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夜をほどく声  作者: reika1021


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7/10

第7章:優しさの罰

朝の編集室にはいつもより低い音が沈んでおり、窓の外ではすでに東京が動いているのに、株式会社夜凪図の机の上だけがまだ昨夜の静けさを引きずっていた。斜森灯花は椅子に腰を下ろし、バッグから出したノートを開かずに表紙の角に指を置いた。


前日の見直し作業で自分の文章を読まれることが怖いと口にしたが、その言葉は夜を越えても軽くならなかった。むしろ朝になってからの方が輪郭を持って戻ってくる。


久遠千景は、まだ自席で資料を確認していた。声をかけてくるわけではないが、灯花が席に着いたことには気づいているようだった。


灯花は管理画面を開いた。前夜からの投稿は少なく、代わりにアプリ内の短い通知文をまとめて調整する日だった。ひとつひとつは数十字しかないのに、朝から胸の奥が重く、どれも少し遠く感じられた。


東京の夜を届ける言葉は短いほど逃げ場がなく、長い文章なら揺らぎを隠せるけれど、通知文には余計な呼吸を入れる隙間がない。


灯花は最初の文を開いた。終電前におすすめする川沿いの夜景の通知だった。雨でもなく、別れでもなく、削除でもない、平らな案件のはずなのに、指が動き出すまで少し時間がかかった。


昨夜の川沿いで、千景は「必要なところは読む」と言った。「暴かないように」とも言った。その言葉が今朝の灯花には優しすぎた。


優しさは時として扱いに困る。責められた方がまだ反発できるが、こちらが壊れないように置かれた言葉は逃げようとする手首を静かにつかむ。


「今日、通知文の調整から?」


千景の声がいつもより少し控えめに届いた。


灯花が顔を上げると、彼は画面から視線を外してこちらをまっすぐ見すぎない角度で立っていた。見られているのに見つめられてはいない、その調整された距離に灯花はすぐに気づいた。


「はい。夜の時間帯に出す分です」


「量、多い?」


「数は多くないです。ただ、短いので」


「短い方が疲れる日もある」


灯花は小さくうなずいた。彼はそれ以上理由を聞かなかった。昨日の会話を覚えていて、必要以上に詮索しないようにしているのだとわかる。


それが苦しかった。気遣われている、大切にされている、そう感じるほど、仕事の椅子に座っているだけなのに胸の置き場所が分からなくなる。


「見てもらう前に、少し自分で整えます」


「分かった」


千景はすぐに戻ってきた。軽い返事だったけれど、その軽さは灯花を楽にするために選ばれたものだと分かってしまった。


灯花は通知文へ向き直った。夜の川沿いに少し遠回りして帰る理由。悪くない。しかし、「帰る」という言葉が過去の章で何度も自分の胸に戻ってきた気配を連れてくる。


削る。別の言い方にする。夜の川沿いに足を止める、その静けさ。少し硬い。「静けさ」という語尾が宙に浮いている。


灯花は唇を軽く結んだ。今日は言葉が自分の中に潜りすぎる。投稿者でも利用者でもなく、千景の方へ向けられそうになる。


朝の光は強くないのに、モニターの白だけが目立っていた。灯花は画面の明るさを下げなかった。昨日決めた小さな抵抗を、今日も続ける。


通知文を三つ直したところで、共有フォルダに新しい割り振り表が入った。灯花が担当予定だった長めの紹介文二件が千景の担当へ移り、代わりに灯花には短い確認作業が増えた。


