扉はなく、そこが唯一の出入り口のようだった。


 「どうやら地下に飛ばされちまったみたいだな…。急いで上階に戻るぞ!」

 その一声で前に進もうとしたとき、周りから俺たちを囲むように次々に大小様々な魔獣が現れ始めた。その数は少なく見積もっても百匹は優に超えるだろう。


 「モンスターハウスだ…!!早く出口へ!!」


 モンスターハウスはダンジョン内で、魔物や魔獣が数十匹湧いている部屋だ。多くの場合、部屋にいるモンスターをすべて倒さなければ出口は現れない。

 だが、数の暴力は手強い。もし出口があるのならそこに向かって最低限の戦闘に抑えた方がいい。


 ゴットハルトの掛け声とともに俺たちは道を塞ぐ魔獣たちを倒しながら一目散に出口を目指した。

 しかし、行く手を阻む魔獣たちの数は想像以上に多く、明らかに通常のモンスターハウスよりも手強い。出口は見えているのに、なかなか近づけない。



 やっとの思いで空間の中程まで来たとき、目指していた出口が突如開かれ、魔族たちが増援としてなだれ込んできた。


(上階に行くまでに魔族の数が少なく討伐しやすかったのは、このモンスターハウスで袋叩きにするためか…!)


 遅まきながら魔族の作戦に気づいた時には、もう出口を目指すこともままならないほど、魔獣は増えてしまっていた。このまま戦っては消耗戦となり、魔族の思う壺だ。

 幸いにも俺たちには切り札がある。ここは一時撤退するのが賢明だ。


 「みんなゼルマのもとへ集まれ!『転移魔法』を使う!」


 俺は周りのメンバーに聞こえるように叫んだ。

 

 パーティの魔術師「ゼルマ」は世界でも片手で数えるほどしか使えないという「長距離転移魔法」を扱うことができる。大量に魔力を消費するため連発はできないが、一回使えるほどの魔力はまだ残っているはずだ。


 俺の声を聞いたメンバーは後退りながら、次々に詠唱をしているゼルマのところへ集まり、ゼルマを囲んだ。



 やがて、術式を完成させた地面に半径五メートルはある魔法陣が描かれた。

 パーティメンバーが全員揃ったことを確認したゼルマは、魔法を完成させるべく術式の最後の一句を唱えようとした。


 その刹那、視界の端を焦茶色の物体が横切り、強い衝撃が右半身に加わった。

 視界がめまぐるしく回転し、何が起きたのか瞬時に理解できなかった。

 血に濡れた床に打ちつけられ、回転が収まってから横を見ると、魔法陣の中の、俺がいたはずの場所でサイ型の魔獣が咆哮を上げていた。どうやら魔獣の突撃で、魔法陣の外に突き飛ばされてしまったらしい。

 ゼルマは驚いた様子でこちらを見たが、すでに詠唱を終えてしまったようで、俺を残した六人のパーティメンバーは青白い光と共にモンスターハウスから消えた。


ーーーーーーーーーー


 ただ一人取り残されたという事実は受け入れがたく、頭の中が真っ白になった。

 その後すぐに我に返ることができたのは、青白く光る(おびただ)しい数の目が自分を捉えているのに気がついたからだった。


 これは本当にまずいと直感し、この危機を打開する策を探すため必死に頭を巡らせた。

 その間にも、魔獣はじりじりと嗜虐的(しぎゃくてき)な笑みを口に浮かべて近づいてくる。心臓は早鐘(はやがね)のごとく鳴り、冷や汗が首筋を伝う。もはやモンスターハウスに入る前の余裕はなくなっていた。



 魔獣はいよいよ近くに迫り、ついに五体がまとめてかかってきた。

 もはやここまでかと思い、救いを求めて首にかけていたペンダントを強く握った。

 

 深い藍色に染まったこのペンダントは、故郷の村を出る時に母からもらった父の形見だ。戦争に行った父は帰らぬ人となり、帰ってきたのがこのペンダントだけだった時の悲しみは今でも鮮明に思い出せる。


 触れれば、故郷に戻れるのではないか。そんなありもしない希望を胸に抱いて、俺は強く握りしめた。


 

 果たして祈りが通じたのか、ペンダントはにわかに青色の光を放ち、俺の身体を包んだ。

 直後、俺は自分の身体のつくりが根本から変わるのを感じた。


 外見上の変化は、頭髪が金色から深い黒になったことと、爪が鋭く伸びたことだけのようだ。だが、その内部はめまぐるしく変化している。内臓の位置が次々に入れ替わり、骨格がめきめきと音を立てて形を変え、激痛が全身を駆け巡った。


 苦痛に思わず意識が飛びかけ、やがて痛みはおさまった。


(今のは、何だったんだ…?)


