第二話
「イリス、待ちなさい!」
プルウィアの声は、講堂に集まる雑踏に掻き消えた。
巨大な講堂である。天井はガラスが張られ、碧空を望んでいる。床には紅い敷物が隙間なく敷かれている。森の木々ほど並んだ椅子は、弧を描くように配されている。
典礼の儀に集った人々が座れば、その視線の向かう先は、斜め下方に位置する演台である。舞台の上にある演台には、縁に蛇を表した彫刻と、中心に蛇を象ったシンボルが描かれている。
その演台に向かって、緩やかな階段を駆け下りる少女がいた。まだまだあどけない。朱色の衣装に、くすんだ銀髪。舞台の手前で立ち止まると、勝気そうな目を追い掛けてくるプルウィアに向けて、悪戯っぽく微笑んだ。
「やっと追いついた。さあ、イリス、一緒に来なさい」
息を切らしながらプルウィアが近寄る。イリスは引き下がった。そして、イリスがいた位置にプルウィアが足を付けた瞬間、イリスが微かに唇を動かした。
「足首」
プルウィアの足元に、突如として縄が出現した。見えない力に操られて、縄は勢い良く跳ね上がる。プルウィアの足首に巻き付いていた。
「きゃあっ!?」
縄は宙に浮いている。そしてプルウィアは、頭と足の位置を逆さまにして、宙吊りになった。
黒い法衣がめくれて、生白い脚部から臍までが曝け出された。下着までもが衆人の目に映っているが、めくれた法衣が視界を覆い、気が動転しているために自身の惨状に気付かない。
「こら、イリス! 今すぐ下ろしなさい!」
もがくプルウィアに、周囲の視線がどんどん集まる。もがいて、体全体が、ばたばたと動く。呆気にとられて、誰も助けに行かない。ヒーッヒーッと、空気が抜けるような笑い声を上げているのはイリスだ。
「またね、姉さん」
たたんっ、と軽やかな足取りで、イリスが不敵にもプルウィアのすぐ横を通り過ぎる。それを奇異と好奇から見詰める周囲の人々。その視線を、イリスは不快に思う。強く、息を吸い込んだ。
「見世物じゃないわよ! ダサい下着を曝されたくなかったら、疾く散りなさい!」
一喝に、やましい気持ちがあったものはそそくさと視線を逸らす。イリスの言葉を聞いて、プルウィアははたと動きを止めた。「下着……?」黒い法衣の内側で、プルウィアは顔を真っ赤に染めた。
「こらァァ! イリスぅぅッ!!」
びくりと肩を震わせたイリスは、脱兎の如く駆け出した。
「誰か、誰か助けてください!」
プルウィアが叫んだ。その声に、やっと我に返った人々が、四苦八苦しながら、プルウィアの足に巻き付いた縄をほどいた。プルウィアはふらふらとしている。顔が赤いのは、血が頭にいった所為か、怒りのためか、はたまた羞恥か。おそらく、全てだろうと思われた。
「イリスぅぅぅ……」
呪詛のようにプルウィアが呟いた。目も据わっている。咳払いを一つ落として、深く息を吐いた。
「探知」
プルウィアが、誰にも聞こえないような囁き声で言った。
「捕捉」
プルウィアの口角が上がる。
「牢!」
高らかに吠えたプルウィアに続いて、イリスの短い悲鳴が上がった。二百歩ほど先だ。揚々とプルウィアは緩やかな階段を上っていく。上って行った先には、人だかりができていた。そして、うつ伏せに倒れたイリスが、幾本もの棒に囲まれ、押さえられ、身動きできないでいた。
「なに見てんのよ、ぶっ飛ばすわよ! 見るなって言ってんでしょ、見るなー!」
「イリス」
いずれ誰かに噛みつかんばかりのイリスだったが、怒りに震えたプルウィアの声に、ひくっ、と声を詰まらせた。
「なんだ、姉さん元気そうね」
強がりで笑って見せたが、慄きで腹の底が震えている。プルウィアは笑顔だったが、それは親しい者に向ける笑みではない。獲物を見事、生け捕りにした少年のような笑みだった。
