M-307 神殿の神官達を納得させるには
生物学、化学、物理学、ともに2日間ずつゼミを行って今回のゼミを終える。
少しは新たな学問の役に立ったと思いたいが、学生達にしてみれば謎が深まるばかりに違いない。
とりあえず科学の名目でやって良いこと悪いことをしっかり伝えたから、マッドサイエンティストが生まれることを少しは防ぐことができるに違いない。
カテリナさん程度なら、それほど問題は無いだろうな。パラケルスのような人物にはなって欲しくないところだ。
「どうにか終わったようですね。慰霊碑については、国王陛下自らが意匠を考えるとのことですが……」
「そんな事を考える人がいなかったのが不思議なくらいね。でもそうなると……」
「食肉業者や、漁業関係者も作ると思います。でも、悪い話にはならないでしょう。獣でさえ命を持っているのですが、獣を殺さねば私達は肉を食べることができません。私達の食事を提供してくれる命を軽んじないことに、神殿の神官も感心して賛意を示したと話してくれました」
ゼミを終えた翌日は、朝からのんびりとコーヒーを飲んでいる。
フレイヤ達は、ヒルダ様の勧めでどこかの貴族館に出掛けたようだ。数日間の練習の成果を試して来いってことなんだろうな。
さて、どんな表情をして帰ってくるんだろう? ちょっと楽しみだな。
「リオ君は、明日は別荘に向かうんでしょう?」
「ええ、できればこの館でのんびりしたいところですが、フレイヤ達も我慢の限界だと思いますからね」
フレイヤ達と買い物に行ったときに、ちゃんとハンモックを買い込んできたんだよね。
これを森に吊るして、のんびりと昼寝が出来ればなぁ。
「メープルが教えてくれたんだけど、彼女と一戦したんですって?」
「ちょっと体を解す程度ですよ。とりあえずは引き分けです」
「メープルは、『私が弾かれたにゃ!』なんて言ってたけど?」
「体重差がありますからね。メープルさんがナイフを持ったら、俺が倒れていましたよ」
俺達の話を聞いて驚いているのは、ユーリルさんだった。
口をパクパクさせているんだけど、そんなに驚くことなのかな? メープルさんだって全力で俺に当たっては来なかったけど、俺の方はかなり本気だったんだよなぁ。
「メープルの攻撃に反撃できるなんて……。ここだけの話にしておきますわ」
「姿なき暗殺者……。宮殿内ですれ違うことも多いけど、メープルの攻撃を避けた者は今まで無かったことよ」
「そうでしょうね。まったく周囲に溶け込んで攻撃してくるんですから。その上に素早いと来てますから、狙われたら最後という感じもします」
「メープルの動きを見切ったの?」
タバコに手を出しながらカテリナさんが問いかけてきた。
「最初から目で追うことを止めました。目を閉じれば、殺気を感じることができますからね。攻撃の意思があるなら、真後ろから近づいてきても分かります」
2人が顔を見合わせて、溜息を吐いている。幸せが逃げなければ良いんだけど……。
「格闘を教える道場主が、そのような話をしていたと聞いたことがあるけど……。殺気って感じることができるの? ましてや、その位置と動きまで分かるなんて!」
「メープルは暗闇でも動けると聞いたことがあります。メープルもそのような感覚器官を持っているのでしょうか?」
「さすがに、それは無いんじゃない? でも長年にわたって生死の狭間を生きてきた人間には私達には分からない何かの感覚が生まれるのかもしれないわね。リオ君の言う、進化というものとは異なるもの、そうね……、突然変異ともいうべき新たな能力の獲得ということも考えられるわ」
さすがに、突然変異種扱いされるとは思わなかった。
だが、進化の段階ではそれが起こった可能性だってあるからなぁ。穏やかな進化ではなく、ある時突然に今まで持たなかった能力を持った個体が増え始めると、それまでの種を一掃してしまいかねない。
たぶん、20億年も続く生命の歴史の中で、それは何度も起こったに違いない。急激な環境変化辺りが起因になったのだろうが、その都度新たな能力を開花させて、今日の俺達がいるということをカテリナさん達は理解することができるのだろうか……。
「その内に、賭けが行われたらと思うと、ちょっと嬉しくなってしまうわ」
「勝利者があらかじめ分かってしまうのも……」
2人が笑い声を上げ始めた。
そんな賭け試合が行われる時には、何か理由を付けて断っておくに限るな。
「ところでカテリナさんは、一緒に別荘に行かないんですか?」
「残念なことに、導師と約束があるのよ。それに学生からの質問書だって目を通さないといけないわ。とはいえ、結構面白いのよね」
「私も読ませて頂きましたが、確かに素朴な質問ではあるのですが、私にはどのように解答すべきか悩んでしまいました。理論的に答えるということはかなり難しいですし、私にはその知見が無いことを改めて知った次第です」
「私も似たようなものだから、あまり気を落とさない方が良いわよ。世の中は不思議で満ちている……、ということがよく分かったわ」
なぜ虹は7色なのか……。答えは光の屈折なんだけど、それを突き詰めていくと光学という1つの学問になるからなぁ。
光学はどの部門から派生するかも楽しみなところだ。望遠鏡がこの世界にはあったし、顕微鏡は俺達が供与した。種を撒いた以上、誰かが興味を持つことは間違いなさそうだ。
「私は、国王陛下と内輪の話をしなければなりません。リバイアサンの神官ではありますが、そろそろ所属する神殿を明確化せねばならないようです」
「大変ねぇ……。でも、リオ君を襲った神殿ということにはならないわよね?」
「神官が人を背中から刺す等あってはならないことです。関係者は闇に葬られたということですが、今でも土の神殿の高位神官達は心休まることは無いでしょうね」
メープルさんが動いたのかな?