 ペンダントを強く握りしめた後、自分の身体は大きく変化したようだ。視界は澄み渡り、鼓膜は全ての音を拾い、身体中から力が漲ってくるのを感じる。



 ふと周囲を見渡すと、周りを取り囲んでいた敵はまだ俺の身体に触れていない。さっきまでの出来事は一瞬で起こっていたのだろうか。それになぜか敵の攻撃速度も遅くなっているような…。 


 …いや、違うな。敵が遅くなってるんじゃない。俺の脳の処理速度が速すぎてそう感じるんだ。

 この身体能力ならモンスターハウスを脱出できるかもしれない。


 自分の手を見れば、爪は鋭く、体毛は黒く、装備はもとのままだがさっきまでの俺とは姿が違う。

 目の前にいる魔族は突然の光に目をやられてまだ視力が回復していないようだ。

 後方の魔族たちは何が起きたのか理解できていないようで、困惑の声をあげている。

 もしかして、今なら魔族に「敵」だと認識されずに逃げおおせるのではないだろうか。


 俺はそう踏んで、足に力を込め、姿勢をかがめると、たった一人の特攻を開始した。



 周りを取り囲んでいた集団を抜けると、思いの外、後方の魔族は固まっておらず、バラけていた。俺は他の魔族に不審に思われない速さを心がけて、彼らの進行方向とは逆、出口に向かって走った。

 その様子に訝しげな表情の魔族もいたが、走り出しは順調だった。

 やがて、モンスターハウスの出口が眼前に迫った時、低いがなり声が背後からあたりに響いた。


 「人族の逃げ遅れが姿を眩ませた!各員、警戒し、異変があれば即座に調べよ!」


 先ほどの集団が、自分がいなくなったことにようやく気がついたようだ。

 前を向くと、門の前に立っている一つ目の魔族が警戒の色を滲ませてこちらを注視していた。


「そこの者、止まれ!なぜ先ほどから逆走しているのだ!」


 その怒声を引き金に、あたりの魔族の目が一気に俺に向いた。


「先ほどの凄まじい光に目がくらんで、後方で目を休めようかと…!」

 

 一つ目の魔族は俺の身体を見回した後、軽蔑のまなざしを向けて舌打ちした。


「はぁ…だから獣族は嫌なんだ。無駄に五感が鋭いから、いつも文句ばっかり…。とっととここから出ていけ!」

 

「はっ…!失礼します!」


 俺は言われた通り、素早く出口から逃げた。

 なんとかこの場を凌ぐことはできた。しかし、あの一つ目の魔族は俺の身体を見て獣族と言っていた。俺の外見は今、その獣族とやらになっているのだろうか。

 気になったことは他にもあったが、モンスターハウスから脱出した以上、あとは外を目指すだけだ。

 俺は長く薄暗い廊下の先に目を向け、駆け出した。


ーーーーーーーーーー


 モンスターハウスの外には窓のない廊下が続き、若干名の魔族が待機していた。やはりここは地下なのだろう。

 不幸中の幸いにも、ほとんどの魔族がモンスターハウス内に攻め込んで一網打尽を目論んだおかげで、外にいる魔族は少ない。

 ときどきモンスターハウスとは反対の方向へ進む俺を訝しむ魔族に出くわした。けれども、彼らは俺に話しかけることも追うこともせず、廊下を順調に進むことができた。


 やがて階段が目の前に現れた。その先からはかすかに地上の光が見えている。

 もうすぐダンジョンの外に出られることに安堵して階段を駆け上った。

 だが外に出て目に飛び込んできたのは、あたり一面に広がる荒涼とした土地だった。全く見覚えはないし、人間軍の陣営も見えない。おそらく砦の裏口、突撃した場所の反対側に出たのだろう。


 引き返そうと思って後ろを振り返ると、五メートル近い巨躯の魔族が突っ立っていた。熊の顔にトナカイのツノを生やし、両手には巨大な斧を持ったそいつは、他の魔族とは明らかに異質な空気をまとっていた。


「貴様、所属はどこだ?見たことない顔をしているな」


 熊頭の魔族は心臓に響くドスの効いた低音で問いかけた。

 俺は頭をフル回転させ、必死に言い訳を考えた。この魔族と相対することだけは避けなくてはいけないと、直観が告げていた。


「報告します!捕らえた人族の一人が突如姿を消したため、現在捜索しております。こちらにも来ていないか、確認に参りました!」

 

 目の前の怪物はこちらをじっと見つめ、鼻をピクリと動かした後、口を開いた。


「そうか、ご苦労だった。ここには怪しい奴は来ていないぞ」


 そこまで言うと熊頭の魔族は口角を上げ、ニタリと笑った。

 鋭い眼光が俺を獲物として捉えたのを感じ、動物としての狩られる側の本能が呼び覚まされた。五感が敏感になっているせいか、冷や汗が首筋に伝う感触が妙に生々しく感じられた。


