第一話
ぞくっとする冷気が花園を行き過ぎ、花々を虹色に揺らした。繚乱たる花畑に立つ黒服の男は身震いして、雲の海を見下ろした。鷲のような眼光に、欠伸を噛み殺した涙を浮かべる。
「見つからん」
男は独りごち、払暁の空中庭園を後にした。
庭園から回廊に戻る。男と出くわしたのは、長い黒髪の女だった。体に密着する黒一色の衣装。切れ長の目は誰かを責めているかのような印象だ。
「アテルイ」
女が言った。
「見つかりましたか」
アテルイ、と呼ばれた男は頭を振った。
「仕方ありませんね。私はこれから講堂を探しに行きます。貴方は?」
「俺はいい」
アテルイが言った。
「鳥や鼠じゃないんだ。そのうち自分から出てくるさ」
「探して下さい」
「習慣の花茶もまだ飲んでいない」
「じじむさい。探して下さらないのであれば、せめて典礼には出席して下さい。いつも怠けて休んでばかり、神官の端くれならば少しは自覚を……」
「もういい、もういい。ばあさんの小言は聞きたくない」
アテルイが言った直後、アテルイと女の間の空気がゆらいだ。霧が固まりでもしたかのように、空中に棒が現れた。女はそれを片手で掴み、アテルイの額を目掛けて振った。
「痛いだろう、なにをする」
「次、言ったら全力で振り下ろしますからね」
霧散するように棒が宙に掻き消えた。女は不愉快そうにアテルイを見るが、当のアテルイはもう明後日の方を向いている。やや険悪な二人は、お互いに言葉を探り合っていた。そこへ、声を掛ける男があった。
「アテルイ、プルウィア、お前らまだイリスを探しているのか」
二人は声の方を見た。回廊の先から歩み寄ってくるのは、アテルイと同じような黒服を着た男。剃髪された頭に、掘りの深い顔立ち。アテルイと比べると老け顔ではあるが、かなり清廉な印象だ。細い金鎖のネックレスには、蛇を象った紋章のペンダントが下がっている。
男は二人の前で立ち止まった。
「イリスは講堂にいる。早く行ってやれ。四半刻も放っておけば、悪戯の一つや二つじゃ済まないからな」
男が言った。
「感謝します。ロマラムタ大司教」
プルウィアは一礼すると、アテルイには一顧だにせず、講堂へ向かった。ロマラムタはそれを見送る。
アテルイはロマラムタの後ろで、こっそりとこの場を立ち去ろうした。ロマラムタが呼び止めた。
「アテルイ、少々の話しがある。お前の部屋に案内してくれ」
「茶でも出します」
「それが良い」
アテルイは観念した様子で、ロマラムタの前を歩き始めた。
回廊を往来する人々は、所用で忙しそうだった。それを暇そうに、ぼんやりとアテルイは眺める。背後でロマラムタの咳払いがして、ばつが悪そうにアテルイは背筋を伸ばす。
やがて人の少ない奥まった区画へ立ち入り、とある扉の前に辿り着いた。煤けたような赤色の扉は、長い期間を使われずに過ごしたことを推察させた。それを見て、ロマラムタは顔をしかめた。
「本当にこんな部屋で良かったのか」
「これぐらいが丁度良い。どうぞお入りください」
扉を開けると、軋む音がした。ところが襤褸な扉の雰囲気と違い、部屋の中はさっぱりとして清潔だった。窓縁には鮮やかな色取りの花が活けられていた。
「靴を脱いで上がってください」
ロマラムタの後ろで、アテルイが言った。部屋には土間と框が設けられていた。この部屋にはなかったものを、アテルイが改築したらしい。ロマラムタは戸惑いながら、靴を脱いで部屋に上がった。
「四ヶ月で改装を済ませたのか?」
「ええ、まあ、私が過ごしやすいように。適当に座ってください。座布団はここに」
アテルイの渡した座布団を受け取り、ロマラムタはちゃぶ台の傍に座った。部屋の真ん中で、落ち着きなく目を動かす。
