第九話
テマリスアマ大聖堂。アテルイたちがいる聖堂の名称だ。この聖堂には、ウィロウ教の信者が、およそ五千人生活している。普段は五千人の生活音が響き、静寂が訪れるのは深夜ぐらいのものだった。
そして今、時刻は正午を過ぎた頃だ。ギハオ神道の手に落ちて、ウィロウ教徒の生活音などない。ウィロウ教徒たちは今、人質として確保されたか、特定の階に幽閉されているかの、どちらかだ。
だが生活音はなくとも、誰かがなにかしらの音を立てる。悲鳴も上がるし、どこかで誰かが会話をすることもある。言葉や声は失われていない。だからこそ、その静寂は異様だった。
足音や、布が擦れる音はよく聞こえた。いつもなら聞き逃すような何気ない音も、大きく聞こえる気がする。静かだからだ。誰も、一言も声を発しない。厳粛な式典でも、もう少し話し声がありそうなものである。
どうして誰も言葉を発しないか。発しないのではない。言葉が音にならないのだ。どれだけ喉を震わせても、傍目に見れば、ぱくぱくと口を開閉しているようにしか見えない。そんな現象が、テマリスアマ大聖堂の全体で起こっていた。
アテルイの前には敵がいる。距離はあるが、沈黙の法術によって、相手は法術を使えない。無詠唱での法術行使という例外もあるが、それほどに卓越した信仰心と技能を持つものはそういない。
法術を失った敵は、廊下の奥で待ち構えるアテルイに向かって、突撃するしかなかった。
一人が剣で切り掛かった。動き始めは、明らかに敵が早かった。剣が振り下ろされるより早く、アテルイの拳が敵の顎を砕いた。倒れ込もうとする敵の手から、剣を奪った。
敵が次々にアテルイへ切り掛かり、アテルイを素通りするかのように、アテルイの横を通り過ぎ、倒れていく。
アテルイの持つ剣から、血が滴っていた。アテルイが廊下を進む。一歩アテルイが進めば、敵は一歩下がった。二歩進めば二歩。三歩進めば三歩。敵は完全に萎縮していた。
やがて、アテルイは廊下が十字に交差した地点まで進み出た。敵が四方を囲んでいる。状況としては敵が優勢だ。そうだというのに、アテルイに襲い掛かる者はない。
瞬間、敵たちは戦慄に身を凍らせた。アテルイが電光のような速さで、剣を振っていた。敵の首が跳ね跳んで、残った胴体から血が噴水のように噴き出ている。そこで金縛りが解けたように、敵たちが一斉に動いた。
勝算などなく、単なるパニックと言っても良かった。アテルイは無心で剣を振った。その心には、敵の姿すら映っていなかったかもしれない。
ただ剣で斬った。斬って、斬って、不意に手が動かなくったとき、アテルイは全員を切り伏せていたことに気が付いた。ほんの十数秒のことだった。
アテルイには掠り傷もない。隅っこの方でそれを見ていたジョーが「凄ぇ」と呟いたが音は出ず、唇が動いただけだった。
「終わったぞ」
アテルイが言った。持っていた剣を床に突き刺した。ジョーは恐る恐るといった様子で、アテルイに歩み寄った。
「あ、あんた、ほんっとに、強いんだな」
法術の効果が切れたらしく、ジョーの声が出た。声は震えていた。返り血塗れのアテルイをまじまじと見て、ジョーは固唾を飲んだ。
「なんだ?」
アテルイが低い声で言った。目がぎらついている。ジョーは自分の首が落っこちたような気分になって硬直した。
「いや、その、なんというかよ……あんたに剣を持たせちゃだめだな」
ジョーは言いながら笑った。少しばかり引き攣っていたが、悪意は微塵も感じられなかった。アテルイは微笑した。
「そうかもしれん、以後、気を付けよう」
アテルイの言葉に、ジョーはやっと緊張を解いた。腰が抜けそうになったほどだ。
「で、どうするよ。ほとんどの敵さんを連れてきたつもりだが、聖獅子の間にはまだ見張りが残っているぜ」
ジョーが言った。
「想定内だ。もう一度、お前がおびき寄せてくれ。敵がお前から離れていなければそれでいい。欄干にいた見張りが厄介だ」
