第23話:聖女の実験
大通りから逃げるように駆け出し宿屋の自室に転がり込んだセレーネは、そのまま床にへたり込んだ。
荒くなった息が、静けさに包まれた部屋の中でやけに大きく響く。
木製の冷たい扉に背中を預け、膝を抱え込むようにして小刻みに震えていた。
両手で顔を覆っても、指の隙間から尋常ではない熱が漏れ出しているのがわかる。
「……っ……ぁ……」
声にならない呻きがこぼれた。
先ほどの出来事が、頭の中で何度も何度も再生される。
大通りを歩いていた時、夜警に呼び止められた。怪しまれた。
やましいものを隠していないと証明するために、アスクに借りたダボダボの特大ローブの合わせを、自分から開いた。
バサァッ、と布が左右に開く音。
夜でもひときわ明るい魔力灯の光が、ローブの内側に差し込んできた感触。
夜風が、布一枚すら隔てることなく自分の素肌を直接撫でたあの温度。
そしてなにより、修道服の下に苦肉の策で着込んだ黒布の極小ビキニという破廉恥の極みのような姿を、複数の見知らぬ男たちの前で、自分から堂々と晒してしまったという取り返しのつかない事実。
「……自分で、開けた……わたし……自分で……」
誰に強制されたわけでもない。夜警の指示ではあったが、腕を力ずくで引かれたわけではない。
自分の意思で、自分の両腕を動かして、肌を晒した。
その瞬間、周囲の誰もが自分を見た。
だが、誰も驚かなかった。誰も咎めなかった。誰も恥ずかしそうに目を逸らしたりなどしなかった。
なぜならこの街では——いや、この狂った世界では、ビキニアーマーで腹筋や胸の谷間を晒して歩くことなど、呼吸するのと同じくらい当たり前の日常風景だからだ。
「……はぁ……はあ……っ」
セレーネは顔を覆っていた手を下ろした。
手のひらが自分の頬の熱さを記憶している。息をするたびに、喉の奥がカラカラに乾いていくのがわかった。
恥ずかしかった。死ぬほど恥ずかしかった。だから逃げ帰ってきた。
聖女としてのこれまでの人生と尊厳が粉々に砕け散るような、途方もない屈辱と羞恥だった。
……はず、なのだが。
「……」
セレーネはゆっくりと立ち上がり、壁際に置かれた姿見を真っ直ぐに見据えた。
鏡の前には、頭からつま先まですっぽりとローブに包まれた、ただの小柄な人物が立っている。首元まできっちりと合わせを握りしめ、分厚い布の壁で世界から自分を完全に遮断している。
だが、その防殻の内側で、奇妙な熱が燻り続けていた。
心臓が、先ほどからずっと早鐘を打っている。
宿まで全力で走ったからではない。
ローブを大きく開いて夜風を受けたあの瞬間。
恥ずかしさで頭が真っ白になるのと同時に、背筋を強烈な電流が駆け抜けた。
「……気の迷いです」
セレーネは鏡の自分に向かって、厳かに言い聞かせた。
「あの状況下で精神的ストレスが極限に達し、一時的に神経が乱れているだけです。明日になればアスクさんが私の修道服を直してくれます。そうすればまた、分厚い布に守られた、正しく平穏な信仰の日々が戻ってきます。何もかも、この狂った街の毒気に当てられただけ……」
そう言い訳を並べ立てている最中にも、セレーネの指先は自分の意思とは無関係に動いていた。
固く握りしめていたローブの合わせを、そっと開く。
ほんの少しだけ。長さにすれば数センチの隙間。
そこから、部屋の冷たい空気がするりと入り込んでくる。
ゾクッ、と体が跳ねた。
「っ……!」
ただ部屋の空気が触れただけで、足の指先までしびれるような感覚が走る。
セレーネは慌てて合わせを閉じた。鏡の中の自分が、見たこともないほど潤んだ瞳でこちらを見つめ返している。
明日になれば修道服が戻ってくる。この分厚い安心感に包まれた日々に。
それはつまり——この、ローブの下にビキニ一枚という「恐ろしく罪深い状態」でいられるのは、今夜が最後だということだ。
明日になればきちんとした修道服に戻り、隙間風など一切入らない正しい装いになる。
明日になれば、もう二度とこんな、夜風が直に肌を撫でる果てしない背徳感を味わうことはできない。