「…てめえ以外はなァ!!!!」


 そう吐き捨てると、熊頭の魔族は右手の斧を振り上げ、ほとんど溜めることなく即座に振り下ろした。

 斧が空気を切り裂き、鈍い風切り音が鳴った。俺は命の危機を感じ、後ろに飛んで両手に構えた片手剣で攻撃を受け流した。

 だが、掠っただけなのに斧の衝撃波はすさまじく、大きく後方に吹き飛ばされてしまった。


「挨拶が遅れたな…。我が名は『バルドゥル』。魔王軍四天王が一人、『戦斧』の称号を授かった我が力、とくと味わうがいい!!」


 バルドゥルは地響きを立てて一気に斧の間合いまで詰めてきた。まともに戦ってはダメだと警鐘が鳴っている。


 何か、時間稼ぎになるものはないか…!

 道具袋の中を探り、咄嗟に煙幕を張った。煙が立ち込め、バルドゥルが目をくらませているうちにプライドも捨てて逃げ出した。周りに障害物がなかったので、人の領域を超えた速さで存分に疾走することができた。

 バルドゥルは斧で煙幕を散らしながら、「逃すか!」と言って持っていた二丁の斧の片方を投げつけてきた。

 

 普段ならすぐに振り返って迎撃していたはずだ。なのに、この力を過信しすぎたせいだろうか、斧が届く前に逃げ切れると盲信してしまった。

 次の瞬間、斧が左足を捉え、俺はバランスを崩して地面に顔から激突した。

 脳が揺れ、顔面を伝う鈍痛と左足のすねを走る激痛に思考が支配された。


 (なんだ…?何が起きたんだ…!?)


 恐る恐る左足を見ると、左足のすねの半ばより下がなくなっていた。

 後方を見やると、バルドゥルは下劣な笑みを浮かべながら近づいてきていた。


 必死に立ちあがろうとするが、上手く体のバランスが取れず、なかなか体を起こせない。そうこうしている間にもバルドゥルはゆっくりと近づいてくる。


 なんとかして、逃げなくては…‼︎


 俺はやつの目を潰そうと、短剣を投げつけた。空を飛んだ短剣は、簡単に斧によって弾かれてしまった。だが、短剣のすぐ後ろに隠れて飛んでいた二本目の短剣は、狙い通りやつの目に命中した。


「ああああっぐっ!!てめえェ…よくもやってくれたな!!」


 バルドゥルはうめきながらこちらに走り寄り、斧を力一杯振り上げた。

 斧が振り下ろされる前に、俺は身を転がして斧の軌道から離れた。そのまま転がった勢いを利用して立ち上がると、地面に斧を突きつけて、無防備になったやつの首に片手剣を切りつけた。


 片手剣はバルドゥルのぶ厚い毛皮に威力を殺され、剣の中ほどまでしか首に入らなかった。だが、致命傷は与えたはずだ。首からは赤い血しぶきが吹き出し、地面を赤黒く染めていく。

 バルドゥルが膝をついて倒れたのを確認した俺は、攻撃の反動で倒れてしまった体を起こし、再び勢いをつけて片足で走り出した。


 視線の先には砦に来た時には見なかった、未知の景色が広がっている。この先は人間の領土とは真逆、広大な魔族の領土だ。それでも、生き延びるためには前に進むしかなかった。


ーーーーーーーーーー


 どれだけ走ったのだろうか。

 砦から逃走してしばらくすると、あたりの景色は鬱蒼(うっそう)とした森に変わり、勾配の小さい上り坂が見えた。あの坂を登り始めて四半刻(しはんとき)ほどは経っただろうか。

 ふと後ろが気になって振り返ると、砦は遠くに小さく見えた。


 安心して気が抜けたのか、俺は頭から地面にうつぶせに倒れた。

 倒れている場合じゃない。もっと遠くへ逃げなければいけないと思うが、体に力が入らない。

 そういえば、左足を切られた時、無我夢中で止血を忘れていた。きっと大量の血が流れ続けたに違いない。


 今からでも止血をしておこう。そう思って身体を起こそうとするが、ピクリとも動かない。もしかしたら、体はとうに限界を超えていたのかもしれない。

 そんな状態でここまで走ってこられたのは、魔族の体になった恩恵なのか。


 それにしても困った。砦からかろうじて逃れられたのに、道半ばで力尽きるとは。

 

 だんだんと意識も朦朧としてきた。いよいよ死が迫っているのを感じる。

 

 せっかく勇者パーティの一員として頑張ってきたのに、こんなところで、こんな姿でくたばるのか、俺は。

 せめて、最後は人間の姿で死にたかった…。


 いつのまにか空は分厚い雲に覆われて、月明かりは遮られてしまった。にわかに降り始めた雨音を遠くに聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じた。

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