M-306 学生達と (4)
血液の概要を説明して、赤血球と白血球を顕微鏡で見せてあげた。
アリスの用意してくれた接眼レンズはカメラのようになっていて、プロジェクターに顕微鏡で見ることができる世界を、映像で映し出してくれる。
「あのウネウネ動いている生物が血液に入っているの?」
「きわめて重要な役目をしてるんですよ。この顕微鏡でも見えないような小さな病原体を、あの白血球は捕食してくれるんです。彼らがいないと直ぐに病魔に襲われてしまいます」
「私達の体の中に、別な生物がいるのね……。確かに共生してるということになるわ」
「循環器系だけでなく消化器系でもいろんな微生物が共生してますよ。彼らと共に俺達は生きているんです」
「血液はなぜ赤いか……。あの赤血球が赤いからなんだ。赤血球が全身の細胞に酸素を届けてくれるのは赤血球の持つ鉄イオンに酸素が結び付くことによる。早い話が赤錆の色になるということだね。
それともう1つ。俺達は進化の途中で赤血球を得ることができたが、中には他の生命体を取り込んだ連中もいる。代表的なのがカニの仲間になる。彼らの血液は青になる。それは銅イオンを使って酸素を運搬するからということになる」
「血液だけでも、分類をすることができるということですね」
「そうなるね。血液だけでも奥が深い。俺達の体重の約十三分の一が血液の量らしい。その三分の一が失われたら俺達は生命活動を維持できない。怪我をした場合はなるべく早く出血か所を押えて【サフロ】を唱えることだね」
本当は系統樹に関しての議論になるはずなんだが、あちこち脱線してしまうのは諦めるしかなさそうだ。それで学生達の知見が広がるなら問題は無いだろうし、興味も出てくるみたいだからね。
興味と好奇心こそが、研究を進めるための必遂条件かもしれない。結果を文章にまとめる能力も必要だろうが、それは誰かに代わって貰うことだってできるはずだ。
本日最後の話は、食物連鎖の話になってしまった。
「生産者に消費者、それに分解者ですか……。畑で野菜や穀物を育てる農家のようなものですね。それを消費するのは都会に住む私達とも例えられますが、分解者はどんな存在になるんでしょう?」
「人間の暮らしに例えると、不要になった機材を引き取りゴミと再使用できるものとに分ける仕事だろうね。とりあえずこの3つはこの矢印で示すように密接に関わっている。面白いことに、この関係はこんな三角形でも示すことができるんだ。
生産者より消費者の方が少ない。さらに消費者の中にも上下関係が存在する。系統樹の枝を議論する時には、この関係も関わってくるかもしれないよ。
さて、今日の話はここでお終いにしよう。明日は朝食の後に再びここで話をしようと思う。あまり遅くまで議論を戦わせると眠れなくなるぞ。……それでは、失礼するよ」
俺が席を立つと、学生達が一斉に椅子から立ち上がった。
グラフマンの号令で、一斉に俺の頭を下げる。彼らに片手を上げて挨拶とし、会議室を後にする。
時計を見ると、すでに22時を過ぎている。
フレイヤ達は帰っているだろうな。作法の復習らしいけど、リバイアサンの暮らしですっかり忘れてるんじゃないか?
リビングに入ると、誰もいなかった。
メープルさんがワインのグラスを渡してくれたので、フレイヤ達の様子を聞いてみると、帰ってくるなり風呂に入って寝てしまったそうだ。
「かなり疲れた様子だったにゃ。明日は少しは良くなるかもしれないにゃ」
「育ちが育ちですからねぇ。それにエミーだって第2離宮で暮らしていた当時は光を失っていましたから」
「それを何とかするのがヒルダ様にゃ。1年も経てば立派な淑女にゃ」
さすがに1年では無理があるんじゃないか?
そんな思いでワインを飲んでいると、カテリナさんがリビングに入ってきた。
「ご苦労様。メープル、私にもお願い」
「直ぐに用意するにゃ」
メープルさんからワインのグラスを受け取ると、一口飲んで俺に顔を向ける。また、変な質問をしてくるのかな?
「中々面白いゼミだったわよ。キュリーネが感心してたから、次のゼミの参加資格を巡って抽選会の参加者が増えることは間違いなさそうね。リオ君との問答を記録に取ってあるから導師にも読ませてあげるわ」
「あんな感じで良かったんでしょうか? だいぶ脱線していたように思えるんですが?」
「そもそも、これで良いという学問ではないし、魔道科学のように決まったことを覚えさせることを重視するわけでもないでしょう? どちらかというと学生達に自ら進む道を切り開かせようとしてるんだから、キュリーネが感心するのも分かるわ」
なら、明日も今日と同じような対話形式で進めよう。
たぶん、下の階は大騒ぎしてるんじゃないか? 明日の朝食時に遅れないで来れるのは何人だろう?
