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# 第十三章 # 「行かないで、とは言えなくて」

# 第十三章


# 「行かないで、とは言えなくて」


夏祭りの翌日。


春風マンションは、

昨日の賑やかさが嘘みたいに静かだった。


中庭には、

片付け忘れた提灯が一つ。


風に揺れている。


修司は管理人室で、

ぼんやりコーヒーを飲んでいた。


頭の中は、

昨夜の言葉でいっぱいだった。


――この町、離れるかもしれません。


春菜がいなくなる。


考えるたび、

胸が苦しくなる。


でも。


「行かないで」


その一言が、

どうしても言えなかった。


昼。


修司は住民対応をしながらも、

どこか上の空だった。


「シュージさん?」


ラジェスが心配そうに覗き込む。


「顔、ワルイ」


「……そんなに?」


「恋?」


修司はむせた。


「ち、違う!」


ラジェスはニヤニヤしている。


最近、

妙に勘が鋭い。


すると。


後ろから田村静子が言った。


「わかりやすいのよ、あんた」


「田村さんまで……」


「好きならちゃんと言いなさい」


修司は言葉に詰まる。


簡単に言わないでほしい。


四十歳。


独身。


介護中。


夢もまだ途中。


そんな自分が、

春菜を引き止めていいのか。


わからなかった。


その夜。


修司は一人、

教員試験の願書を見つめていた。


締切まで、

あと三日。


ペンを持つ。


止まる。


また置く。


何度も繰り返す。


「……俺なんかが」


そう呟いた時だった。


コンコン。


扉が開く。


春菜だった。


「まだ起きてました?」


「はい」


春菜は、

机の願書に気づく。


「……出すんですね」


修司は苦笑した。


「迷ってます」


「どうして?」


「年齢とか」


「介護とか」


「今さら感とか」


修司は笑った。


自嘲気味に。


「普通に考えたら、無理ですよね」


すると。


春菜が、

少し怒った顔をした。


「高瀬さん」


「はい?」


「それ、自分で自分を諦めてる顔です」


修司は黙る。


春菜は静かに続ける。


「夢って、“若い人だけのもの”じゃないと思うんです」


「……」


「高瀬さん、子ども達と話してる時」


「すごく楽しそうです」


「それって、ちゃんと意味あることですよ」


修司の胸が、

少し痛くなる。


優しい言葉ほど、

今は刺さった。


だって。


春菜はいなくなるかもしれないから。


沈黙。


蝉の声だけが聞こえる。


修司は、

意を決して聞いた。


「……東京、行くんですか」


春菜は少し驚いた。


それから。


静かに笑う。


「まだ悩んでます」


「どうして?」


「ここが好きになっちゃったから」


修司の心臓が跳ねる。


春菜は、

春風マンションを見渡した。


「最初は、ただの古いマンションだと思ってました」


「でも今は違う」


「帰ってくると安心するんです」


その言葉が、

修司には嬉しかった。


同時に。


怖かった。


失いたくないと思ってしまうから。


春菜は続ける。


「高瀬さんは?」


「え?」


「ここ、好きですか?」


修司は少し笑った。


「前は嫌でした」


「問題ばっかりで」


「毎日苦情きて」


「人生終わってる気がしてた」


春菜も小さく笑う。


修司は、

ゆっくり続けた。


「でも今は」


窓の外を見る。


明かりのついた部屋。


笑い声。


誰かの生活。


「守りたいって思ってます」


春菜は、

嬉しそうに微笑んだ。


その顔を見た瞬間。


修司は、

胸の奥ではっきり気づく。


――この人と、

これからも一緒にいたい。


でも。


言葉が出ない。


怖かった。


失うのが。


その時。


突然、

外から大きな音がした。


ガシャン!!


「!?」


二人は飛び出す。


一階廊下。


そこには、

崩れた植木鉢。


そして。


うずくまる母の姿があった。


「母さん!!」


修司が駆け寄る。


母は震えていた。


「ごめんなさい……」


「外、出ようとして……」


修司は顔色を失う。


最近、

徘徊が増えていた。


限界だった。


介護。


管理。


夢。


恋。


全部を抱えるには、

修司はもう疲れすぎていた。


その時。


春菜がそっと、

修司の肩へ手を置いた。


「一人で抱えなくていいです」


修司は俯く。


悔しかった。


情けなかった。


泣きそうだった。


すると。


母が、

ぼんやり春菜を見上げて言った。


「……修司を、よろしくね」


時間が止まる。


春菜が目を見開く。


修司も固まった。


母は、

少し笑っていた。


昔みたいな、

優しい母の顔だった。


---


# 第十三章 完


## 次回予告


# 第十四章


「春風マンションの家族」


母の介護問題が限界へ。


修司は、

“施設に預ける”という決断に苦しむ。


そんな中、

春風マンション住民達が動き出す――。


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