ごくり、とセレーネは暗い部屋の中で唾を飲み込んだ。
「……検証が、必要です」
誰も聞いていない部屋の中で、もっともらしい理屈をひねり出す。
「この邪悪な感情、この異端の誘惑が、いかなるメカニズムで人の心を蝕むのか。それを知らずして、どうして信仰を守り抜けましょうか。……ええ、そうです。これは聖女としての、正しい信仰を確立するための実験です!」
誰に向かって言い訳しているのかわからない見事な自己肯定をキメると、セレーネは再びローブをきつく掻き合わせ、部屋の扉を開けた。
廊下は静かだった。自分を見ている人は、誰もいない。
セレーネは足音を立てないように階段を下り、宿の裏口からこっそりと夜の街へと抜け出した。
***
遊興都市ベルトは、夜でも眠らない。
裏通りこそ人気はまばらだが、一本大通りに出れば、そこは煌々と魔力灯が照らす不夜城だ。
カジノ、酒場、娼館。あらゆる欲望が渦巻く通りを、行き交う人々は当たり前のようにビキニ姿で闊歩している。
セレーネは裏通りの暗がりから、その眩しい大通りをのぞき込んでいた。
頭からローブを深く被り、両手で前をがっちりとホールドしている。
「……ふぅ……」
深呼吸を一つ。
これから行うのは調査だ。あくまで純粋な学術的好奇心と、異端の理解のための接触。
決して、先ほどのゾクゾク感をもう一度味わいたいなどという低俗な理由ではない。絶対に違う。断じて違う。
「よし……っ」
セレーネは覚悟を決め、路地裏から大通りへと一歩踏み出した。
周囲には大勢の人がいる。
彼らにとっては、ローブですっぽり身を隠した小柄な女が一人混ざっただけだ。誰も気にも留めない。
セレーネは群衆の端を歩きながら、周囲を窺った。
よし、誰もこちらを見ていない。
ゆっくりと、ローブの合わせを握る手の力を緩める。
第一段階。首元を数センチだけ開く。
——スゥッ。
喧騒の熱気に混じって、夜の冷たい風が鎖骨のあたりに滑り込んできた。
「はぁっ……」
微かな声が漏れた。
ただ首元が開いただけだ。修道服を着ている時なら何でもない面積だ。しかし「その下にはビキニしか着ていない」という事実が、その数センチの開口部を途方もない巨大な罪の扉に変えている。
風が入ってくる。それだけで、自分がとんでもない破廉恥行為をしている気分になる。
誰も見ていない。
だか、もし今この瞬間にローブを剥ぎ取られたら。
自分がいかに恥ずかしい格好をしているか、全世界に知れ渡ってしまう。
「っ……あ……」
綱渡りのようなスリルが、首筋から背骨を通って腰へと抜け、膝の裏をガクガクと震わせる。
セレーネは歩きながら、深い息を吐き、第二段階へ移行した。
握っていた手を少し下にずらし、胸元のV字の開きを大きくする。
途端に、黒布の極小ビキニがローブの隙間から隠しきれずに覗き出した。
谷間を形成する白い肌の上を、通り抜ける夜風が躊躇なく撫でていく。
「ひぅっ……!」
たまらず近くの石壁に寄りかかった。
呼吸が荒い。顔が熱い。下腹部のあたりがどうしようもなく疼いている。
自分の意思で露出を増やしているという事実が、頭をクラクラさせる。
そこへ、通りを歩いていた大柄な男が肩をぶつけそうになり、セレーネはビクッと体を跳ねさせた。
「あ、ごめんよ嬢ちゃん」
「ひゃいっ!」
男はセレーネの胸元——わずかに覗く黒いビキニをちらりと見た。
セレーネの心臓が限界を超えて跳ねる。
だが、男はそのまま「なんだ、普通じゃん」という顔で視線を外し、去っていった。
普通。
そうなのだ。この世界では、今のセレーネの格好は普通以下の露出度でしかないのだ。
だがセレーネの頭の中は違う。
「私の恥ずかしい下着姿を、はっきりと見られた」という事実が、脳内の警報をガンガンに鳴らし続けている。
自分にとっては究極の破廉恥。
世界にとっては単なる日常。
この絶対的な認識のズレが、セレーネの理性をドロドロに溶かしていく。
「もっと……」
無意識のうちに、口が動いていた。