「講堂でこのような法術を使ってしまっては、後でお叱りを受けますね」
プルウィアがイリスの目の前に立つ。周囲の人々は、二人からじりじりと後退った。修羅場に近い空気を察知したからだ。
「イリス、言うことは?」
「この棒をどかして」
「イリス、言うことは?」
「……この棒をどかして」
「イリス、言うことは」
イリスは悔しさから俯いた。額が床に付く。
「イリス」
プルウィアが、つま先をイリスの額と床の間に捻じ込んだ。つま先を上げ、無理矢理イリスに自分を見させる。屈辱で、イリスは目に涙を浮かべていた。
「ごめんなさい、は?」
強いられて素直にできる謝罪などない。イリスは睨むことしかできない。プルウィアはそれが気に入らない。
「謝らないの?」
弄ぶように、プルウィアがつま先を動かす。イリスの額に靴の底面が擦れる。その感触がまた悔しくて、イリスは涙をこらえきれなくなった。
「泣けば済むと思っているの? 泣きたいのはこっちよ」
プルウィアは苛立たし気に言う。周りの人だかりは次第に離れていく。快く思わないが、関わり合いにはなりたくないのだ。
「悪いことをしたんでしょ? 悪いことをしたら謝る、そんな当たり前のこともできないの?」
イリスは言い返そうとした。だがそもそも、口喧嘩でプルウィアに勝ったことなど一度もない。悪いのはいつもこちら。なにを言っても、もっともらしい理屈で論破される。結局は押し黙るしかなくなる。それはさらなる屈辱に塗れるということだ。
そう思うと、イリスにできる対抗は、黙ってプルウィアを睨み上げるだけ。だけどそれは悔しいことだ。そして悔しいと感じることに悔しさを感じる。泣きたくない、と思っても、涙は勝手に出る。それでも、僅かに残った誇りや自尊心といったものを守るために、イリスは睨む。
そんなイリスが、プルウィアには生意気に思えて仕方がない。自分が悪くとも、その非を意地でも認めない。改めようとしない、反省しようとしない。甘ったれた、情けなく、だらしがない人間に見える。
――こちらは道理を説いているだけだ。間違いをきちんと指摘している。それにも関わらず、謝罪もせず、自助努力もしない、屑のような人間。そんな人間が、自分を睨んでいるのだ、まるで責めるように。ふざけている。私は規則を守り、常識に則り、時には応用を利かせながら一所懸命にやっているのだ。
と、そんな風に思う。
長い沈黙の中で、二人の敵意だけが膨らんでいく。
「おい、プルウィア、なにをしている」
男の声に、はっとしてプルウィアは顔を上げた。そこにいたのはロマラムタだ。
「一先ず解放してやれ」
ロマラムタはイリスを見て言った。プルウィアは大人しく、イリスを捕らえていた棒を消失させた。体が自由になると、イリスは逃げ出した。
「待ちなさい!」
プルウィアが叫ぶ。イリスは竦みそうになったが、言うことを聞く気などない。そのまま人混みに紛れていなくなった。
「なにがあったかは知らんが、やりすぎだ」
ロマラムタがプルウィアを諫める。
「……はい」
「怒りたくなる気持ちもわかるがな、イリスの気持ちも尊重してやれ」
「はい」
なにを馬鹿なことを、とプルウィアは思った。こちらは道理に従っている。決して理不尽に怒ったりなどしない。尊重したって相手がつけあがるだけだ。この男はまるでなにもわかっていない。無能な上司だ。腹の中で、プルウィアはそういったことを考えたが、口には出さなかった。
「ほら、騒ぎは終わりだ。皆、席に着け」
着席を促されると、周囲の人々は各々席に着いた。
「今はもういいだろう、お前も席に着け」
ロマラムタがプルウィアに言った。なお釈然としないプルウィアではあったが、やはり大人しく、ロマラムタの言うことを聞いた。