アテルイが言った。
「わかった、それじゃあ、ちょいと待っててくれ」
ジョーが軽やかに駆け出していく。アテルイはしばらく待った。待って、待って、流石に時間が掛かりすぎだと思った頃、自分から聖獅子の間へ向かった。
聖獅子の間の扉の前に立ち、聞き耳を立てる。ジョーの喚き立てる声が聞こえた。
「離せ、離せっつてんだろ、やめろ!」
危機に陥っているらしい。やむなし、アテルイは聖獅子の間に入った。
「あ、アテルイ!」
扉を開けたアテルイの目に入ったのは、見張りの四人に捕まって、ひざまずかされているジョーの姿だった。手は後ろに縛られている。
「すまん、失敗した。逃げろ!」
ジョーが叫ぶ。
「動くな!」
見張りが叫んだ。アテルイは欄干を見回した。誰もいない。ギハオ神道の者と思われるのは、ジョーを囲んでいる見張りたちだけだった。偵察では八人いたが、おそらく先程ジョーがおびき寄せたとき、ここにいた四人も駆り出したのだろう。
「でかしたな、ジョー」
アテルイが言った。
「はあ? なに言ってんだ、逃げろって!」
ジョーが再び叫ぶと、首筋に剣が当てられた。
「動くなと言っている。動けばお前の仲間を殺す!」
見張りが言った。
「貴様、その返り血はなんだ」
「これか? 剣で戦ったらこうなった」
「俺たちの仲間はどうした!?」
「一人も生かしちゃいないさ」
「ふざけやがって……やめろ! 動くな!」
見張りたちは震えていた。得体の知れない相手に、理性では計り知れない本能のような部分が、逃げろ、逃げろと警鐘を鳴らしていた。強い信仰と意思、ウィロウ教への憎しみがなければ、とうに逃げ出していたことだろう。血に塗れたアテルイの姿は、全く死神然としていた。
「貴様、何者なんだ!」
「俺か、俺はただの神官だ」
「ふざけるな!」
見張りは激高したが、磔になったように動けない。アテルイが歩き出した。
「馬鹿野郎、動くな! お前の仲間を殺すぞ」
「その間にお前らの一人が死ぬぞ」
アテルイの言葉に、見張りたち全員が死んだような心地になった。こうして対峙してしまった以上、アテルイに人質は意味がない。人質を殺そうと殺すまいと、自分たちは死ぬしかないと悟ったのだった。
そうであるならば、人質は邪魔なだけだ。少しでも、ほんの僅かでも、生き残る可能性を上げたかった。人質にかまけている余裕はない。死んだつもりになってもまだ足りない。
既に死んだようなものなのだ。全宇宙で砂粒を一つ見つけるような可能性であったとしても、アテルイを倒す以外に、生き残る道はないのだ。
誰言うともなく、見張りたちはアテルイに襲い掛かっていた。迫りくる斬撃撃を、アテルイは半身になることで避けた。幾たびかそれを繰り返し、アテルイは一人の斬撃を払った。見張りが切りつけた剣は勢い余って、仲間の足を切ってしまった。
その途端、見張りたちの連携が崩れた。ほとんど闇雲に振り回すのと変わらない。アテルイが避けるだけで、仲間同士で斬り合うような羽目になった。
そしてアテルイが見張りの一人を殴った。そしてまた一人、また一人、一撃ごとに倒れていく。最後に残った一人が、剣を突き出して突進してきた。
アテルイはひょいと身を躱し、見張りの頭を目掛けて回し蹴りを放った。見張りは吹き飛ぶように倒れ、沈黙した。
「怪我はないか?」
アテルイがジョーに言った。
「お陰様でな。縄を解いてくれ」
アテルイがジョーの縄を解く。ジョーは自由になると、腕を回した。
「さて、他の皆さんもお助けしますか」
人質たちを見渡して、ジョーが言う。人質たちは、恐怖混じりの困惑顔で、アテルイとジョーを見ていた。
「アテルイさん、ジョーさん」
鈴が鳴り渡るように、声が響いた。ウニンだった。
「今から助ける。縄を解くからちょっと待ってろ」
アテルイが言った。アテルイとジョーは、人質たちの縄を解いて回った。