第6章:読まれる怖さ
朝の東京は薄い雲を一枚かけたまま、明るくなっていた。株式会社夜凪図の編集室には窓から入る光よりも先に、空調の乾いた息が静かに広がっていた。斜森灯花は机に置かれた昨日のノートを開き、紙に残った小さなへこみを指先でなぞった。
昨夜、別の川へ置いてきたはずの重さは完全には離れていなかったが、胸の奥で形を変えていた。消された投稿のことではなく、千景が言った「見つけるのと暴くのは違う」という言葉が胸の奥に残っていた。
灯花はモニターを立ち上げる前に深く息をした。今日の仕事は前夜に投稿された文章の確認ではなく、過去に公開された紹介文の見直しだった。夜凪図では、保存率や削除率だけでなく、言葉の温度が今のアプリに合っているかを時々洗い直す。
一覧には灯花が入社してから書いた文章も混じっていた。自分の文章が時間を置いて並ぶのは少し恥ずかしい。過去の自分が画面の向こうでぎこちなく立っているように見える。
最初の方の文章は今よりも少し明るかった。灯花には、夜景を励ましに変えようとしていた、傷を傷のまま置くことが怖くてきれいな布で早く覆おうとしていた頃の文章だということが分かった。
ファイル名の横に千景の修正履歴が残っているものがあり、彼が直した箇所は少なかったが、その少なさの中に灯花の文章を壊さないための慎重さが見えた。
語尾をひとつだけ削った文、明るすぎる単語を少し湿度のある言葉に替えた文、句読点の位置だけ変えて息の落ちる場所を整えた文など。
灯花はそれを見て胸の奥が静かに固まった。久遠千景は自分の文章を丁寧に読んでいる。今さら気づいたわけではないのに、履歴として並ぶと逃げ場がない。
「過去分、見てる?」
千景の声が机を挟んだ向こうから届いた。
灯花は顔を上げた。今日は彼との距離がいつもより離れている。その距離がありがたいはずなのに、画面に残る修正履歴のせいでかえって近く感じられる。
「はい、見直し対象の一覧です」
「大変そうだね」
「自分の昔の文章を見るのが少し」
灯花はそこで言葉を切った。恥ずかしいとは言いたくなかったが、言わなくても千景には伝わる気がして、それもまた恥ずかしかった。
「昔の文章は読みにくいよね」
「千景さんもですか?」
「あるよ。消したくなる」
灯花は少しだけ意外だった。千景にも消したくなる文章があるという事実が朝の空気を少し人間らしくした。
「千景さんの文章でも?」
「自分の文章だから」
その言い方に灯花は小さくうなずいた。自分の文だから苦しい。人に読まれるより自分で見返すほうが傷つくこともある。
千景はそれ以上何も言わず、自席の画面に戻った。灯花はもう一度、修正履歴を見た。彼の言葉は少ないのに、そこには読み込まれた痕跡があった。
特別に読まれている、そう思った瞬間、嬉しさよりも先に怖さを感じた。仕事として読まれているだけだと分かっているのに、自分の奥底にあるものまで見透かされているような気がした。
灯花は最初の見直し文を開いた。駅裏の古い階段を写した写真につけた紹介文だった。かつての自分はそこに「疲れた夜に優しく寄り添う階段です」と書いていた。
「優しく寄り添う」は、今なら選ばない表現だ。場所に人格を与えすぎているし、読む人の疲れを決めつけすぎている。灯花は、その文にカーソルを置いたまま、しばらく動けなかった。
書き直すならどうするだろう。階段はただ階段でいい。そこへ座った人や通り過ぎた人や止まれなかった人がそれぞれ自分の夜を持ち寄る。
灯花は新しい文を打った。
「駅の裏手に、急がないための段差があります。
悪くない気がした。けれど、少し整いすぎている。急がないため、という意味が強すぎる。
灯花は文章を眺めたまま、千景の修正履歴を思い出す。彼ならどこを削るだろう、どこを残すだろう、と。そう考えた自分に気づき、手を止めた。
自分の文章なのに、千景の目を先に想像している。読まれる前から読まれ方を気にしている。それは成長なのか依存なのか、灯花には分からなかった。
「迷ってる?」
千景の声がして、灯花は反射的に画面を少し手前に引いた。隠すほどのものではないが、見られる前に守ろうとする動きだった。
千景はそのしぐさを見たはずだが、何も言わなかった。
「少しだけです」