灯花はしばらくその表を見つめた。体が軽くなるはずだった。負担が減っている。けれど胸の奥には別の重さが入ってくる。


気づかれている。無理をしていることも、言葉に疲れていることも、昨日からまだ戻りきっていないことも、直接心配するのではなく仕事の形で調整されている。


「割り振り、変えました?」


灯花は顔を上げて聞いた。


千景は一度だけ手を止めたが、隠す気はなさそうだった。


「少し」


「私の分、減っています」


「今日は短い文章の方が向いていると思った」


「向いている、ですか?」


「負担の種類を変えたかった」


灯花は言葉に詰まった。優しさが仕事の言い方に変えられていると、そう分かってしまったのだ。


「それ、私が昨日あんなことを言ったからですか?」


千景はすぐには答えなかった。画面の端に視線を移し、それから灯花を見た。逃げないが、踏み込みもしない目だった。


「昨日のことも、少しある」


灯花の喉が細くなる。嘘をつかれなかったことに安心すると同時に、傷ついた。自分の言葉が彼の仕事の判断を変えてしまったのだ。


「気を遣わせていますか?」


「気を遣うというより、調整しただけ」


「同じじゃないですか?」


灯花の声は思ったより尖っておらず、むしろ弱かった。怒りたいわけではない。ただ、自分が壊れ物のように扱われることが怖かった。


千景は椅子から立たず、距離を保ったまま声だけを置いた。


「灯花を軽く見ているわけじゃない」


「はい」


「でも、疲れているときに重い文を持たせるのは違うと思った」


「それを言ってくれたら良かったです」


言ってから灯花は、胸の奥で後悔した。言ってくれたらと望むのは簡単だ。けれど、言われたら言われたで、きっと「平気です」と返していた。


千景もそれを分かっているのかもしれない。


「言ったら、平気って言うと思った」


灯花は返せなかった。図星だった。画面の中の割り振り表が少しにじんで見える。


「だから、仕事の方を変えた」


それは正しい。たぶん、とても正しい。灯花が無理をして言葉を荒げないようにするための判断だった。


でも、正しい優しさほど逃げ場がない。感謝すればいいのに、胸の中では何かが泣きそうになる。どうしてこんなに見ているのだろう。どうして見ていないふりまで丁寧なのだろう。


