「302号室の深夜騒動」
『春風マンション管理人日記』
第一章
「302号室の深夜騒動」
春風マンションは、築三十五年。
駅から少し離れた住宅街にある、五階建ての古いマンションだった。
外壁はところどころ色あせ、廊下の手すりには細かなサビ。
けれど。
夕方になると、ベランダに洗濯物が揺れ、どこか“人の暮らし”が感じられる場所だった。
そして――
その管理人を務めているのが、高瀬修司、四十歳。
独身。
婚活歴、六年。
結婚相談所、三社。
マッチングアプリ、挫折。
婚活パーティー、十五連敗。
現在。
人生にちょっと疲れていた。
「……はぁ」
夜十一時。
修司は、管理人室で頭を抱えていた。
理由。
三〇二号室。
また騒音トラブル。
「うるさい!!」
ドンドンドン!!
上の階から、天井を叩く音まで聞こえる。
修司はため息をついた。
「……行くか」
古びたサンダルを履き、廊下へ出る。
夜風が少し冷たい。
三〇二号室の前まで行くと、中から陽気な音楽が聞こえてきた。
ガチャ。
ドアが開く。
出てきたのは、二十代くらいの外国人男性。
「あ、シュージサン!」
片言の日本語。
ネパール人留学生のラジェスだった。
部屋の中には、友人らしき若者が五人ほどいる。
カレーの匂い。
笑い声。
音楽。
完全にホームパーティーだった。
「ラジェスくん……今、夜の十一時過ぎなんだけど」
「あっ……ゴメンナサイ」
素直だった。
でも。
後ろでは盛り上がっている。
修司は困った顔をした。
怒鳴れば簡単だ。
でも。
それで終わらせたくなかった。
「日本のマンション、壁が薄いんだ」
「カベ?」
「音、聞こえやすい」
「あ……」
ラジェスの表情が変わる。
本当に知らなかったのだ。
「国では、夜みんな集まる。普通だった」
「そっか……」
修司は少し黙った。
文化の違い。
言葉の違い。
生活の違い。
最近は、こういうことばかりだった。
ゴミ出し。
騒音。
共用部の使い方。
苦情の電話は、毎日のように来る。
正直、疲れていた。
だが。
ラジェスは悪人には見えなかった。
「今日はもう少し静かにしてくれるか?」
「ハイ!」
すると。
部屋の奥から、小さな女の子が顔を出した。
六歳くらい。
「……こんばんは」
たどたどしい日本語。
修司は少し驚く。
「こんばんは」
女の子は、恥ずかしそうにラジェスの後ろへ隠れた。
「妹?」
「イトコ。日本、来たばかり」
その子は、日本語のノートを抱えていた。
ひらがなが、ぎこちなく並んでいる。
“あ”
“い”
“う”
修司は、そのノートを見て、少し胸が詰まった。
――この子も、頑張ってるのか。
その瞬間。
修司の中で、
“迷惑な外国人”
という言葉が、少しだけ崩れた。
「……日本語、勉強してるんだな」
女の子は、小さくうなずいた。
「がんばってます」
その一言が。
なぜか、やけに心に残った。
帰り道。
修司は、自販機で缶コーヒーを買った。
冷たい風。
静かな駐輪場。
古びた春風マンション。
「……俺も、頑張らないとな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
すると。
後ろから声がした。
「その缶コーヒー、甘すぎません?」
振り向く。
そこには。
白いカーディガン姿の女性が立っていた。
長い髪を後ろでまとめ、
本を抱えている。
初めて見る顔だった。
「……え?」
「すみません。このマンション、今日から越してきました」
女性は少し笑った。
「白石春菜です。よろしくお願いします」
春の風が、静かに吹いていた。