「見ない方がいい?」
その聞き方がまた灯花を困らせた。見ないで、と言えば彼は本当に見ない。けれど、見てもらえないと自分の文章がどこへいけばいいのか分からなくなる。
「見てほしいです」
声に出してから、灯花は胸のあたりが熱くなるのを感じた。これは文章の話だ。今は文章の話だと自分に言い聞かせる。
千景はゆっくり立ち上がり、画面の前へ来たが、すぐには読まず、灯花が文章を見せる姿勢を作るまで少し待った。
「お願いします」
灯花が言うと、千景はうなずいて文を読んだ。「駅の裏手に、急がないための段差があります」。彼の視線が文字の上をゆっくり移る。
「前の文より場所に近い」
「でも、意味が強いですよね」
「うん。急がないための段差が、少し灯花の願いになってる」
灯花は息を止めた。願い。自分では狙いだと思っていたものを、千景は願いと言った。
「願いに見えますか?」
「見える」
「それは、よくないですか?」
「よくないわけじゃない。でも、今の写真に残すなら、少しだけ薄めた方がいい」
灯花はうなずいた。千景の指摘はいつも、灯花が隠しているものの名前を言う。だから助かるのに、怖い。
「駅の裏手に、少し立ち止まれる段差があります」
灯花は打ち直した。急がないため、より弱い、場所に近い。
千景は文を読み、小さくうなずいた。
「こっちの方がいいと思う」
「はい」
「前の灯花の文章も悪くはなかったけど」
灯花は思わず彼を見たが、千景は画面を見たまま続けた。
「今の方が場所を信じてる」
場所を信じている。灯花はその言葉を胸に受け止めた。人を救おうとする文章ではなく、場所そのものが持つ静けさを信じる文章。
「昔の私は信じていなかったんでしょうか?」
「信じたいけど、心配だったんだと思う」
千景の言い方に灯花は少し笑いそうになった。どうして彼は過去の自分にまで、こんなにも優しく触れるのだろう。
「千景さんにそう言われると、昔の文まで助かります」
と言ってから、灯花はまた近すぎたと感じたが、今日はすぐに取り消す気にはなれなかった。
千景は短く息を置いた。
「助けたつもりはないけど」
「はい」
「でも、そう聞こえたなら、よかった」
灯花は画面に視線を戻した。「よかった」という言葉が朝の編集室の中で静かに温度を持つ。恋愛の言葉ではないが、心は仕事の引き出しにしまうには少し大きくなっていた。
午前の作業は、過去の灯花と今の灯花が交互に現れるように進んだ。商店街の灯り、ビル裏の外階段、始発前の駅前広場。どの写真にも当時の自分が何を怖がっていたのかが、少しずつ写っている。
千景の修正履歴は多すぎず、必要な場所だけに残っていた。その少なさがかえって丁寧だった。
灯花は、ある文で手を止めた。細い路地の写真に「自分は、誰にも見つからない夜に逃げられる場所です」と書いていた。千景は、そこを「誰にも急かされない夜の奥にあります」へ直していた。
「見つからない」を「急かされない」に変え、「逃げる」を「夜の奥にある」へずらしている。否定ではなく、灯花の怖さを少し外側へ置く修正だった。
読まれている、そう思った。文章だけではない。書いたときの灯花がどこに逃げようとしていたかまで、千景は読んでいる気がした。
怖い。嬉しいという気持ちよりも先に、怖いという感情が湧き上がった。こんな風に自分のことを見られたら、隠しているつもりの感情も、いつか文の端からにじみ出てしまう。
灯花は椅子を少し引いた。脚が床を擦って小さな音が出た。千景が顔を上げた。
「休む?」
「はい、少し」
「うん」
彼はそれ以上聞かなかった。問い詰めない、追わない、そのことに灯花は安心する。しかし同時に、追われたい気持ちも自分の中にあることに気づいてしまう。
灯花は窓際へ行かずに、編集室の奥にある紙資料の棚の前に立ち止まった。古いファイルの背表紙が並び、紙とほこりの匂いが薄く漂っている。
過去の文章は紙にすると少しだけ他人事になるが、管理画面で見ると今の自分のすぐ隣に立つ。灯花は棚の角に指を置き、冷たい金属の感触で呼吸を整えた。
特別に読まれることはうれしい、そこまでは認められる。けれど特別に読まれた先で自分が何を望んでいるのか、それまでは認めたくなかった。
私の文章じゃなくて、私を見てほしい。