「ありがとうございます」


灯花はそう言った。感謝の気持ちを示さなければ、何かがこぼれ落ちそうだった。


千景は小さくうなずいた。


「無理に戻さなくていい」


その一言で灯花はまた苦しくなった。平気な顔に、仕事だけの声に、昨日までの距離に、どれも少しずつ戻りにくくなっていた。


午前の作業では短い文ばかりが続いた。駅前の光、川沿いの静けさ、ビルの窓に残る色。灯花は語尾を整え、同じ言い回しを避け、利用者が開く手前の呼吸を想像した。


千景は必要な確認事項だけを共有画面のコメントで送ってくる。そこに書かれた言葉は短かった。


「ここ、少し休ませる」という語尾で。


この案、灯花のままでいい。


二つ目のコメントを見た瞬間、灯花の指が止まった。「灯花のままでいい」。文章の話だ。分かっている。けれど、その文字列は仕事の画面の中で危うく光っていた。


コメントなら声よりも安全なはずなのに、画面に残る分だけ逃げられない。灯花は、その行を何度も読まないようにすぐ次の作業へ進んだ。


しかし、無理だった。胸の奥で何度も再生される。「灯花のままでいい」と。千景の低い声ではなく、文字としての千景が静かにそこにいる。


昼の気配が近づくころ、灯花は資料棚の前に立った。用があるわけではないが、紙資料の背を見ていると画面から少し離れられる気がした。


窓の外からは車の走る音が薄く届いており、東京は昼の明るさに慣れている。夜の仕事をしている灯花だけが少し違う時間にいるようだった。


「少し外す?」


千景が声をかけた。


灯花が棚の前で振り返ると、彼は席を立っていなかった。立たないことが今日の彼の気遣いなのだと灯花は理解した。近づかない優しさ、言葉だけで様子を見る優しさ。


「外しません」


「うん」


「逃げているみたいなので」


「逃げてもいいと思うけど」


「今日は逃げたら戻れなくなりそうです」


千景は黙った。灯花は、自分の言葉が仕事の範囲を少し越えたことに気づいたが、もう引き返せなかった。


「戻れなくても、そこで止まればいい」


千景は静かに言った。


「無理に元の場所へ戻らなくてもいい」


灯花は胸の中でその言葉を受け止めた。元の場所、先輩と後輩、文章を見る人と見られる人、仕事の助言を仕事の助言としてだけ聞けていた頃。


本当に、そこへ戻らなくてもいいのだろうか。戻らない先にあるものを、まだ誰も言葉にしていないからこそ、怖いのだ。


「千景さんは、そうやってすぐ逃げ道を作りますね」


灯花は少しだけ笑うように言った。


「逃げ道がないと、言葉が詰まるから」


「私の逃げ道ばかり作っていないですか?」


「そう見える?」


灯花が頷くと、千景はしばらく考えるように机の上の資料に視線を落とした。


「自分の逃げ道でもあると思う」


灯花は言葉を失った。千景が自分のことを少しだけ明かしたのだ。それは小さなことのはずなのに、灯花には部屋の空気が変わるほど大きく感じられた。


「千景さんの?」


「うん」


「どういう意味ですか?」


聞いてしまった。聞きたいと思った。今度は仕事の話に戻すためではなく、彼の言葉の奥を少しだけ知りたかった。


千景はすぐに答えなかった。沈黙が訪れる。その沈黙は拒絶ではなく、言っていい場所を探している時間だった。


「踏み込みすぎない理由を仕事にしているところがある」


灯花は息を止めた。千景の声は静かだったが、その静けさの奥にはいつもより生身の温度があった。


「仕事なら、距離を測れるから」


灯花は棚に置いた指先を動かせなかった。千景もまた仕事の言葉に隠れている。自分だけではなかった。


「それは、優しさですか?」


「そう見えるなら、そうかもしれない」


「千景さん自身には?」


彼は少しだけ目を伏せた。


「臆病さでもあると思う」


灯花の胸が静かに痛んだ。彼が自分をそんな風に言うことが少し嫌だったけれど、否定できるほど彼の奥を知っているわけでもない。


「臆病な人は、そんなに丁寧に読めないと思います」


灯花は言った。声は小さかったが、逃げなかった。


千景は灯花を見た。今度はきちんと視線が合った。短い時間だったが、灯花はその間に言ってしまった言葉の重みを感じた。


「ありがとう」


千景はそれだけ言った。


その返事が灯花には苦しかった。もっと軽く流してくれたらよかったのに、彼は受け取ったまま余計なことを付け加えなかった。


昼を過ぎても灯花の胸は落ち着かなかったが、不思議と仕事は進んだ。揺れているからこそ、短い文が澄むこともある。余計な飾りを入れる余裕がない分、言葉が細くまっすぐになるのだ。


灯花は通知文をひとつ保存した。


今日を終えたあとで、少しだけ眺めたい窓明かりがあります。


千景からコメントが入る。「語尾、このままで」。灯花はその短さに救われた。彼は必要なところだけを読むと言った。その約束通り、今日は必要以上に灯花の奥へ入ってこない。


けれど、入ってこないことが寂しい。矛盾している。灯花は自分の感情に呆れながら次の作業へ進んだ。


午後の光が鈍くなったころ、共有フォルダに締め切り変更の通知が入った。明日までだったはずのまとめ作業が今日中の確認に前倒しされている。灯花は画面を見て一瞬だけ肩の力を入れた。


