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お父様の話が切り上がり、部屋を出ていくとすぐに大きな影が降り掛かってきた。扉のすぐ外で待っていたベオウルフ様は、尻尾をブンブンと振っていた。表情一つ変わらず、普通ならその感情を読み取ることが難しいはずなのに。尻尾のせいでわかりやすいと思ってしまうのは私だけではないようだ。


「尻尾を振るな。娘をただの犬の元にあずけた覚えはないぞ」


「ああ。でも、二人からすごくいい匂いがする。匂いがこうも混ざり合うと、深い絆だと思わざるおえないですから」


「……シンシア、もしこの狼が嫌になったらすぐに帰ってきなさい。お前を幸せにしてくれるやつは他にもいるはずだからな」


さっきと話してくれていたことが真逆な気がするのだが。お父様が真剣に言うものだから、うなずくしかない。

すぐにベオウルフ様の尻尾が止まると、耳がペタリと垂れ下がった。


「俺の元にあずけてくれたのではないのですか」


キューン、と今にも孤独に泣きそうな彼に、お父様は鼻で笑った。面白がってお父様が笑うなんて、初めて見た。でもまあ確かに、大きくて体格のいいベオウルフ様がそんなに尻尾をしょげさせていたら可愛らしく思えてしまう。


「今一度、娘をよろしく頼む。ベオウルフ殿が言う通り、この子は賢くて、優しい子だ」


「ずっと共にいたいと何年も思い続けて、今もそう思っている相手です。どうか俺に全てを任せていただきたい」


頭を下げた父親が、私の背中を押した。いきなりのことでよろめいて、私はベオウルフ様の胸の中へと転んでしまう。硬い胸板は、獣人特有の逞しさだ。

軽々と受け取った彼は、そのまま背中に腕を回してきた。


「シンシア、お帰り」


「っっ………お、お父様、昼はここで食べていっていいとおっしゃりましたものね。私、もう少しここにいたいです」


やはり、彼に抱きしめられると変に胸が激しくなる。誤魔化すようにお父様の名を使って、話をそらしながら昼食をとることになった。


思えば、私は“お帰り”と言われたことや、あんなに強く“抱きしめられる”ことなんてヘレナ以外にされたことがなかった。

私を裏切った彼女の今後は、昼食の際にお父様から聞かされた。ベオウルフ様が捕らえた彼女の罪を聞いたお父様は少しだけ声を強張らせて。


「なんということをあの使用人はしたんだ。シンシア、これまで気付かなくてすまなかった。私はあの者がお前をかばってからというもの、ずっと信用していたが」


右目の裏に蘇る。

最後に見たお父様の顔は酷く歪んでいて、やってしまったことを酷く後悔するような顔だった。それからヘレナが慌てたように駆けつけて、私をかばうように抱きしめてくれて。

あの時の慌てようと言えば、ベオウルフ様が駆けつけてくれたのと劣らないほど早かった。そんな彼女を心から信用していたのはお父様も同じ。


「お父様、もし許してくださるなら、私にもう一度、ヘレナと話をさせていただけませんか」


「シンシア、君はあんな者と会話を試みるのか?あれからは君に対する嫉妬と攻撃の臭いがしたぞ」


「それでもです」


不安そうに耳を動かすベオウルフ様に答えると、お父様の方を見つめ返した。


「私はまだまだ未熟な娘です。ですからこの機会に、成長したいのです」


「あまりおすすめしないが、わかった。お前が言うなら捕らえている地下牢に案内してやろう。ベオウルフ殿も、娘についてやってくれ」


彼もうなずくと、昼ごはんを食べ終えてすぐに地下牢へと向かった。公爵家は国境で起きた犯罪を国際裁判にかける役割も持っている。だから地下牢という物騒な場があるのだ。

実のところ、フェンリル辺境伯家との交流は深く、グライフ王国の中では外務省をお父様は努めているのだ。

彼が獣人語を聞けるのも、思い直せば納得できた。それでも、流ちょうな獣人語はお父様がベオウルフ様の手紙を読み続けた賜物(たまもの)だろう。

屋敷の部屋の本棚裏に隠された通路を通る。レンガで敷き詰められた細い螺旋(らせん)階段を下へと下り、隠された地下牢へと足を早めた。

ランタンを片手に持つお父様の後ろをしばらくついていけば、すぐに彼女の姿が見えた。


「ヘレナ」


グライフ語で話しかけると、鉄格子の向こう側にいるヘレナの肩が飛び上がった。ベオウルフ様から与えられた恐怖は少し抜けたのか、こちらを(うかが)うようにして顔を向けた。