その核心が胸の奥で言葉になった。灯花はすぐに目を閉じた。そんなことを願っている自分をどう扱えばいいのか分からなかった。
「灯花」
千景の声がした。
灯花は振り返った。彼は近づきすぎず通路の入口に立っていて、棚と棚の間の光は少なく、彼の輪郭だけが少し暗く見えた。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
と言ってから、灯花は苦笑した。
「また、本当の意味での『大丈夫』ではないかもしれません」
千景はすぐには笑わなかった。
「じゃあ、本当じゃない方として受け取る」
灯花はその答えに胸が少しほどけた。大丈夫ではないと言い切るほどではないが、完全に平気というわけでもない。彼はその中間を無理に正そうとはしなかった。
「過去の文章を見ていたら、少し疲れました」
「昔の自分は、他人より厳しく見えるから」
「千景さんの修正も見ました」
「うん」
「すごく丁寧でした」
千景は少しだけ視線を落とした。褒められ慣れていないわけではないのだろう。しかし、灯花が自分の文章について話したため、彼も受け取り方に少し迷っているように見えた。
「丁寧に読むしかなかったから」
「どうしてですか?」
「灯花の文章は、雑に修正すると消えすぎてしまう」
灯花は言葉を失った。棚の奥の薄暗さが急に深くなり、彼は「消えすぎる」と言った。
「私の文、そんなに弱いですか?」
「弱いとは違う」
千景は静かに首を振った。
「余計なところを削ると、必要な迷いまで一緒に消える」
灯花は胸の奥を押さえたくなった。必要な迷い。自分が恥ずかしがって消したがるものを、千景は必要だと言う。
「千景さんは」
灯花はそこで言葉を止めた。聞きたいことが、仕事の形をしていなかった。
「うん」
「私の迷いまで読んでるんですか?」
声は小さく出て、棚の間の空気に少しだけ吸われていった。
千景は答えるまでに少し間を置いた。その沈黙が灯花には答えの一部のように感じられた。
「読もうとしているわけじゃない」
「はい」
「でも、文に残っていたら、見えることはある」
灯花はうなずいた。見えることはある、そう言われると隠せない自分が少し怖くなる。
「嫌なら、見ないようにする」
千景が言った。
灯花は顔を上げた。彼は真面目な顔をしていた。仕事の範囲を超えないようにするために、彼は本当に見ないようにできる人なのだと思った。
それが灯花には痛かった。見ないでほしいわけではないが、全部見られるのは怖い。その矛盾をどう言えばいいのだろう。
「嫌ではないです」
灯花はゆっくりと言った。
「ただ、怖いだけです」
千景はその言葉を受け取り、すぐに慰めたり、「怖くないよ」と言ったりはしなかった。その沈黙が灯花の怖さをそのまま受け止めてくれる。
「怖いなら、怖いままでいいと思う」
「いいんですか?」
「うん。急に平気になるほうが不自然だから」
灯花は息を吐いた。棚の上に積まれた紙箱から古い紙の匂いが漂ってきた。東京の夜景を扱う会社なのに、今この場所だけが夜から遠く離れていて、まるで紙の時間の中にいるようだった。
「戻りましょうか?」
灯花が言うと、千景はうなずいた。
「うん」
席に戻ると、モニターの白が少しまぶしく感じた。灯花は画面の明るさを下げずにそのまま次の文章を開いた。今日は、逃げるように暗くしないことを小さな抵抗にした。
昼に近づくころ、見直し対象の半分が終わった。灯花は食事を取りに出る代わりに、持参した小さな包みを机の上で開けた。冷えたご飯の匂いと海苔の少し湿った香りが作業の緊張を和らげた。
千景は少し離れた席で資料を読みながら、温かい飲み物を口にしていた。湯気が一瞬だけ彼の顔の前を横切る。その薄さに灯花はなぜか目を留めた。
見られるのが怖いと言ったばかりなのに、自分は千景を見ている。彼の指の動き、文字を読むときの目の置き方、飲み物を置く音まで拾っている。人を特別に意識してしまうのは、自分と同じなのかもしれない。
灯花は包みを閉じた。食欲はあるようであまりないが、何も食べないと午後の仕事がはかどらないので、少しずつ食べる。
「ちゃんと食べてる?」
千景が聞いた。
「見てないようで見てますね」
「今のは見えた」
「食べています。一応」