ここで暮らすようだから、宮殿内の空気は少し和らいだかもしれないな。とはいえ、国王陛下の密命を受けたら、情け容赦なく命を刈り取りに出掛けるに違いない。
「あの神官達は土の神殿の関係者だったんですか。俺達を恨むことは無いんでしょうね?」
「シンパは全て捉えたそうよ。ウエリントン王国では活動を続けるのは無理じゃないかしら? ブラウ同盟の他の王国もアジトを襲撃したらしいわ。非人道的な魔道科学の研究は神殿としても弁解の余地は無いから、軍の暴挙を黙って見過ごすことになったらしいわよ」
「触らぬ神に祟り無し……、ですか。自分達の神殿に集う神官では無かったのですか?」
「神殿の地下に秘密の集会場や施設をいつの間にか作っていたみたい。さすがに神殿の神官長が知らないことはないと思うけど……。彼らも人間だという事ね」
数日も過ぎれば無かったことになるんだろうな。それも悲しい話だけどね。
とりあえず俺達に害がなければ十分だ。
世の中広いからなぁ。非人道的だからといって、厳しく取り締まればどんどんと社会の下の世界に潜っていってしまうだろう。
「たぶんコリント同盟も同じような行動を取るでしょうね。何といってもリオ様は英雄ですもの」
そう言って、コロコロと笑うのは、王宮の謁見の間での出来事を誰かに教えて貰ったに違いない。あの時、ユーリル様はいなかったんだからね。
「それでは私は先に失礼します。慰霊碑の話と私が所属する神殿となれば、結構長い話になりそうですが……」
「あまり大げさなものでない方が良いですよ。学府の片隅にひっそりと建てた方が風情が出ると思います」
「そうは行かないようです。どこから聞いたのか分かりませんが、神殿の方から是非とも我等に……、と嘆願が続いているようです」
「学生達から漏れたのかしら? まあ、それだけ神殿の名を売れると考えたんでしょうね。でも纏まらないなら、リバイアサンの神像を模しても良いかもしれないわ。古代帝国の科学を復興するんですもの、古代帝国の神を使っても良いように思えるけど?」
それもどうかと思うな? 思わず出た苦笑いを知られぬようにマグカップのコーヒーを飲む。上手く誤魔化せたかな?
だいたい、祈祷所にある少女像もリビングに置いてある神像も、名前すら分からないんじゃないか?
名を持たぬ神に祈るのもねぇ……。
「かつての帝国の神といえば……、戦の神であるレマルス神や光のベールで死者を包み天国へと誘うオーロラ神は、案外知る人が多いようですね」
「祈祷所の少女像か、リビングの女神像をオーロラ神と言って慰霊碑に刻めば神殿も諦めざるを得ないかもしれないわよ」
「それって、詭弁も良いところですよ」
「女神なんて誰も見たことが無いんだから、十分だと思うけど?」
とんでもない詭弁だと思うけどなぁ。
だけど、ウエリントン王国にある4つの神殿は帝国時代以降に信じられるようになった神を祭っていることも確かだ。
自分達が信じる神よりも古い神なら、誰も文句を言えないということになるんだろうか?
まぁ、どちらの像も神々しく思えるのは確かなんだけど……。
「皇帝陛下が悩んでいるようなら、カテリナ様のアイデアを教えてあげましょう。リオ様もよろしいですね?」
「まぁ、要は信じる心が大切だろうし、犠牲となった獣達の魂の安らぎを学生達が祈る心を持てれば十分だろう。でも、そうなるとリバイアサンから少女像もしくはリビングの女神像を運びだすことになるのかな?」
「彫刻家を呼んで、模写させれば良いわ。さすがに複写ではあの像を再現することは困難でしょうね。それほど精密な彫刻なのよ」
模写か……。像だから、模造ということになるのかな。
あまり祈祷所には行ったことがないけど、少女像が無くなったらリバイアサンで暮らす信仰心の厚い連中が悲しみそうだ。リビングの女神像は、フレイヤ達が売ったらかなりの値段になると評価しているからなぁ。寄付などしたら、取り返しに行きかねない。
「それでは行ってきます。良いアイデアを頂きありがとうございます」
「上手くやるのよ。頑張ってね」
策士2人が笑みを浮かべている。
俺も流されないように注意しよう。ユーリル様も案外行動的なところがあるようだ。
「さて、2人でのんびり楽しもうと思ったけど、休暇が終わってからで良いわね。私も学府に向かうわ。休暇が終われば私とユーリルは飛行船で戻ることにするわね」
「しばらくお別れですが、学生の質問書をまとめてくださいよ。1人1件、1枚に疑問をきちんと書くように言いつけましたから、少しは彼らの課題が見えてくると思うんです」
うんうんと頷いている。
学生からの質問は1件だが、それに絡んだカテリナさんや導師の疑問も付け加えられているから、俺のところに来る質問が2倍以上になりかねない。
できれば類似の質問をまとめてくれるとありがたいんだけなぁ。