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無銘雑貨店 ~存在しなかった記憶の代償~【完結済】  作者: 伊勢吉


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第1話:存在しなかった思い出を売る店

【完結済】全15話一気読みOK!


本作は全15話にて完結しております。

下記のスケジュールで全話を公開いたします。


・1日目:第1〜5話(公開中)

・2日目:第6〜10話

・3日目:第11〜15話(完結)


最後まで駆け抜ける物語を、ぜひお楽しみください。

再開発予定区域として指定され、半分以上のシャッターが降りた旧商店街。街灯はまばらで、足元には湿った夜の匂いが淀んでいる。残業帰りの足取りは重く、俺はいつもの近道を通り抜けようとして、その場所に目を止めた。


看板はない。ただ、古びた木造店舗の格子戸から、琥珀色の柔らかな光が漏れている。


「……無銘雑貨店」


なぜだろうか。口に出した覚えもないその名前が、霧が晴れるように脳裏に浮かんだ。


立ち去ろうとした、その時だった。

格子の隙間から、押し殺したような、すすり泣く声が聞こえた。


他人の悲しみに、俺の心臓は過剰に波打つ。放っておけないという衝動が、理性を追い越した。


──時間の縁


引き戸を開けると、乾いた木の香りと、微かな埃の匂いが鼻をくすぐった。店内は、外の喧騒を完全に遮断していた。壁一面に整然と並ぶ、無数の硝子瓶。その中では、淡く光る粒子が呼吸をするように揺らめいている。


チ、チ、チ……。

古時計の音が部屋を満たしているが、その針は、俺のスマホが刻む時刻よりも数分遅れていた。


「いらっしゃいませ。ここが見えるのですね」


カウンターの奥から、静かな声が響いた。座っていたのは、年齢も、性別さえも判然としない中性的な人物だった。二十代前半にも見えるが、その瞳には数百年を積み重ねたような深い静寂が宿っている。店主は、俺の顔をじっと見つめ、微かに目を細めた。


「ここは、店、なんですか」


「ええ。思い出を売る店です。あるいは、正しく失うための場所、と言い換えてもいい」


その言葉の意味を問う前に、店の奥から一人の老人が這い出してきた。先ほどの泣き声の主だろう。


「……忘れたいんだ。これを持っていたら、私はもう、一歩も前に進めん」


──愛と、その抜け殻


老人は震える手で、色褪せた写真を握りしめていた。長い看病の末、一ヶ月前に亡くなったという妻の記憶。家中のどこを向いても、彼女が笑い、怒り、そして病に伏した記憶がつきまとう。それが老人の心を、今も病室のベッドへと縛り付けていた。


「本当に、忘れてしまっていいんですか」


俺は思わず口を挟んでいた。店主は咎めることなく、淡々と記憶の真実を告げる。


「記憶とは脳にある情報ではなく、精神エネルギーの残滓です。強い感情と結びついた記憶は結晶化する。それを抽出し、瓶に詰め、精神層から削除する。それがこの店の『売買』です」


店主が老人の胸元に手をかざすと、そこから淡い乳白色の光が引き出された。

瓶の中で、映像が明滅する。

朝陽の差し込む食卓。病室で交わした、最後のかすかな言葉。それらは宝石のように輝き、瓶の中に閉じ込められた。


「ただし、代償はあります」店主の声が少しだけ冷たさを増した。「消した記憶の質量は、世界のどこかで必ず補填される。あなたは軽くなりますが、その分、どこかの誰かが何かを失うことになる」


老人はそれでも「構わない」と頷いた。


──消えゆく輪郭


取引が終わった後、老人の表情からは重苦しい暗雲が消えていた。


「……不思議だ。何をそんなに悲しんでいたのか、うまく思い出せない。ただ、これでようやく、新しい部屋を探せそうだ」


感謝を述べて去っていく老人の背中は、以前より少しだけ透けて見えた。


「これでよかったのか」


俺の呟きに、店主は答えなかった。ただ、カウンターの下に隠すように置かれた、ラベルのない一冊の写真立てに目をやった。


その時だ。

棚の奥、ひときわ深く沈んでいた硝子瓶が、鋭い光を放った。

それを見た瞬間、俺の脳内に、焼き付くような激痛が走った。


――雨の音。

――アスファルトに広がる、暗い赤。

――動かない誰かの手。


「……っ」


膝をつく俺を、店主が揺れ動く瞳で見つめていた。その表情には、初めて人間らしい「痛み」が混じったように見えた。


「また明日も、同じ時間に通ってみるといい。あなたは、そうせずにはいられないはずですから」


店を出て振り返ると、そこにはただの古びたシャッターが閉まっているだけだった。

けれど、俺の掌には、何かの破片を握りしめたような、鈍い痛みの余韻だけが残っていた。

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