30 最幸
深まっていく秋の空に、まだ暖かい陽の光が紅葉する木々をきらめかせていた。
アウグスト=ハイゼンベルク伯爵は朝まだ早い時間に、
最高神ディアグ神殿にやってきた。
「アウグスト様。本日はほんにおめでとうございます。恐れ入りますが、先んじて礼拝をお受けいただきます」
「わかりました。よろしくお願いいたします」
今朝のアウグストの出で立ちは、いつもの牧場仕事の格好とかけ離れていた。
深紺の重厚なウール地のフロックコートを身に着け、銀でできた肩飾りから下がる飾り紐も銀で作られている。
胸元にはハイゼンベルク伯爵家家紋のメダルが光り、儀礼用の腰元のサーベルだけが所在なげに吊されていた。
神官の前でゆっくりとアウグストは膝をついて、頭を垂れる。
「あ! アウグスト様だー。何やってるのー?」
突然、幼子の声がした。
「しっ! アウグスト様、今日は婚礼の日だって言ったでしょ!」
その子の姉だろうか、叱責する声が聞こえ、もう一度扉が閉じられた。
その扉の開け閉めで祭壇の多数のろうそくが揺らいで、複雑で神秘的な影を作った。
アウグストは、その中に自分の来し方を見た。
長かった不遇の時も、ようやく今日の婚礼で一つのピリオドが打てるだろう。
「リーア……」
アウグストは、もう一つ深く頭を下げた。
*
その頃、リーアの着付けが完了した。
白のドレスは、美しいレースで作られていた。どのパーツのレースもリーア、養母であるサリニャック男爵家テレーズ夫人、そして義理の妹であるリリアーヌ=サリニャックの手によるものだ。
まだ六歳になったばかりのリリアーヌのレースは小さく、歪な形をしていたが、「リーア義姉さまの結婚をお祝いしたい」とその小さな手でシルクのレース糸でもって作ってくれたその思いは、どうしても無にすることはできなかった。
「リリアーヌ、そろそろ行くからね」
リリアーヌの小さなレースは左胸にそっと置かれた。
そのレースからまるで物語が広がるように、リーアもテレーズも持てる技術を駆使し、一枚のドレスを仕上げたのだ。
「リーア。本当におめでとう……」
テレーズが美しい婚礼衣装に身を包んだ義理の娘を見て、涙ぐんだ。
「お義母様……。本当にありがとうございました」
三年前、ただの平民だったリーアに、教育を施し、たくさんの愛情を注いでくれた偉大な義母だ。
感謝の念に堪えない。
リーアは身につけた真珠よりも大きな涙を、こぼした。
「あらあら、花嫁さん。今のうちなら、少しくらいは、泣いて大丈夫よ」
テレーズはいたずらっぽく笑うと、リーアを抱きしめた。
「また、トゥオモラにいつでも帰っておいでね。サリニャックもリーアのお家だからね」
リーアは我慢しようと必死だった涙を止めておくことは、できなかった。
*
花嫁を乗せたサリニャック家の家紋がついた馬車は、厳かな神殿の前に到着した。
既に十重二十重になるように町人たちが列をなして、花嫁の到着を今か今かと待っていたが。
花嫁が馬車から降りてきたのを見て取ると、あまりの美しさにため息しか出ないようだった。
やがて、扉が開かれる。
神殿の奥、祭壇の前には、強張っているアウグストの姿が見えた。
リーアは、美しい姿勢でカーテシーを一つ。
ブーケを持ち直すと、中央通路をゆっくりと養父であるマクシミリアン=サリニャックと共に進んでいった。
「ああ、リーア。どうか幸せにお成り」
「お義父様……、本当にありがとうございました」
「いいんだ。離れても、君は僕の娘だからね」
祭壇の前、マクシミリアンがエスコートしていたリーアの手が、アウグストに引き継がれた。
「アウグスト様……、なぜ、何もおっしゃってくださらないの?」
「……君が美しすぎて、ごめん。どんな言葉が本当の君を言い表せるか、わからなくて」
リーアは、この世の幸せの全てを集めたように笑った。
「そんな時は、一言でいいんです」
「どんな?」
「きれいだよって」
アウグストは必死に首を振った。
「いやいやいや、それだけじゃ足りないもん。もっと、もっと、君を言い表す言葉があればいいのに!」
その時、神官が困った顔で声をかけた。
「アウグスト様、リーア様。婚礼の式を開始してよろしいでしょうか?」
その瞬間。
アウグストとリーアは、慌ててお互いの身を離し、真っ赤になって俯いた。
列席者から大きな笑い声と祝福の言葉が多数降り注いだことは、言うまでもない。
式の後、簡易的なパレードが行われ、小さな町の人々にお披露目がされた。
婚礼式が完全に終了した後も、町の人々は各々の家に帰ることはなかった。
町のあちこちで、祭りの屋台のような小さな店先ができていた。
お代の要らないその不思議な店先には、焼き立ての焼き鳥のような焼串やら、熱々の具入りのパンなどが取り揃えられていた。
「これ! 食べていいの?」
「ああ! どうぞどうぞ。お代は結構さね」
「どうして?!」
「これは、全部ハイゼンベルク伯爵家からのお代で賄っているからね! 今日は婚礼の日でめでたいだろう?」
「すごいね! さすがハイゼンベルク様」
違う屋台からも声がかかる。
