第110話 神界、騒乱の兆し
オリンポス神殿、試練の間――
グウオォォーー!
耳をつんざくような轟音が、冷徹な石造りの広間に鳴り響く。
その咆哮は空気を震わせ、並みの者ではその圧力だけで、膝を屈したことだろう。
そして次の瞬間には――
ゴォォォーーー!
豪快な三本の炎の柱が、逃げ場を塞ぐようにして、ある一点を捉えようと噴き出した。
「わっ、ちょっとぉ!熱いって言ってるでしょ!」
その紅蓮の渦を紙一重で回避したのは、空中を舞うアテリスだった。
彼女の背後で、三頭竜ズメイが、その三つの口から絶え間なく殺意の炎を吐き出している。
「もうっ、ズメイはこれだから嫌なの!しつこいんだから!」
アテリスは空中で毒づきながら、
「これでも、食らえっ!”光弾”」
手に宿した光の刃を連続で放つ。
光弾がズメイの胴体や首に次々と着弾し、硬質な鱗を砕き、肉を焼く。
しかし、ズメイの驚異的な生命力は常軌を逸していた。
傷口は煙を上げた次の瞬間には盛り上がり、新しい鱗が再生していく。
「嘘でしょ……今の、結構いい当たりだったのに。治るの早すぎっ!」
アテリスは額に汗を浮かべ、焦燥に駆られた。
このまま持久戦に持ち込まれれば、先に魔素が尽きるのは自分の方だ。
彼女は空中で急旋回し、ズメイの三つの頭が交差する瞬間を見定める。
(……こうなったら、一か八か、出し惜しみは無し!)
アテリスは空中で静止し、全身の魔素を右手に凝縮させた。
大気がバチバチと音を立て、彼女の周囲に不可視の重圧が広がる。
「まだよ。引きつけてから……」
ズメイの左の頭が噛み付こうと大きく口を開け、中央と右の頭が炎を溜める動作に入った。
その刹那――。
「今だっ!」
アテリスは全力を解放し、練り上げた魔素を叩きつける。
「”崩壊”!!」
漆黒の衝撃波が空間を裂き、ズメイの巨体を正面から飲み込んだ。
ギャアァァァーーー!!
断末魔のような悲鳴が試練の間に木霊する。
ズメイの巨体は床に叩きつけられ、激しい土煙を上げて動かなくなった。
「……やった……かな?」
アテリスは肩で息をしながら着地し、手首を振って熱を逃がす。
ようやく溜め息を一つ吐き出したその時だった。
「……冗談でしょ?」
倒れたはずのズメイの体から、禍々しいほどの魔力が溢れ出していた。
抉れたはずの胸部、千切れかけた翼が、目にも止まらぬ速さで蠢き、再生を始めている。
「死にぞこないが復活するなんて、聞いてないわよ!これはまずいって、反則だよ!」
アテリスは戦慄した。
全力を出し切った直後の自分に、これ以上の攻撃手段はない。
「あーもう、今日はここまでっ!」
彼女はズメイが完全に立ち上がる前に、脱兎のごとく試練の間の巨大な扉へと飛び込んだ。
「はぁ……。まったく、試練の間ってば、野生の魔物を強化するわ、生き返らせるわ!嫌がらせにも程があるわよ」
扉の外に転がり出たアテリスは、乱れた服を整えながら愚痴をこぼした。
神殿の廊下を歩きながら、独り言が止まらない。
「でも、ズメイに勝たない限り、アイツは倒せない!よーし、見てなさい。次は絶対にボコボコにして、その次はゼルヴァスよ!!」
アテリスは拳を天に突き上げ、気合を込めて叫んだ。
しかし、その声は静まり返った廊下に予想以上に響き渡る。
「……誰を倒すだと?」
冷ややかだが、どこか若さの滲む声が響き、アテリスは石のように固まった。
振り返ると、そこには二人の神が立っていた。
軽薄さすら感じさせる整った顔立ちに、金の装飾を纏った青年――オーレアス。
その一歩後ろに、腕を組み、無言で睨みつける大柄な男――ガストリアス。
どちらもアテリスと大して年の変わらぬ、しかし神殿内で台頭しつつある若き神である。
「オ、オーレアスに、ガストリアス……。えーと、これはその、気合を入れようと思って……」
「気合、ねぇ……」
オーレアスは口元を歪め、興味深そうに一歩踏み出す。
「今の、ずいぶん物騒な名前が混じっていた気がするけど?聞き間違いじゃなければ、だけど」
その軽い口調とは裏腹に、視線は鋭くアテリスを射抜いている。
ガストリアスが低く言葉を挟む。
「……ゼルヴァス」
一言だけ。だが、それだけで場の空気が凍りつく。
「な、何でもない!叫ぶのにちょうど良かったというか、なんというか……」
しどろもどろのアテリスに、オーレアスは肩をすくめてみせる。
「へぇ。あの“名前”が、ねぇ……便利な掛け声だ」
くすり、と小さく笑うが、その笑みはまったく目に届いていない。
