初恋
「ぐっ……そこだ!」
「あ!…………」
カチャカチャと鳴るコントローラーのスティックの音と、時折漏れる声。そんな小さな音だけがこの部屋を支配している。でも、そんな状況もすぐに終わった。
「うっ……はー負けた〜〜」
「よっしゃ! これで俺が勝ち越しだな」
「……あの時から腕は鈍ってないんだね」
そう言って彼女は俺に笑いかけた。その時、肩の辺りで切り揃えられた栗色の髪がふわふわと揺れた。
彼女の名前は、南優香。俺こと、北村宗也の初恋の人であり、今もなお俺が想いを寄せている人だ。
◇◇◇
彼女との出会いは小学2年生にまで遡る。
所謂一般家庭に生まれた俺は、当然の如く地元の公立小学校に進学し、15分休憩になった瞬間校庭に飛び出して鬼ごっこだとかドッジボールだとかサッカーなんかをする、どこにでもいる子どもだった。
そんな年相応の子どもは、2年生最初の席替えで恋に落ちることになる。南優香。彼女が、俺の隣の席になったからだ。
「みなみゆうかっていいます。よろしくね、きたむらくん!」
「よ、よろしく!」
彼女は、よく喋り、よく笑う人だった。授業中でも隣の席の俺によく話しかけてくるおしゃべりさん。話の内容は、授業内容に関係のある話から昨日の美味しかったご飯のような他愛のない話まで。それまで休み時間にどうやって遊ぶか、ということだけを考えていた俺にとって、こんな風に話すことは新鮮でとても楽しかった。
そして、明確に彼女のことが好きになったのは、休み時間での彼女の振る舞いがきっかけだった。
ドッジボールを一戦やってから次の授業のために教室に急いで戻ると、彼女は静かに本を読んでいた。大きくて綺麗な瞳を僅かに細めながら、真剣な顔で本を読む彼女。その横顔が妙に大人っぽく見えた。そんな彼女は、俺が教室に戻って来たのがわかると、本を閉じて俺に笑いかけてくるのだ。
「おかえり! ドッジボール、かったの?」
「う、うん! かったよ! しかもおれがさいごのひとりだったんだ!」
「すごいね! わたし、ボールがとんできてもこわいからよけるしかできないし、うらやましいな……」
「なら、おれがそっちにとんできたボールをとるよ」
「じゃあ、そのときはよろしくね」
そう言って、彼女はにっこりと笑った。静かに本を読む大人っぽい表情と、俺と話すときに向けてくる、明るい笑顔。そのギャップに、どうしようもなく俺の胸は高鳴った。初めて恋という感情を知る瞬間だった。友達への感情との違いを知る瞬間だった。
その日から俺はおかしくなってしまった。彼女の一挙手一投足が気になるようになってしまった。話しかけられるだけで顔が赤くなり、心臓が早く脈打つ。彼女が笑うだけでなんだか俺も楽しくなって、つられて笑ってしまう。そして彼女と話し終わった後は、変なことを言っていないか、もっと面白いことを言えたんじゃないかって考えるようになった。そんなこと、友達と話すときは考えたこともなかったのに。
でも、それだけ。まだまだ全然子どもだった俺には、上手い恋愛の仕方も、どうやって付き合うかもまるでわからなかった。だからずっとただ話して、時々遊んで、またただ話して……。そんなことを繰り返すだけで一年が終わり、学年が上がってからはまた同じクラスになることもなかった。
気づけば廊下で挨拶を交わして少し話すだけの関係になってしまい、小学校を卒業してしまった、そんなよくある初恋。思い返すたびに、少しの後悔と懐かしさと幸せが胸を満たす、忘れられない初恋だった。
でも俺がみんなと少し違うのは、その終わってしまった初恋が、予期せぬ形で再び巡って来たことだった。
高校受験を希望通りの高校に進学するという最高の結果で終えた俺は、入学式の日に自分の目を疑うことになった。南優香。その名前が校舎の玄関に張り出されていたクラス表に書かれていた。しかも、俺と同じクラスに。
いや。いやいやいや……。まさかそんな。そんなわけない。そう思いながら恐る恐る自分のクラスへと向かった。
教室に入ると、席は既にいくつかまばらに埋まっていた。近い席に座っている人たちは軽い挨拶でもして縁を結び始めている。でも、そんなことはまるで目に入らなかった。俺の目には、ただ一人だけが他よりうんと明るく見えていた。
