四十四話
かぽーん。
レイジは脱衣所で服を脱ぎ捨てると、温泉に特攻した。
「おー、なかなか広いんじゃん」
周囲を竹の柵で囲まれ、お世辞にも景観がいいとは言えないが、空には満天の星。脱衣所の壁についたランタン型のランプがぼんやりと湯けむりの空間を浮き上がらせていた。
軽く体を流し、お湯に浸かる。熱めのお湯だ。効能は知らないが、あったまる、癒されるー。一日の疲れがお湯に溶けて流れていくようだ。
頭にタオルを乗せてぷかぷか脱力していると、脱衣所のドアが開いた。
「お、おまたせ……」
アンリだ。だが様子が変だ。
湯けむり越しでもはっきりわかるぐらい顔を真っ赤にして、バスタオルを体にぐるり巻きつけている。足取りは妙に内股だ。
これじゃあ、まるで……。
いや、まるでじゃない。タオル越しにわかる、あの丸みを帯びたライン。アンリは女だ。間違いなく、疑いなく女だ。
レイジは素早くタオルを腰に巻いた。マナー違反? それどころじゃないんですよ!
ちゃぽんとつま先がお湯にくぐる。アンリが巻いたタオルの丈はそんなに長くない。いかん。とっさに体を反転させた。
やばい。やばいぞ。
ズボンとネクタイをつけていたから男だと思っていたが、あれは彼女のアレンジなのだ。それがアリかどうかはともかく、笑顔や近くに寄られてドキドキするわけだ。女なんだもん。
そして一番の問題は、
『アンリに何かあればパンチ百回だからな』
とスミカに釘を刺されていたことだった。記憶力がいい方ではないが、はっきりと声つきで再生された。エコーありで。
これって、その何かに含まれますかね。
考えなくてもわかる。ポップコーンの底に破裂し損ねた固い豆が入ってるぐらいの確率でアウトだ。
スミカにお仕置きされる。おそらく命はない。
熱いぐらいのお湯に浸かっているというのに、レイジの体は背骨から急速に冷えていった。異様に冷たい汗が止まらない。
やばい。やばいぞ。
何がやばいって、やばいしか考えられないのがやばい。
ちゃぽちゃぽと音が近づいてくる。お湯がたぷんと波を立て、レイジにぶつかる。
うわー! アンリ、何で近づいてきたー!
もう、なんとか言い訳してお湯からあがるしかない。そうだ、そうしよう。
「あー、もうのぼせたかも。ここの温泉、ちょっと熱いなあ」
背中を向けながらアンリを回り込む。かなり怪しい動きだが直視するわけにもいかない。
よし、あとはお湯から出て一目散だ。
段差を上がろうとすると腰巻に抵抗がある。見るとアンリが端をつかんでいる。するっと結び目が解ける。
「きゃー!」
黄色い悲鳴を上げ、レイジはお湯に飛び込んだ。
「ア、ア、アンリさん、何をなさるので……」
動揺して怪しい丁寧語になってしまった。
「もう、強引に誘ったんだから、もうちょっといてよ……」
目を逸らし赤くなるアンリ。か、可愛い。
少しの間ぼーっと見つめてしまう。
ああ! ダメダメダメ! さっと背中を向ける。タオルも直してと。
背中合わせでお互い一言も発しない。
もうだめだ。沈黙も耐えがたいし、このままでは本当にのぼせる。失礼を承知で本当のことを話すしかない。
「あのさ、アンリ」
「なあに」
「俺、勘違いしてたんだ、君のこと男だって。温泉に誘ったのも、その勘違いが原因でさ。でも、君が男っぽいとか、可愛くないとかそんなんじゃなくて、単に服装で勘違いしたんだ。……本当にごめん!」
怒ったかな。怒るよなあ。
「知ってたよ」
けろりとした返事にレイジはぽかんとした。
「ええっ、勘違いに気づいてたの?」
「そりゃ気づくよ。バンのときから変だと思ってたんだ。それに六号くんが女の子を温泉に誘えるはずがないもの」
「そ、そっか。は、はは……」
ヘタレが功を奏した!
喜んでいいのかは心底微妙だ。
「でも、嬉しかったんだ。六号くんが仲良くなろうって言ってくれてさ。勘違いしてたってことは、それって僕のことを異性としてじゃなくて友達として見てくれてたんだよね。僕にはそれが嬉しかった。だから……恥ずかしかったけど温泉にも来たんだ」
レイジは何と答えていいかわからない。
「僕ね、そんなに裕福じゃないんだ。鈴ヶ森に合格したのはよかったんだけど、ここの学費はとてもじゃないが払っていけない。だから講義の合間に、食堂とか購買でアルバイトをしてるんだ。ほとんどずっとだよ。でも、そうしないと学費を払えない。鈴ヶ森にいられなくなっちゃう。……当然、友達ができなくてね。バイト最優先のよくわからない日々を過ごしてた。そんなときにスミカ様に出会ったんだ。『お前、ここの学生か。アルバイトにしてはいい働きをしている。私の奴隷にしてやろう』ってね」
何となく想像できる。スミカならそう言うだろう。
「ようやく居場所ができたはいいけれど、スレイ部にもなかなか顔を出せない。みんなはすっごくよくしてくれるし、親切だ。でも打ち解けてるのかなって、たまに心配になるんだ」
「その気持ち、わかるよ」
レイジもようやく部員のことが分かり始めてきた頃だった。
「そこに六号くんが現れた。僕なんかに積極的に話しかけてくれてさ、合宿で思いっきり仲良くなろう、だって。身の上話だってほとんどしたことないのに、するっと話せちゃってさ、君って本当に変わってる」
水面が揺れた。アンリがレイジの方に体を向けていた。隠れた片目が見えるように髪を掻きあげ、真っ直ぐにレイジを見た。
「勘違いがあったことよりも、君の一言がよほど嬉しかったんだ」
彼女の両眼を見るのは初めてだ。なんだろう、不思議な目だ。どこがと言われるとわからないが、なんだか吸い込まれるような不自然な深さを感じる。
「六号くん……僕が女の子でも、あの言葉を撤回したりしないよね?」
「もちろんさ。ただ、僕なんかーなんて言うなよ。アンリは魅力的なんだからさ」
アンリは十分赤かったが、さらにぼんと赤くなった。するりと髪が指を抜け、片目を隠す。
「う、嬉しい。君が嘘を言っていないって、わかるんだ。ありがとう……レ、レイジくん」
「おう、仲良くやってこうぜ」
何だか気恥しくなって、それ以上何も言えない。
それはアンリも同じようだった。温泉がちゃぱちゃぱ注ぐ音だけが湯けむりの中響く。
「僕、のぼせちゃったかも。もうあがるね」
色々見えそうだったので、レイジは背を向けた。
ぱたぱたと水の滴る音が余計に想像を刺激してしまうのだが!
レイジは鋼鉄の意思で首を固定した。振り向いたらスミカパンチ百発、振り向いたらスミカパンチ百発……念仏のように唱える。
危機は去ったか……?
だめだー! タオルを絞っているような音がする!
パンチ! パンチ、パンチ、パンチ! うおおー!
レイジはいつの間にか自分の頬を殴っていた。
しばらくすると脱衣所からアンリが声をかけてくれた。
クラクラするのは、のぼせたためだけだろうか。