「一応だと、あとで集中が切れる」
「千景さんは、先輩というより管理画面みたいですね」
灯花がそう言ってから少し笑うと、千景もほんのわずかに口元を緩めた。
「通知を出した方がいい?」
「食事を完了してください、みたいな?」
「灯花なら、もっと柔らかく書くと思う」
それは軽い会話だったが、その中にも千景が灯花の文章を前提にしていることが感じられた。灯花は笑ったまま、少しだけ胸が痛くなった。
「そうやって、すぐ文章の話に戻しますよね」
「仕事中だから」
「便利ですね」
「便利だね」
同じ言葉を以前にも交わした気がした。けれど今日は、意味が少し違う。仕事の話に戻ることは、逃げでもあり、自分を守る方法でもある。
午後の光は雲に隠れて少し弱くなり、編集室の中ではモニターの輪郭だけがくっきりと浮かび上がっていた。灯花は過去の紹介文を修正しながら、自分自身の変化を少しずつ感じ始めた。
昔の文章は読む人を安心させようとしすぎているが、今の文章は痛みや迷いをそのまま表現しようとしている。どちらが正しいというよりも、灯花自身が夜に対して少しずつ焦らなくなっているのだ。
その変化のそばには千景の修正があった。直接教えられたわけではないが、一文ずつ余計な明るさを落として、残した方がよい暗さを教えてもらってきた。
それを嬉しいと思う反面、彼の影響を受けている自分を認めるのは怖い。もしこの気持ちが仕事だけではないなら、文章まで彼の方を向いてしまう気がする。
灯花は次の文を開いた。夜の公園のベンチに添えた古い紹介文だった。「誰かを待つ時間にも、やわらかな明かりがあります」。
今なら少し甘く感じる。待つという言葉に自分の感情が混ざりそうで、避けたくなる。灯花は新しい案を考えた。
「誰かを待つ形のまま、ベンチに夜が腰かけています」。
打ってから変だと思ったが、嫌いではない。夜が腰かけるというイメージは少し童話めいているが、写真の静けさには合っているかもしれない。
「それ、残していいと思う」
千景が言った。
灯花は驚いて顔を上げた。
「まだ見せてないです」
「遠くから少し見えた」
「見ないようにするって言ったのに」
「今のは見えてしまった」
灯花は責めるつもりで言ったわけではないが、千景は少し申し訳なさそうに見えた。その表情に灯花は慌てた。
「嫌ではないです」
「うん」
「ただ、見られる前の文って、服を着る前みたいで」
と言ってから、灯花の顔は熱くなった。たとえとして近すぎる。千景も一瞬、言葉を選ぶように黙った。
「じゃあ、今のは見なかったことにする」
「見なかったことに、できますか?」
「努力はする」
その答えが少しおかしくて、灯花は息を漏らした。重くなりすぎた空気が、ほんの少しだけほぐれる。
「でも、残していいと思ったのは本当」
千景は静かに続けた。
「灯花の文章としては、少し新しい感じがした」
新しい。灯花はその言葉に胸を掴まれた。自分が変わっていくことは怖い。けれど、千景にそう言われると、その変化を否定したくなくなる。
「新しいのがいいことなのか、分かりません」
「分からないままでも、書いていい」
「千景さんはいつも分からないままを許しますね」
「分かったふりをするより、たぶん強いから」
灯花はその言葉を静かに受け止めた。分からないまま、好きだと言えないまま、見てほしいのか隠したいのかも定まらないまま、それでも今日を進めていい。
午後の後半、灯花の手は少しだけ軽くなった。すべてがうまく書けるわけではない。むしろ迷いは増えている。けれど、迷いをすぐに削らなくてもいいと分かっただけで文の呼吸が変わった。
千景は灯花の文章を前よりも少し黙って読んだ。指摘は少ないが、一箇所だけ、語尾を変えるときの沈黙が以前よりも長く感じられた。
灯花が怖いと言ったからだろうか。彼は、読んでいることを前より慎重に扱っている。そう気づくと、灯花はまた苦しくなった。
自分の一言で千景の読み方まで変えさせてしまったのだ。恋らしきものを抱えた途端、仕事の机まで狭くなる。先輩としての彼に余計な気遣いをさせている。
「千景さん」
灯花が声をかけた。
「うん」
「さっき、見ないようにすると言いましたよね」
「言った」
「でも、仕事では見てください」