「フレイヤ達は先に寝たのかしら?」
「メープルさんによると、疲れてぐっすりだそうです」
「なら、今夜は私だけね……」
テーブル越しのソファーから俺の隣に移動してきた。肩に頭を押し付けてワインを飲んでいる。カテリナさんこそ、ヒルダ様の作法教室に通うべきだと思うんだけどなぁ。
「顕微鏡の下でしか見えないような、小さな生物を探すのは結構難しそうね。キュリーネが学府の池の水を調べているようなんだけど、中々見つからないと言ってたわ」
「こんな道具を使えば、結構捕獲できるんですよ」
細かなネットの後部に試験管を取り付ければ、簡単なプランクトンネットができる。
メモに概略を書き込むと、カテリナさんが笑みを浮かべて白衣のポケットにしまい込んだ。
「虫を捕まえるのと原理は同じという事ね。これならキュリーネも自作できるでしょう」
「低倍率用の顕微鏡も欲しいところですね。後でアリスに頼んでおきます」
ミジンコを見るだけなら20倍でも十分だろう。観察するとなれば、体構造も見たいはずだ。低倍率から最大200倍ほどの実体顕微鏡が使えそうだな。化学を専攻する連中は岩石にも興味が向かうだろうから、彼らにも必要だろう。現地調査用にハンディ型の顕微鏡も何個か必要かもしれないな。
「微小生物の研究は、いろいろと役立つかもしれませんよ。学府の池には魚も住んでいるんじゃないですか? その魚に餌をあげることはあまりないと思いますが、それなりに育っているはずです。では魚は何を食べているか……」
「小さな生物という事ね。……そうなるとかなりの数がいることになるわね。その小さな生き物は、リオ君の説だと、他の生物を食べるんでしょう? 最下位に位置する生物は何を食べるのかしら?」
「キュリーネさんが最下位となる生物を見付けると思いますよ。彼らが必要なのは、魚の排泄物と太陽の光です」
「植物? そんな小さな植物もあるってこと!」
驚いているカテリナさんに、顔を向けて頷いた。
まだ、ポカンとした表情をしてるけど、生態系がきちんと維持されているのなら池の魚も元気に育っているんじゃないかな。
だけど、魚が育ち過ぎると、生態系が崩れるはずだ。その時は魚の数が減るに違いない。
カテリナさんとシャワーを浴びながら、生態系について話をする。
土の中の生態系、海の生態系、陸上の生態系……。いろいろあるなぁ。弱肉強食の世界ではあるんだが、それらが複雑に絡んでくる。
「なるほどねぇ……。キュリーネがライフワークにすると言っていてけど、キュリーネノの一生を使っても終わることはなさそうね。しっかりと後継を育てるように言っておくわ」
「同志が増えれば、それだけ見えてきますよ。でも、謎も増えるんでしょうね。俺にも分からないことがたくさんありますから。ところで、カテリナさんは何を専攻するつもりなんですか?」
俺の問いに、体を寄せてくる。俺の耳元で囁いた言葉は、総合科学という言葉だった。
思わず、カテリナさんの顔を見てしまった。
確かに学生達は、いろんな分野を後ろも見ずに突き進むに違いない。
そうなると、相互の調整を誰がどのように行うかが問題になりそうだ。それに、学問の成果を実践するには、いろんな分野の最新の学問を熟知している必要もあるだろう。
「大変ですよ。でも、是非とも行って欲しいですね」
「リオ君を頼りにできるでしょうし、ガネーシャのところから1人引き抜こうと思うの。ガネーシャは現状の魔道科学で十分満足しているみたいだし」
自分の後継ということかな?
途中で逃げ出さないか心配になってくる……。何といっても、カテリナさんだからなぁ。
シャワーを出ると、大きなタオルで一緒に包まりながらリビングに向かう。
下の階は、学生達がまだ騒いでいるようだ。思わず、カテリナさんと笑みを交わしてしまう。
「たぶん明け方まで、討論を繰り返してるんじゃないかしら? 明日は、いろいろと質問がとんでくるわよ」
バスタオルから、裸で抜け出したカテリナさんがワインの入ったグラスを運んできてくれた。
少しは羞恥心を持った方が良いと思うんだけどなぁ。
グラスを受け取りながらそんなことを思ったけど、いまさら変わることは無いんだろう。
「科学に!」
ワインのグラスをカチン! と合わせて一息に飲み込んだ。
途端に、体が熱くなる……。やられたか? 油断してしまったようだ。
毒ではないから、アリスも警告を出してくれないんだよなぁ……。
「さて、夜はこれからよ……」
カテリナさんが笑みを浮かべながら、バスタオルの中に潜り込んでくる。
カテリナさんを抱き寄せると、ソファーの上に倒れ込む。できればゆっくりと眠りたかったなぁ……。