八十三話
スミカは迷うことなく階段を上ると、長い廊下を進み、これまた迷いなく曲がった。スミカの方向感覚のよさは林の一件で知っている。一度来た所なら、もう頭の中に地図が出来上がっているのだろう。レイジは遅れないように足を速めた。
やがて一枚の扉の前でスミカが止まった。振り返り、レイジと目を合わせる。静かに礼儀正しく、だ。レイジが頷いて見せるとスミカは扉に向き直った。
コン、コン、コン。
素早く三度ノック。
中からの返事を待たずにスミカは入室した。慌ててレイジも続く。
四方を本棚に囲まれた部屋だ。その圧迫感で、実際の寸法よりも狭苦しく感じる。
本棚には実用書、論文や辞書が幅広い背表紙を向けて隙間なく収まっている。娯楽小説は一切見当たらない。
雪崩れかかってきそうな本の壁の中心にデスクがあり、そこに男が座っていた。
男は四十代後半、すらりとした体躯をカジュアルなスーツで小ざっぱりと整えている。きっちりと後ろに撫でつけた灰色の髪から気品が立ち昇る。
デスク上のモニターに向かって手振りを交えながら言葉を発している。耳にはワイヤレスヘッドホンがあり、誰かと会話中のようだった。
ここに突っ立っていていいものかと、レイジが不安に思い始めた頃、男はスミカたちに向けて人差し指を立てた。続いて手の平を見せる。一分、あるいは少し待て。そんなジェスチャーに見えた。
実際、一分としないうちに男は和やかに笑顔と共に通話を終了した。男の表情が面を被ったように引き締まったものに一変した。これが本来の顔なのだ。
スミカに何も言われていなくても、レイジは大人しくしていただろう。この迫力を前にはしゃげるのは無邪気な子供だけだ。
「約束の時間より、少し早い到着だ」
低音の声が室内に軽く反響した。男はジャケットのボタンを閉めながら立ち上がる。レイジは男の機嫌を損ねたのではないかと、彼とスミカの顔を交互に見た。スミカは気にした風もない。
「だが、遅れるよりは万倍もいい。ちょうど会議でね。お待たせした。その場に居合わせない会議は、妙な気疲れをするものだな」
「こちらの条件は整えたぞ」
スミカはなんだかぶっきらぼうな物言いだ。レイジの方がひやひやしてしまう。
男は首をすくめた。
「それを判断するのは私だ」
大股で二歩、レイジたちに歩み寄る。
「ゆっくり腰掛けてと言いたいところだが、あいにくここには椅子がない。次の会議が差し迫っていることだし、ここは要望通りに手っ取り早く済ませようか」
そう言うなり、男はレイジをじろじろと、それこそつま先から頭頂部までを舐めるように観察した。その居心地が悪いこと。後ずさりして回れ右をしたら、すぐさまドアから飛び出したい、レイジはそんな気持だった。