短い文で一日を終えられるはずだった。千景が負担を減らしてくれたはずだった。けれど、仕事はそんな配慮とは別の場所から急に降ってくる。


「前倒し、来ましたね」


灯花が言うと、千景も画面を見た。


「来たね」


「私、やります」


反射的に、平気な顔で言った。いつもの癖だった。


千景はすぐに返事をしなかった。その沈黙によって、灯花は自分がまた無理をしようとしていることに気づいた。しかし、言葉を取り消す間もなく、千景が口を開いた。


「半分こにしよう」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃなくても、半分こにする」


灯花は驚いて彼を見た。千景の声は強くないが、いつものように余地を広く残す言い方ではなかった。


「今日だけは、灯花に全部持たせない」


胸の奥に熱いものが落ちた。直接心配されたわけではないが、これ以上なく心配されていた。仕事の言葉の形で、はっきりと。


灯花は何かを返そうとしたが、うまく言葉にできなかった。感謝か、反発か、情けなさか、そのどれもが混ざって喉の近くで止まる。


「……分かりました」


やっとそれだけ言った。


千景は頷き、作業を分けた。灯花は確認と語尾の調整、千景は長めの再構成と最終チェック。負担がきれいに半分になっているわけではないことは灯花にも分かった。


彼の方が負担は重いけれど、灯花が抗議しにくい形で仕事は組まれている。優しさが仕事の段取りとして整えられているのだ。


ずるい、と思った。救われるほど、ずるいと思う。


午後の終わりは言葉よりも作業音の時間が長くなった。キーボードを打つ音、ファイルを開く音、紙をめくる音。会話は少なく、必要な確認だけが短く交わされた。


灯花は何度も千景の画面を見そうになり、そのたびに自分の文章に戻った。彼がどれだけ肩代わりしているのかを確かめたくなかった。確かめたら感謝では済まなくなる気がした。


でも、分かってしまう。共有画面の更新時刻、千景の手が止まる間隔、いつもより飲み物に手を伸ばさないこと。彼も疲れている。


それなのに灯花に何も言わせないように作業を組み、心配させないための優しさまで仕事に隠す。


「千景さん」


灯花は作業の合間に声をかけた。


「うん」


「私、半分より少なくないですか?」


「そう?」


「そうです」


「気のせいかも」


「嘘が下手ですね」


と言ってから、灯花は自分の声に少しだけ笑いが混ざっていることに気づいた。責めたいわけではなかったが、黙って受け取るには優しさが重すぎた。


千景もほんの少し表情を緩めた。


「下手か」


「下手です」


「じゃあ、あと一件渡す」


「一件だけですか?」


「今の灯花には一件だけ」


灯花は画面に視線を落とした。今の灯花には、というその言い方があまりにも丁寧で胸が詰まった。


「そういうところです」


「どこ?」


「苦しくなるところです」


言ってしまった。午後の編集室の空気が一瞬止まったように感じられ、灯花はすぐに続きを探した。


「助かるんです。でも、苦しくなります」


千景はキーボードから手を離し、画面の光が彼の指の上で止まっている。


「ごめん」


謝られると、もっと苦しくなるので、灯花は首を横に振った。


「謝ってほしいわけじゃないです」


「うん」


「でも、何も言わないで優しくされると、私が勝手に意味を探してしまうので」


言葉が出てから、灯花は自分で息を飲んだ。そこまで言うつもりはなかったが、もう戻せない。


千景はしばらく黙っていた。逃げない沈黙だった。逃げないから、灯花も逃げられない。


「意味を探させてるなら、俺が悪い」


「違います」


灯花はすぐに言った。


「私が、探してしまうんです」


千景は灯花を見た。まっすぐではないが、そらしてもいない。仕事場の照明が彼の目元に薄い影を作っていた。


「探してもいいと思う」


その答えは予想していなかった。


「でも、答えを急がなくていい」


灯花は黙った。答え、何の答えかは彼は言わなかったし、灯花も聞かなかった。聞いたら午後の仕事が続けられなくなるからだ。


「今は作業を終わらせよう」


千景が静かに言った。


「はい」


灯花はうなずいた。その切り替え方にまた救われた。話を終わらせたのではなく、夜まで壊さずに持っていくために一度しまったのだとわかった。


夕方の手前で前倒し分の作業がようやく形になった。灯花の担当分は少なくないが、それでも千景が引き受けた分の重さを思うと胸の奥が落ち着かなかった。


共有フォルダに最終版が保存され、画面には更新完了の短い表示だけが出た。今日も言葉はいくつも整えられ、誰かの夜へ送り出される準備が整った。


灯花は、背もたれに体を預けずに机の上の紙を揃えた。力を抜くと、今日言ったことが全部戻ってきそうで苦しくなる。意味を探してしまう。探してもいい。答えを急がなくていい。


仕事の会話の中に、それらは紛れていない。はっきりと残っている。けれど、どれも決定的ではない。


夜の色が窓の外で深まり始めたころ、灯花の端末に作業完了の通知が届いた。送信元は共有システムだったが、最後に千景の確認コメントが付いていた。


「今日の分、これで閉じます。無理に見直さなくていい」


灯花はその文を見つめた。無理に見直さなくていい、という文面は事務的だが、そこには彼の配慮が感じられた。灯花が何度も読み返して疲れることを、彼は先に止めていたのだ。