この狂おしい境界線を、もう少しだけ攻めてみたくなった。もっと風を感じたい。もっと、自分が恥ずかしい状況にいることを実感したい。
第三段階。
セレーネは、歩きながらローブの裾を膝下まで大胆に引き上げた。
足首からふくらはぎ、そして膝が完全に露出する。
夜風が素足を這い上がり、太ももを撫で上げる。
その上には、ビキニの小さな布切れしか存在しない。
「……っ……ぁ……っ」
一歩踏み出すたびに、太ももの内側が外気に触れ、何もない空間を擦る音が聞こえる気がした。
もちろん気のせいだ。だが、布がないという事実が、体の感覚を異常に鋭敏にさせている。
視線を感じる。いや、誰も見ていないのか。
周囲は腹筋を晒した女戦士やら魔術師やらで溢れかえっている。
私に注目する理由なんて、何もない。自分の自意識が勝手に視線を作り出しているだけだ。
だが、それがいい。
見られていないのに、見られているような気がする。
隠れているのに、いつでも晒し出せる状態にある。
分厚いローブという建前の内側で、とんでもなく淫らな事実が進行している。
「これ、は……っ。悪魔の、誘惑……っ!」
セレーネは壁に手をつき、荒い息を吐きながら、自分の状態を必死に正当化しようとした。
「そうです、私は今……悪魔と戦って、います……っ。この誘惑に打ち勝ち、肉体の脆弱性を……正しく理解する、ために……っ」
理屈はもう滅茶苦茶だった。
目は虚ろに潤み、頬は極彩色の赤に染まり、口元はだらしなく緩んでいる。
だが彼女自身にとっては、これは崇高なる信仰の試練なのだ。
——その時。
「お前、何やってんだ」
背後から、聞き覚えのある声が降ってきた。
びくぅっ! とセレーネの体が跳ね上がる。
恐る恐る振り返ると、そこには怪訝な顔をしたアスクが立っていた。
手には、糸と針を買ってきたらしい小さな紙袋を提げている。どうやらあの後、セレーネの修道服を直すための道具を買いに路地裏の店を回っていたらしい。
「ア、アスクさん……っ!」
「気分が悪いのか? そんな暗がりの壁に張り付いて」
アスクがのぞき込んでくる。
その視線がセレーネに届くコンマ一秒前。セレーネは神速の動きでローブの合わせをガシィンッと閉ざし、まくり上げていた裾を蹴り落とした。
アスクは首をひねる。
「やっぱりお前、そのローブだけじゃ寒いだろ」
「さ、寒くありません! 全然! 大丈夫です!」
「顔真っ赤だぞ? 風邪でも引いたら大変だ」
「これは……神の試練に打ち勝った高揚感です!!」
セレーネはそれだけ叫ぶと、再び猛ダッシュで走り出した。
またもや宿の方向へ一直線だ。
夜風を切り裂いて走る中、セレーネの頭の中はかつてない熱量で沸騰していた。
(あ、危なかった……っ。もう少しで、アスクさんに見られるところでした……!)
先ほどまですれ違っていた通行人たちは、どうせみんなビキニだから、肌を晒すことにおかしいとは微塵も思っていない。
だから見られても、ただの日常として流されるだろう。
しかし、アスクは違う。彼には常識がある。本来の正しい貞操観念がある。
この狂った街で唯一、まともな服を着ている男だ。
もし。
あと一秒、合わせを閉じるのが遅れていたら。
(常識人のアスクさんに! 着衣派のアスクさんに! 度し難いド変態だと思われるところだった……っ!)
今まで積み上げてきたものを否定するような、絶望的な羞恥。
だが、その胸の奥底で「まともな人にふしだらな女だと思われる一歩手前だった」「あと少しでバレていた」というギリギリの事実が、先ほどまでのゾクゾク感の何百倍もの致死量の快感となって、下腹部で弾けている。
(ああ、神様! 私は……なんて恐ろしい誘惑に触れてしまったのでしょうか……っ)
バレなかった。バレなかったからこそ、あの一瞬のスリルと、想像の中での「見られたらどうなっていたか」という背徳感が、強烈な蜜となって脳髄を溶かし続けている。
涙目で夜の街を駆ける聖女の思考は、もう絶対に戻れない領域へと確実に変質し始めていた。