言いながら胸が少し震えた。「見てください」という言葉が、今日二度目にして別の重みを持つ。
千景は画面から目を上げたが、灯花は視線をそらさなかった。
「私が怖いと言ったせいで、読みにくくなるのは嫌です」
「読みにくくはなってない」
「本当ですか?」
「本当」
短く答えた後、千景は少しだけ言葉を探した。
「ただ、どこまで読んだかを伝えるかどうかは、考えるようになった」
灯花は、胸の奥が静かに痛むのを感じた。彼は読んでいる。けれど、伝え方を選んでいる。それは、優しさであり、距離でもある。
「全部言わなくていいです」
「うん」
「でも、必要なところは言ってください」
「分かりました」
灯花は小さくうなずいた。会話は短いが、その短さの中で何かが整った気がした。それは、踏み込まないための約束ではなく、仕事を壊さないための距離だった。
夕方の色が窓の向こうで薄く沈み始め、雲の底に都市の明かりが反射して外の空は灰色と薄紫の間で止まっていた。編集室の中では画面の白が少し冷たくなった。
灯花は最後の見直し対象を開いた。かつて自分が書いた展望通路の紹介文だった。「遠くまで見える夜景が、明日へ向かう背中を押してくれます」。
灯花は、読んだ瞬間、この文章を消したくなった。どこかで見たような「背中を押す」「明日へ向かう」という言葉。夜凪図の仕事に慣れていない自分が、読む人を早く前へ進ませようとしている。
灯花は新しく打ち直した。
「遠くまで見える夜ほど、今いる場所の静けさが濃くなります」
読み返して少し手が止まった。前へ押さない。明日へ急がせない。ただ、今いる場所を濃くする。それは今の自分に近い。
「確認お願いします」
灯花は言った。
千景が横へ来る。今日の朝よりも灯花は、その時間を怖がっていなかった。怖さが消えたわけではないが、怖いまま見てもらうことに少しだけ慣れたのだ。
千景は文を読み、しばらく黙った。
「いいね」
「直すところは?」
「少しだけ」
彼は画面の語尾を見た。
「『濃くなります』より『より濃く見えます』の方が灯花らしいかもしれない。断定しすぎないから」
灯花はその指摘に息をのんだ。灯花らしい、と。そんな言い方をされると、どこまで読まれているのか分からなくなる。
けれど今日は、逃げなかった。
「灯花らしいって、どういう感じですか?」
千景は少しだけ驚いたように見えた。聞き返されると思っていなかったのかもしれない。
「決めつける前に、少し手前で止まる感じ」
「弱いですか?」
「弱くない」
千景はすぐに答えた。
「読む人の場所を残している」
灯花はその言葉をゆっくり飲み込んだ。読む人の場所を残している。自分の迷いだと思っていたものが、誰かの余地になることもあるのだ。
「それは、仕事としていいことですか?」
「いいことだと思う」
「人としては?」
聞くつもりはなかったが、言葉が口から出たあとで灯花の胸が強く鳴った。人として、と。仕事の話から少しはみ出した。
千景はすぐに答えなかった。窓の外の色が彼の横顔に静かに映っている。
「俺は、いいと思う」
声は低く、けれどはっきりしていた。
灯花は目を伏せた。胸が熱くなる。褒められたのは性格なのか文章なのか分からないまま、息が少し苦しくなった。
「ありがとうございます」
それだけを返した。今はそれ以上言えない。言わないことで保てる距離がある。
夜へ向かう前の編集室は少しずつ輪郭を失っていき、外の明るさは引いて室内の灯りが机の角を柔らかく照らした。灯花は最後の修正を保存して見直し作業の完了ボタンを押した。
今日、灯花の文章は何度も読まれた。過去の文章も、今の文章も、言葉になる前の迷いも、すべてではないけれど必要な部分だけ、千景の視線が通っていった。
怖かった。けれど嫌ではなかった。むしろ嫌ではないことが一番怖かった。
「終わった?」
千景が聞いた。
「はい、今日の分は」
「お疲れさま」
「千景さんも、たくさん読ませてしまいました」
「それが仕事だから」
「便利ですね、仕事って」
灯花は少しだけ笑った。千景も静かに目を細めた。
「便利だね」
「隠すにも、渡すにも」
灯花がそう続けると、千景は少しだけ沈黙した。それは以前彼が言った言葉で、灯花がそれを覚えていたことに気づいたはずだった。