「さあさあ、こっちは酒があるよ! ぶどう酒、エール、なんでもあるよ!」
その声に呑兵衛たちが群がった。
*
月日が経つのは早いものだ。
婚礼の日から、既に五年が経過した。
厩の壁や屋根には、補修の跡がある。
一昨年の秋珍しく大嵐がこの町にも吹いたのだ。
有り難いことに、なんとか人的な被害は一次的にも二次的にも避けられたが、建物が崩壊してしまった牧場もかなりあった。
その復興もこの春になりようやく終わったのだ。
この春は、木々の花たちが美しく花開いていた。
梅の木の下。その美しさにほっこりと笑顔のリーアがいた。
「お母様! お花きれいね!」
リーアの足元、もみじのような小さな手を必死に伸ばす小さな少女がいた。
「リーゼ。抱っこしてあげるわ。待って」
ひょいとその小さな体を抱きかかえる。
リーアは、その小さなレディ、リーゼロッテ=ハイゼンベルクを、思わずぎゅっとした。
「うふふ。お母様。あったかい」
と、そこへ──
リーアと同じ様に草埃まみれのアウグストが、現れた。
「一時はどうなるかと思ったけど、今年も立派な梅が咲いてくれたね」
腕の中には、まだぷくぷくとして腕が可愛らしい長男が、産着に包まれていた。
「リーア、体調はどう?」
「うん。元気よ。オズワルドも連れてきちゃったの?」
「ああ、すごく泣いてたからラウラが困ってたんだ。厩舎に連れてきたら、すぐに泣き止んだよ。ほら、今はごきげんだよ」
アウグストの腕の中にいるオズワルド=ハイゼンベルクは、すっかりご機嫌である。
「本当に、あなたの息子だってわかるわ。だって、この馬の匂いが大好きなんですもの」
「お前達、ここに居たのか」
コンラート=ハイゼンベルク元伯爵が、礼服のまま四人を呼びに来た。
「あと、二つ鐘ほどで、陛下のご到着だぞ。着替えなくてよいのか?」
その時のアウグストとリーアの表情は、ハイゼンベルク伯爵家の一つの語り草として有名な話だ。
先触れが到着した後、二十騎余りのプロタグニスタ騎士団の騎士たちが、旅用の軽装の胸当てを春の光に照らしながら、現れた。王家の紋章が刺繍されたサックスブルーの外套が汐風に揺れる。
その後、少し遅れて金の枠飾りのついた真紅の馬車が現れる。
馬車のドアにはグリュックスブルク王の紋章が、声高にその威厳を語っていた。
その後ろには、しずしずと随行員たちの馬車が二~三台続き、最後には、またプロタグニスタ騎士団の騎士が四人で殿を務めていた。
通常であれば、礼砲を撃ち鳴らすところではあるが、ここは馬産地である。
そんなことをすれば、馬たちが驚き、狂乱のうちに走り回り、怪我をしかねない。
礼儀には背くが、礼砲と角笛は割愛されている。
やがて、静かに真紅の馬車のドアが開かれた。
騎士が片膝をつき、馬車を降りる王の足場となった。
アウグストとコンラート、その隣にいる筆頭参事官となったアルミカル=パリスが横に並び、一様に臣下の礼をとった。
その後ろには、慎ましやかなドレスに身を包んだリーアが深くカーテシーをしている。
「アウグスト、コンラート。面を上げい。よう、この地をここまでの領地に仕上げたな。……よくやった」
ここまでの町々を車窓から眺めてきた王は、いつか見た廃墟だったモットーラの町やただただ荒れ放題のままだった山野を知っていた。その町々や山野の変わり様に感嘆したのだ。
「身に余る光栄に存じます。陛下の慈悲深い御代なればこそ、私共も全力を尽くすことができました。どうぞ、この地の風と馬たちが、陛下の旅路の疲れを癒やしますよう」
アウグストは、再び頭を下げる。
「ふむ。そうさせてもらおう」
王は真紅のコートを翻し、ハイゼンベルク伯爵邸に入っていった。
*
その夜は、大々的な舞踏会が開催された。
今までハイゼンベルク伯爵家で開催された舞踏会の中で一番煌びやかで豪華なものだ。
ようやく客が引けた頃には、既に空が白み始めていた。
ホストであるアウグストは、最後まで招待客相手に伯爵の務めに励んでいたが、家業でもある厩舎作業は休まなかった。
「じい様! では、そろそろ種付けに出かけますね」
「うむ。あまり寝ていないんだ。くれぐれも気を付けてな」
コンラートは、昨年から厩舎作業については引退していた。
今、ハイゼンベルク伯爵家の牧場のトップは名実ともにアウグストだ。
アウグストが乗るオーラフは、ヨアキムの息子だ。
まだ若駒であるが、その利発でおとなしい性質は、父親譲りだろう。
種牡馬を数頭連れての列が、牧歌的な町々の中街道を行く。
汐風と草いきれの香りが、アウグストの鼻腔をくすぐっている。
あの時、千騎の伯コンラートの後ろでまごついていたアウグストは、もう居ない。
今のアウグストは、地に足をしっかりと着けた、民のために生きる立派な伯爵であった。
「さぁ。みんなもう少しだよ!」
アウグストたちは馬の背中に揺られながら、オリンド牧場を目指していく。
強い風も優しい風も、海はただそこにあり、風を生み出すだけだった。
ここまでお読みいただきまして、心より感謝申し上げます
アウグストの物語はここで幕となります
お付き合いいただいて、誠に感謝申し上げます
ありがとうございました