まただ。助かる。また苦しい。


灯花は椅子から立ち上がり、窓の近くではなく編集室の奥にある小さな打ち合わせ机に向かった。今日は外へ逃げない。画面からも千景からも完全には逃げたくない。


千景も作業を終えたらしく資料を閉じ、紙の音が静かに響いた。部屋の中に夜の前の浅い沈黙が落ちた。


「今日はありがとうございました」


灯花は自分から言った。


千景は顔を上げた。


「こちらこそ」


「半分こって言いながら、千景さんのほうが多かったです」


「少しだけ」


「少しではないです」


「じゃあ、次はもう少し上手に分ける」


灯花は、その言い方に胸が少し緩んだ。次という言葉がある。今日で終わらないことを彼は当たり前のように言う。


「次もあるんですね」


「仕事だから」


千景はそう言った。いつもの逃げ道。けれど今日は、それでよかった。仕事だから続く。仕事だから明日も同じ編集室に来られる。


「便利ですね」


灯花が言うと、千景は小さくうなずいた。


「便利だね」


その言葉には前より少しだけ苦みが混ざっていた。互いに気づいているのに気づいていないふりをするための言葉。けれど、そのふりをするのも今はまだ必要だった。


外は完全に夜に沈んでいた。編集室の窓には、机の明かりと灯花の輪郭が淡く映っていた。今日は最後まで部屋に残るのではなく、まだ街の音が響くうちに外に出ることにした。


エレベーターの中は静かだった。狭い箱の中で灯花は扉の数字を見ており、千景は少し後ろに立っていた。会話をしようと思えばできる距離だったが、互いに何も言わなかった。


一階に着くまでの短い時間に、昼の会話が何度も頭の中をよぎる。意味を探してしまう。探してもいい。答えを急がなくていい。


扉が開くと、ビルの入口から夜の空気が流れ込んできた。外の音が一気に近づく。車道のざらついた響き、店先から漏れる温かい匂い、靴音の重なり。


千景は入口のガラス扉を押さえた。灯花が先に出る。触れない。何も特別なことはない。けれど、その何もなさが今日は一番優しく見えた。


「駅まで、人が多いと思う」


千景が言った。


「はい」


「気を付けて」


直接的な心配ではないが、今日の灯花にはその短い言葉で十分だった。


「千景さんも」


灯花は答えた。そこで別れてもよかったが、少しの間だけビルの前に立ち、流れる人の影を眺めた。


東京の夜は今日も誰かを急がせている。信号の色、店の明かり、駅へ向かう足音。けれど灯花の中だけはやや速度が落ちていた。


「千景さん」


灯花が呼んだ。


「うん」


「今日、苦しいって言ってしまってすみませんでした」


千景は首を振った。


「言ってくれてよかった」


同じような言葉を前にも聞いたが、今日は少し違っていた。灯花は胸の中でその違いを丁寧に受け止めた。


「助かったのも、本当です」


「うん」


「それも、言っておきたかったです」


千景はすぐには返さなかった。夜の入口で彼の沈黙は、長くなりすぎず短くもならなかった。


「俺も、聞けてよかった」


その一言だけで灯花は、もう何も言えなくなった。十分だった。十分すぎた。


駅へ向かう灯花の足元には乾いた舗装の細かな凹凸があった。雨上がりでもなく、川沿いでもなく、歩道橋でもない。今日の夜はただ人の多い東京の入口で言葉にしない優しさの重さを抱えたまま始まっていた。


灯花は振り返らなかったが、背中の奥にはしばらく千景の気配が残った。灯花はそれを消そうとはしなかった。


優しさはときどき、恋よりも先に胸を乱す。名前をつけたら壊れそうなものが、仕事の言葉と夜の光の間で静かに息をしている。灯花は、その息遣いを抱えたまま駅に向かう人の流れに混ざった。

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