あの頃と変わらない栗色の少し明るい髪の毛。あの頃と変わらない髪型。そしてあの頃より伸びた身長。後ろから見たシルエットだけで俺にはわかった。あれは。あの人は。俺の知る南優香その人だった。
彼女は昔のように本を読んでいた。ブックカバーをしているから何を読んでいるのかはわからなかったけれど、その姿がどうしようもなく懐かしくて、目頭が熱くなる。
この湧き上がる気持ちのままに彼女に近づいて声をかけようとし、そこで立ち止まった。俺は唐突に正気に戻った。
もし、彼女が俺を覚えていなかったらどうしよう。ただいきなり読書しているときに声をかける変な人になってしまう。そうだ、そもそも読書してるときに声をかけること自体マナー違反じゃないか? そんなことをぐるぐると考えだして、俺は怖くなってしまった。彼女に嫌われたくない。
……でも。そうやって勇気を出さなかったから、小学校の時は進展しなかったんじゃないか。今ここでただ声をかけることすらできなかったら、告白なんて夢のまた夢だ。だから今、一歩、足を踏み出す。
「あの、南、さん」
読書をしていた彼女が俺の方へと振り返る。それがなんだか酷くゆっくりに見えて、髪の一本一本が揺れるのが目に焼きついた。
振り向いた彼女は昔と違い、銀縁の薄い丸眼鏡をかけていた。そして顔は可愛らしさと面影を残したまま大人になっていた。うん、やっぱり南優香だ。
「……あれ? もしかして、北村くん?」
「……そう! 久しぶり! おんなじ高校なのめっちゃびっくりしたよ」
俺のことを覚えていてくれていた。それがどうしようもなく嬉しかった。また、あの頃みたいに心臓が脈打つ。高校生にもなって、小学校の頃と同じはしゃぎ方をしている。
「あー良かった。これで人違いだったり、覚えてもらってなかったりしたらどうしようかと」
「いや、流石に忘れないよ? すごい仲良かったし。でも、小学校の時と違ってすごい身長も伸びて、大人になったから一瞬誰かわかんなかった……」
「おーなんか嬉しいこと言ってくれるじゃん」
やっばい。顔がニヤけそう。大丈夫か? 俺の顔真っ赤になってたりしてない?
「でも北村くん、南さんって呼び方……面白いね。そんな風に小学校の頃は呼んだこと一回もなかったのに」
「あ、いや、だ、だってこれで同姓同名の他人だったらめっちゃ失礼じゃんか。ね?」
「あはは、焦りすぎだって。じゃあ、今度はちゃんと昔みたいに私のこと呼んでみてよ」
そう言って彼女は揶揄うようにニンマリと笑った。俺は、彼女のこの顔が好きだった。顔が熱くなる。触らなくてもわかるくらいに。
「は、ハードル高くない? 流石に恥ずかしいんだけど」
「へー呼んでくれないんだ? あーあ、他人行儀で悲しくなっちゃうな〜」
……えーい、ままよ!
「ゆ、優香……ちゃん」
「んふ、ふふ、ふふふふ」
昔みたいに優香ちゃんと呼ばれた彼女は酷く満足げに、口元を本で隠しながら笑った。そして彼女をよく見ると、その耳が赤くなっていた。
「……満足しましたか?」
「ふふん、くるしゅうない。……だから、これからも優香ちゃんって呼んでいいからね」
「わ、わかった」
仲の良かった、あの頃のままだ。お互い見た目は変わったし、会うのも三年ぶりなのに何一つ変わらず話せてる。それが妙に嬉しくて、安心して。だから少し、欲が出た。
「あのさ、連絡先交換しない? 小学校の頃に連絡先を交換しなかったの、ずっと後悔してたんだよね」
「いいよ。私も卒業した後に、うわ〜家も連絡先も知らないからどうしよう……って思ってたし」
「わかるわかる。ガキの頃なんて毎日学校で会えたから、直接話して遊ぶ予定立てればよかったじゃん? だからこその失敗だよな〜」
「……とか言っときながら、そっちは私の家に遊びに来たことあるんだから、別に会おうと思えば会えたでしょ」
「え、いや……いきなりアポ無しで家に来る男子怖いでしょ……」
「あはは、それもそうだね! じゃあほら、スマホ出して」
言われるがままにスマホを出して、優香のスマホの画面に表示されたQRコードを読み込む。出てきたアカウントには『ゆーか』と書かれていて、見覚えのある猫がアイコンになっていた。
「あ、くるみだ」
「猫の名前、覚えてたの?」
「そりゃあ猫好きですから。懐かしいな〜」
「もう結構おばあちゃん猫だけどね」