「私よ。シンシア・エストレリャ」


「お嬢様…?」


「そう。あなたにお別れを告げに来たの」


「ああっ、お嬢様もここに来られたということは、公爵様にあなたも罰を受けるということですね!」


喜びに満ちた彼女は、鉄格子の棒を握って口を大きく横に開いた。けれどそれはすぐに絶望の色に変わる。両脇にいるお父様と、それからベオウルフ様の存在を認知したから。

どちらに絶望をしたのかはわからない。


私がお父様と和解したことに残念がったのか。

はたまた、ベオウルフ様の恐怖がまた蘇ったのか。


「なんで……なんでお嬢様がっ…私よりも幸せになっているんですかっ!!私と同じであなたは不幸な人なのに!!」


ふりみだす髪は、しっかり者のヘレナの見る影もなかった。それでも私は、彼女に伝えたい。


「ヘレナ聞いて。私は不幸者なんて、一度も自分のことを考えたことがないわ」


「うるさい!!お嬢様は、可哀想で悲劇的な公爵令嬢で」


「それは違うわ。だって、私にはあなたがいたもの」


「……え?」


「あなたが私の母親だった。優しくて、温かくて、ずっと支えてくれたあなたがいつも側にいたから。だから私は、自分を不幸だなんて思ったこともないの」


大きく見開かれた彼女の目には、私の顔がよく映っている。右頬を大きく焼かれた酷い傷。何度も『いばら姫』とバカにされて、何度泣いただろうか。

死にたいと思ったこともある。言語の勉強を励んでもお父様にさえ認められず、苦しいときが何度だってあった。

政略結婚だと知らされたときも。それが愛がないものだと分かっていても、私は覚悟を貫けた。

それは全て、側にいてくれて背中を撫でてくれたヘレナがついてくれていたから。


「なぜ母親に捨てられたのか。なぜ私は不運にも『いばら姫』になってしまったのか。何度だって嘆いたことをあなたは他の誰よりも知ってくれているわ」


「そりゃそうですよ。泣き虫お嬢様に、何度夜を潰されたことだか」


皮肉交じりに言うヘレナの手を、私は握った。


「そう。その夜に私はいつも助けられたのよ」


「あははは!私はあなたの泣き顔が好きだからですよ。何を勘違いなさっているのですか?私はあなたの不幸さに」


「そうね、確かに勘違いかもしれないわ。それでも助けられてきた事実は変わらないの。あなたは私の母親だった」


この言葉を言うべきか。少し迷ったけれど、私はもう自然と口から発していた。


「ありがとう、お母さん」


確かに彼女からの裏切りには心をえぐられた。信頼していたからこそ、その分傷ついて。人を簡単に信頼してはならないという世間の愚かさを知らされた気分になった。それでも、彼女がずっと心のより所になっていたのは変わりない。

ガタガタと、鉄格子の音が静かに暗い地下牢に響く。

握っている手が震え始めて、彼女は耐えられないというふうに側に崩れ落ちた。格子越しでも、彼女の存在を確かに感じる。

鼻をすする音と、嗚咽(おえつ)して泣き声を知られまいと我慢する音。


「泣いているの?」


「泣いてなんかいるわけないでしょっ…このっ、『いばら姫』」


「ふふふ」


「あなたなんか、ウジ虫顔で、火傷跡が酷くて、馬鹿みたいにお人好しで。私なんかを許して、気はすみましたかっ」


「ええ、そうね。だってこんなふうに育ってしまったのは、あなたのせいだもの。あなたが私に向けてくれた思いからよ」


「っ……バカなお嬢様」


バカでも何でも構わない。だって、お父様が立派に育ったと認めてくれるまで、見守ってくれていたのは彼女だから。


「お嬢様、幸せになってください」


「もうとっくに幸せだと何度言えば分かるのよ。あなたに育てられて私は」 


「ではこれ以上です。お嬢様、これからはとても大変なんですよ。辺境伯の婦人があなたに務まるか、私には不安で仕方ありません。……でも、この世界にはその分、色んな幸せが散りばめられています」


ぎゅっと握り返してくれる手に、彼女の全ての思いが乗っている気がした。


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