アテルイは奥の台所へ行き、石でできた簡易な焜炉に、水の入った薬缶を置いた。壁に掛かっていた袋から火打ち石を取り出す。火口を用意し、焜炉の前に屈んで、カツン、カツンと火打ち石を叩く。
その音を聞き、ロマラムタはアテルイを見た。
「お前、未だに火の法術も使えないのか」
ロマラムタに背を向けたまま、アテルイは石を打ち続ける。石を打つ音が止み、間が空く。焜炉に火が付いた。
「中抜け、居眠り、ずる休み。典礼にはまともに参加していないし、経典を読んでも、あまり頭に入らないもので」
棚から茶葉の入った小瓶を取り出しながら、アテルイが言った。
「頼むぞ、信仰は体裁だけの問題じゃないんだ。お前が敵に内通していると思っている者はごまんといる。信仰を深め、法術を身に付けることは自分の身を守ることだぞ。法術そのものの恩恵じゃない。他の人間に信頼されるためだ」
アテルイは鼻で笑った。悪気があってではなく、自身の痛痒を誤魔化すためだった。
「ギハオ神道の法術はもう使えません。一つもです。それだけでも、大したものだと、信用に足ると、私は思いますけどね」
「お前だけの問題じゃないんだ」
「しかしウィロウ教の法術を使えるようになりましたよ」
「ほう、なにを使えるんだ」
「沈黙」
「他には」
「なにも」
ロマラムタは深い嘆息を漏らした。
「俺の立場もそう強くはない。なにかあったら庇いきれんぞ」
「その時は俺を切り捨てて下さい。貴方に拾ってもらった、それだけでも俺は満足しているんです。本来なら神官という肩書も、この部屋も、今の暮らしのなにもかも俺には過ぎたものですよ」
薬缶の湯が沸いた。アテルイが水を一差し薬缶に入れる。湯呑茶碗に茶葉を入れる。薬缶のお湯を湯呑茶碗に注ぐ。二つの湯呑茶碗を持って、アテルイはちゃぶ台を挟んで、ロマラムタの前に座った。
「どうぞ。花茶です」
「ああ、済まんな」
置かれた茶を、ロマラムタは静かに啜った。
「旨い」
「庭園に咲いていたあの花を使ってみたんです。なんでも清浄の花と呼ばれているとか」
「勝手に摘んだのか」
「一応、許可は得ました」
「誰から」
「イリス」
「アホか」
しばらく無言で、二人は茶を啜った。やがてアテルイが口を開いた。
「それで、話しというのはなんです」
「うむ、茶を飲みに来たわけではなかったな……」
空になった湯呑茶碗を置いて、ロマラムタは厳粛な面持ちでアテルイを見た。アテルイは悠々と茶を啜っている。
「ネズミが入った」
ロマラムタが言った。
「この大聖堂に?」
「そうだ。目的は分からんがな」
「目的なんて、善からぬことに決まっているでしょう――ネズミを私に探し出せと?」
「そうだ。頼りになる暇人はお前だけだからな」
アテルイは苦笑した。
「それでは典礼の間に探しておきます」
「典礼に参加しない口実を与えたつもりはないぞ」
「悪いことは、人のいる場所よりいない場所の方がし易いものです」
「典礼の最中になにか仕掛けると?」
「私なら」
考える素振りを、ロマラムタは見せた。アテルイは内心でほくそ笑んだ。ロマラムタは賛同するときにも考え込む素振りを見せる。むしろ諸手を挙げて賛成したいときほど、よくよく考え込むことをアテルイは知っていた。
「いいだろう」
ロマラムタが言った。
「典礼中に探せ。警備を兼ねる」
「御意に」
「では俺はもう行く。茶をありがとうな」
「いつでも飲みに来てください」
ロマラムタは立ち上がり、土間で靴を履き直した。トントン、とつま先で地面を叩き、振り返らずに、扉を開けて出て行った。扉の軋みが部屋全体に鳴り渡る。扉が完全に閉まると、アテルイの耳の奥では、しーん、という無音だけが残った。
アテルイは窓を見上げる。麗らかな陽光が注ぎ込み、アテルイの体を温めている。典礼まで時間がある。アテルイは思った。
「日向ぼっこしよ」
ごろりと寝転がって、アテルイは寝息を立て始めた。