優香は少しだけ寂しそうに笑った。そしてその時、チャイムが鳴った。
「うわ、ごめん、自分の席戻るわ」
「うん。じゃあ、また後で」
席に戻る俺に手を小さく振る優香を尻目に俺は座った。あー可愛い。
で、その後は普通に入学式とか、これからの予定とか、細々とした連絡とかで記念すべき高校初日が終わり、その日の夜に、『明日の土曜日久しぶりに私の家で遊ばない? 』って誘われて今に至るというわけである。こう考えると不気味なくらい順調だ。
◇◇◇
「ずっとゲームやってたせいで喉乾いちゃったね。私、飲み物取ってくる」
「手伝おっか?」
「あ〜いいよいいよ座ってて。お客様なんだし、どこにコップがあるのかとか知らないでしょ?」
「……じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
小さな声で、よっこいしょと呟きながら優香は立ち上がり、部屋から出て行った。ふーん。可愛いじゃん。……はぁ、もうダメだな、全部可愛いとしか思えない。
優香に飲み物を持ってきてもらっているから一人でゲームをする気にもなれず、特にすることもなかったので天井を見上げる。それも数分で飽きたので、なんとなく部屋を見渡した。
部屋のカラーリングは白と水色で統一されていてとても清潔感がある。ベッドには多分昔はなかった人形が数体増えていて、勉強机は新しいものに変わっている。昔の机じゃ小さかったのだろう。総じて、女の子らしさはありつつも、機能性だとか、几帳面な性格がよく表れている部屋だった。
「あ〜俺気持ち悪いな……こんな風に人の部屋をジロジロ見るとか、ないわ」
煩悩を振り払うため、目を瞑る。……ダメだ。瞼の裏には優香の横顔とか、笑顔とかばっかり浮かんでくる。なんなら、昔遊んでた時の顔まで。
「好きだなぁ」
「……え?」
顔を声のした方へと向ける。そこには麦茶が入ったコップといくつかのお菓子をお盆に乗せて運んできた優香がいた。
「は、早かったね……」
「う、うん……」
油断した。足音とか全然聞こえてこなかったから気を抜いていた。やってしまった。これ絶対聞こえてたよね。
優香がお盆をそっと机に置いた。
「…………」
「…………」
さっきまで座っていた場所である、俺の隣へと優香が座ってくる。心なしかさっきよりも数センチ距離があるように思えた。無言。沈黙が痛い。心臓も痛い。
「あの、さ。聞こえてたよね?」
「うん……」
クソ……こんなはずじゃなかったんだけどな。でも、聞かれてたんなら、覚悟決めるしか、ないか。
優香の方へと向き直り、居住まいを正す。もうどうにでもなれ。
「優香ちゃん」
「は、はいぃ……」
口が変に乾く。舌が張り付いて、うまく回らない。めちゃくちゃ緊張してるのが自分でもはっきりわかった。
「ずっと好きでした。これからも、一緒に過ごしていきたいです」
遂に言ってしまった。なんと返答されるのか。それが怖かった。彼女が口を開くまでの一瞬が永遠に思える。
「……私もです」
「ぃやったぁ!」
ガッツポーズをする。比喩ではなく人生で一番嬉しい。優香の方を見ると、彼女は両手で顔を隠していた。耳まで真っ赤だ。
「え、えへへ……両思い、だったんだね」
「俺ばっか好きだと思ってた。三年間も会ってないし……」
「それはこっちのセリフだよ? そっちしか私の家知らないのに会いに来ないってことは、脈なしかなって」
「うわ〜マジで申し訳なくなってきた」
「まあ結果よければ全てよし! 許す! でも……」
彼女が俺の隣へとにじり寄ってくる。そして、腕と腕が触れ合う距離になった。
「……ねえ」
耳元で小さく囁かれる。背筋がゾクゾクして、鳥肌が立った。
「ちゃんとまだ、言われてないよ?」
「な、なにを?」
「付き合って、って」
火がついたかのように顔が熱い。汗腺が開く感覚と共に、汗が全身から吹き出る。恥ずかしさと彼女への好きという気持ちと、幾らかの邪な煩悩のせいだった。
「……付き合ってください。俺の、彼女になってください」
「……んふ。んふふふふ」
彼女はまた、満足げに口元を隠しながら笑った。返事は必要なかった。そしてその顔は、トマトみたいに真っ赤だった。
こうして、俺こと北村宗也の初恋は成就したのだった。