「とぼけるのは構わないけどさ。こっちは前から君たち兄妹、ちょっと怪しいと思ってたんだよね」
と、わざとらしく溜めを作り、声の調子を一段落とす。
「このまま知らないふりを続けるなら……正式に神判にかけることもできるけど?」
ガストリアスが一歩前に出る。床が鈍く鳴る。
「……従え」
短い一言。
だが圧だけは十分だった。
アテリスは唇を噛んだ。
兄のサイヴァスまで巻き込まれるわけにはいかない。
彼女は観念したように、消え入りそうな声で白状した。
「……ゼルヴァスが……復活した……」
一瞬の静寂。
「……は?」
オーレアスの表情から、軽薄さが完全に消えると、
「……本気か?」
と呟き、視線を落とした。
ガストリアスの目も、明確な殺気を帯びる。
「……冗談じゃない」
オーレアスは舌打ちし、即座に踵を返す。
「これは上に投げる。僕たちの手に余る案件だ」
「……急ぐ」
ガストリアスも短く応じる。
二人はそれ以上アテリスを見ることもなく、足早に廊下の奥へと消えていった。
アテリスはその場に座り込み、両手で顔を覆う。
兄にあれほど”他言無用”と言われていたのに。
自分の口の軽さが嫌になる。
しかし、しばらく、この場を動かなかったアテリスの後ろから不意に声がかかった。
「……アテリス?そんなところで何をしているのですか」
ギクッ――。
アテリスは聞き覚えのある声に驚くと、恐る恐る振り返った。
するとそこには、サイヴァスが、いつものように優しく笑って立っていた。
「あ、兄上……!」
驚きで思わず後ろに倒れ込むアテリス。
「何かあったのですか?」
首をかしげるサイヴァスの足元に、アテリスは滑り込み土下座をした。
「申し訳ございませんっ!ゼルヴァスの復活、オーレアスとガストリアスにバレてしまいました!」
これまた大きな声……。
サイヴァスは、一瞬、真顔になるも、すぐに元の笑顔に戻った。
「それですか……どうしてバレてしまったのですか?」
アテリスは冷や汗がたらたらと流れっぱなしである。
「じ、実は、大きな声で独り言を……つい、ゼルヴァスの名前を出してしまい……」
顔を少し上げ、ちらっとサイヴァスの顔色をうかがうアテリス。
すると、サイヴァスは、膝をつき、アテリスの頭を撫でると、
「もう少し声のトーンを押さえるといいでしょう。以後、気をつけましょうね」
と、優しく答えるサイヴァス。
「えっ、兄上は、怒ってない?」
アテリスが顔を上げると、彼は困ったように眉を下げて微笑んでいた。
「ええ。起きてしまったことは仕方がありません。それよりも、そんなに汗をかいて……。”例のお気に入りの場所”へ行って、さっぱりしてきてはどうですか?」
意外なサイヴァスの言葉に、
「えっ!?あっ、うん。汗臭いもんね。じゃぁ、行ってくる!」
と言って、立ち上がり、その場を駆け出していく。
すこし行ったところで、後ろを振り返り、
「兄上、ごめんなさいっ!」
と笑顔で手を振って、再び走り去っていった。
サイヴァスは、軽く手を挙げて応える。
そして、サイヴァスはアテリスと反対方面へ歩き始めた。
先ほどまでの慈愛に満ちた兄の仮面は、すでに剥がれ落ちていた。
しばらく、神殿の長い廊下を音もなく歩いていくと、サイヴァスは彼の居室らしき部屋へ入っていく。
扉を閉じ、”神々”の視線すら遮断する結界を施すと、サイヴァスは部屋の最奥にある壁へと手をかけた。
隠し扉が音もなく滑り、その先にはさらに下へと続く、冷気に満ちた階段が姿を現す。
一歩一歩、静寂を踏みしめるように階段を下りた先には、神殿の華やかさとは対極にある、窓一つない秘密の部屋があった。
部屋の中央には、青白い魔力の光を放つ巨大な硝子の容器が置かれている。
サイヴァスはゆっくりとその前まで歩み寄った。
「…………」
サイヴァスは無言のまま、指先で冷たい硝子の表面をそっとなぞる。
硝子の向こう側――。
淡い魔素液で満たされたその容器の中には、一人の美女が、生まれたままの姿で静かに横たわっていた。
水中でゆらゆらと漂う長い髪と、陶器のように白く透き通った肌。
彼女はただ、永遠に続くかのような深い眠りの中に閉じ込められている。
サイヴァスは何も語らない。
ただ、静かに、そして熱を帯びた瞳で、眠り続ける彼女の姿をいつまでも見つめ続けていた。
その表情は、二度と戻らない温もりを求めて、冷たくなった亡骸の側を離れようとしない孤独な子供のようでもあった――。