「覚えてたんだ」
「仕事の話なので」
また同じ言い訳をしたが、今日は完全には隠れないことを灯花自身も知っていた。
「うん」
千景はそう答えた。
「仕事の話」
その一言に灯花は少し救われ、少し苦しくなった。仕事の話にしておくために彼も言葉を整えているが、その整え方が優しいため余計にほどけそうになる。
夜の時間は窓の外からではなく、編集室の奥から深まっていった。不要な画面が閉じられ、紙資料が棚に戻され、机の上に残るものが少なくなっていく。灯花はすぐにバッグを持たず、今日直した文章の一覧をもう一度見た。
過去の文と今の文が並んでいる。どちらも自分のものだった。未熟な文も迷った文も千景に直された文も、消えずにここまで来ている。
「灯花」
千景の声がした。
「はい」
「今日の最後の文、よかった」
「展望通路のですか?」
「うん」
灯花は画面を見た。遠くまで見える夜ほど、今いる場所の静けさが際立って見える。千景の指摘で語尾を変えた文。
「千景さんの修正が入ったので」
「でも、最初にそこへ行ったのは灯花だから」
その言い方に灯花は、もう何度も胸を揺さぶられている。自分の言葉を自分のものとして返してくれる。千景はいつもそういう風に触れてくる。
「そう言われると、逃げられないです」
「逃げたい?」
灯花はすぐに答えなかった。逃げたい。けれど、読まれたい。隠したいけれど、見つけてほしい。
「少しだけ」
と正直に言うと、千景は頷いた。
「じゃあ、少しだけでいいと思う」
灯花は笑いそうになった。そんな答えがあるのかと思ったが、今の灯花にはそれが一番自然に届いた。
外はもう夜だった。帰り道を描く代わりに、灯花は編集室に残って消灯前の時間を過ごした。千景は先に共有フォルダの整理をし、灯花は紙資料の棚を整えた。静かな作業が会話よりも長く続いた。
蛍光灯が消えると、部屋の隅に薄い影ができた。窓には東京の夜景ではなく、編集室の中の灯花と千景がぼんやりと映っていた。灯花は、その反射を長く見ないようにした。
「先に出る?」
千景が聞いた。
「一緒に消灯確認します」
「うん」
「一緒に」という言葉を自分が選んだことに灯花は後から気づいた。仕事の流れとして自然だ。けれど自然な言葉ほど胸に残ることがある。
机の下を確認し、窓際の電源を見て、入口近くの小さな照明だけを残す。夜凪図の編集室は昼よりもずっと小さく感じられた。東京の夜を扱う場所なのに、夜になるとその場所自体がひっそりと息を潜める。
「今日、怖いって言って良かったです」
灯花が入口の手前で言った。自分でもなぜ今言ったのか分からなかったが、夜の編集室には少しだけ本当のことを言える空気があった。
千景は手を止めた。
「言ってくれてよかった」
その返事は短かったが、灯花の胸には長く響いた。
「読まれるのはまだ怖いです」
「うん」
「でも、読まれない方がもっと怖いかもしれません」
言い終えた後、灯花は千景を見なかった。見たら、今の言葉がどこまで届いたか分かってしまう気がした。
千景もすぐには答えなかった。静かな間があった。空調が止まり、部屋の音が一段と薄くなった。
「必要なところは読む」
千景はそう言った。
「暴かないように」
灯花はゆっくりとうなずいた。見つけることと暴くことは違う。昨夜の川沿いの言葉がここでまたよみがえる。
「お願いします」
その一言は仕事のお願いにも、もっと別の願いにも聞こえたが、灯花はどちらにも決めなかった。
千景が最後の照明を落とすと、編集室は暗くなり、廊下の光だけが扉の隙間から差し込んだ。窓の外には東京の夜景が広がり、ここにはその夜を言葉にする前の静けさだけが残った。
灯花はバッグを肩にかけ、扉の前で一度だけ部屋を振り返った。今日読まれた文章が画面の中で眠っている。過去の自分も今の自分も完全には隠れなかった。
それでも壊れなかったし、むしろ少しだけ息が楽になった。誰かに丁寧に読まれるのは怖いけれど、その怖さを感じながらでも立ち続けられることを灯花はこの夜知った。
廊下へ出ると、千景が鍵を確認していた。金属の小さな音が静かな階に響く。灯花は、その音を聞きながら胸の奥に残った言葉を今日はどこにも送らず、どこにも消さずに持っていくことにした。




