# 第四章 # 「母の記憶、消えない味」
# 第四章
# 「母の記憶、消えない味」
雨の日が続いていた。
春風マンションの廊下は湿っぽく、
どこか静かだった。
朝六時。
修司はキッチンで味噌汁を作っていた。
ぐつぐつ。
小さな鍋から湯気が立つ。
冷蔵庫には、
節約のために買った豆腐と卵。
最近は、
介護費用も増えていた。
「修司ー?」
奥の部屋から声。
「はいはい」
修司はエプロン姿のまま向かう。
母は布団の上に座っていた。
少し不安そうな顔。
「今日、お父さん遅いの?」
修司は、一瞬だけ目を閉じた。
最近、この質問が増えた。
父は十年前に亡くなっている。
でも母の中では、
時々“まだ生きている”。
「……今日は仕事だよ」
「そう……」
母は小さく頷いた。
その顔を見るたび、
修司の胸は締めつけられる。
嘘をついている気持ち。
でも。
本当を言えば、
母は混乱して泣いてしまう。
どっちが正しいのか、
修司にはもうわからなかった。
昼。
管理人室。
修司は修繕会社からの見積書を見て頭を抱えていた。
「高い……」
給水管の老朽化。
外壁補修。
エレベーター点検。
築三十五年。
春風マンションは、
少しずつ限界が近づいていた。
その時。
ドンドン!
勢いよく扉が開く。
「高瀬さん!」
田村静子だった。
今日も元気。
「はい?」
「お母さん、外にいたわよ!?」
「えっ!?」
修司の顔色が変わる。
慌てて外へ飛び出す。
雨上がりの駐輪場。
そこに。
母がぽつんと立っていた。
薄いカーディガン姿。
小さなバッグを抱えている。
「母さん!」
修司は駆け寄った。
「何してるの!?」
母は困った顔をする。
「……帰らなきゃ」
「どこに?」
「春風マンション、もう出ていかなきゃいけないから……」
修司は息を止めた。
「誰がそんなこと」
「迷惑かけちゃうから……」
母の声は震えていた。
その瞬間。
修司は気づく。
最近、
自分は余裕がなかった。
疲れていた。
イライラしていた。
母に、
きつい口調になることも増えていた。
母はきっと、
それを感じ取っていたのだ。
「……ごめん」
思わず言葉が漏れる。
すると。
後ろから傘が差し出された。
白石春菜だった。
「風邪ひきますよ」
春菜は自然に母へ傘を向ける。
「こんにちは」
母は少し驚いた。
「……どちらさま?」
「修司さんのお友達です」
春菜は優しく笑った。
その言い方に、
修司は少しだけ照れる。
母は春菜を見つめたあと、
ふっと笑った。
「綺麗な人ねぇ」
「えっ」
春菜が困る。
修司はもっと困る。
「母さん!」
「だって本当だもの」
久しぶりだった。
母が、
こんな風に柔らかく笑ったのは。
春菜はしゃがみ込み、
母の目線に合わせた。
「お昼、食べました?」
「まだなの」
「じゃあ、一緒に食べましょうか」
その言葉に、
母は少し嬉しそうな顔をした。
その日の午後。
修司の部屋。
食卓には、
簡単な卵雑炊が並んでいた。
春菜が作ったものだった。
「わぁ……美味しそう」
母が目を輝かせる。
修司は驚いていた。
最近、
母は食欲が落ちていた。
でも今日は違う。
「いただきます」
一口。
そして。
母の手が止まった。
「……これ」
春菜が心配そうに見る。
「どうしました?」
母は、
少し涙ぐんでいた。
「修司のお父さんが……昔、風邪の時に作ってくれた味……」
部屋が静かになる。
修司も言葉を失った。
父が生きていた頃。
確かによく作っていた。
卵雑炊。
修司は忘れていた。
でも。
母は覚えていた。
記憶が少しずつ消えていっても。
全部じゃない。
ちゃんと、
残っているものもある。
母は泣きながら笑った。
「懐かしいねぇ……」
修司は俯いた。
そして。
小さく呟く。
「……うん」
春菜は何も言わなかった。
ただ、
静かに隣で笑っていた。
夜。
春菜を見送る帰り道。
廊下には、
柔らかな春の風が流れていた。
修司はぽつりと言う。
「今日、助かりました」
「いえ」
「……最近、余裕なくて」
春菜は少し考えてから言った。
「一人で全部やろうとしすぎなんです」
「……」
「頼っていいんですよ」
その言葉が。
修司の胸に、
静かに沁み込んでいった。
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# 第四章 完
## 次回予告
# 第五章
「深夜二時のベランダ」
騒音トラブル再発。
怒鳴り合う住民たち。
そして修司は、
“外国人住民を追い出せ”
という厳しい声を向けられる。
その夜。
ベランダで一人泣いていたのは――。




