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「ありがとう、ヘレナ」
地下牢から抜けて、また地上へ戻り、私は自分の胸に手を置いた。彼女の温かさがまだここに残っている。
私に対する優しさ全てが偽りだったとは考えられない。その中には少なからず、お父様と似たような私を思ってくれるところがあったのではないかと考えていた。
「シンシアはすごいな。俺はあの者が嫉妬と怒りの臭いにまみれていて、優しさの臭いなんて嗅げなかった」
「ベオウルフ様、臭いでなんかわからないことなどたくさんあるのですよ。人間というのは嗅覚が劣っていますから」
獣人よりもずいぶんと身体能力も五感も、何もかも劣っている人間。私達がコミュニケーションを取るときというのは、言葉と行為が鍵になってくる。
心がなければ言葉も行為も身になるはずがない。長いこと私の世話をするという、行動なんて続かなかったはずだし、慰めの言葉もすぐに意地悪く終わってしまうはずだ。
お父様もヘレナも、心のドアを中々見せてくれないだけで。その言葉も行為も、本当は心がこもっていた。
「人間は言葉と行為がなければ、何にも相手の心はわからないものです。ヘレナがずっと私を大切にしてくれていたから、裏切られても心の底から憎むことなんてできませんでした」
お父様が言葉とは裏腹に、私に思ってくれている心が深かったからこそ、今回の件を見つめ直せた。
「お父様も似たものです。ヘレナのように不器用で、遠回りすぎる」
「悪かったな。無愛想で」
「ふふふ。でも、お父様のおかげでその分、ヘレナの気持ちを理解することができました」
笑いかけると、父は何かモゴモゴと口を動かしてどこかへといってしまう。多分、私がありがとうと伝えるのを恥ずかしがってしまったのかもしれない。
人を褒めるのも苦手な父らしく、この場を逃げてしまった。
「全く…私の周りは素直じゃありませんね。皆、私のことを大切にしてくれていますのに」
「なら、俺は君にもっと実直な言葉と行為をかけることにしよう。君にもっと真っ直ぐに、伝わるように」
ベオウルフ様が少しだけ尻尾を振った。
この人は私に対して何百通という化け物じみた手紙を送り続けてくれて。その上、私を獣人にとっての番だと主張する。
十分伝わっているのだ、彼からの行いは。
もう、私の傷に触れることを許している時点で、気づかれてしまっても仕方ない気がするが。この胸の鼓動を聞かせるには、まだしばらく時間が必要だった。
「ダンナ、『黒天狼の牙』たちの準備が整ったっすよ!」
白銀のクロウが告げると、私達はすぐに屋敷の外へと向かった。すでに馬車の用意ができており、もう今にも出発できそうだった。
馬車の荷には、大量の書物も垣間見える。昼には帰れと言われているので、約束通り帰ってまた本の仕事をしなければ。
「シンシア」
「お父様!」
屋敷の外にまで、見送りに来たお父様が、私に向かって微笑んだ。
「竜語を学ぶと勘違いしてこちらに来たということだからな。公爵家の書物から、古いものだが何冊か入れさせてもらったぞ」
「ありがとうございます。最高のプレゼントです」
「そうそう、これだけは直接渡したくてな」
お父様が手渡しで渡してくれたのは、グライフ語の童話だった。絵本の表紙には、赤いずきんを被った女の子。それからその木の後ろで舌を出してよだれにまみれている狼。
「ガルルっ…それは『赤ずきん』かっ」
「これでベオウルフ殿に教えてやりなさい」
「でもお父様、狼が悪者として登場するこれでは」
「いいから。お前は何にも気にせずに、これをベオウルフ殿に“毎日”読み聞かせてやるのだよ」
「謀ったな、父親殿」
「狼について知ってもらえる良い機会だ。まだ私の娘は未熟だからな」
その時、バチバチとベオウルフ様の視線とお父様の視線が交差した。
狼とトラのにらみ合いには、私も手に汗握ってしまう。『赤ずきん』の本をもらうと、馬車に乗って本当の別れを告げた。
公爵家へと戻るお父様の背中は少し曲がっていて、いつもの威厳は抜けている。
あの屋敷においていってしまうという罪悪感があるが、お父様に託された仕事はこなしたい。辺境伯家に戻ったらすぐにでも翻訳の仕事に取りかかろう。
それにもっと、隣に座る彼のことを書き記さねば。
「ん?俺の顔になにかついているか」
「いいえ。私は狼族のことを何も知っていないと思いまして。ベオウルフ様は、私のことをもうたくさんご存知ですよね」
「そうでもないぞ。ほんの少ししかまだ知らない」
「本当にそうですか?お父様からいろいろ聞かされていたのではありません?私の傷のことも、それから母が不倫して出ていってしまっていることも」
今回の件で、彼はかなり私の周りについて私よりも理解しているような気がした。お父様と隠れて何度があっているような素振りだったし。でも彼は、たてがみのような黒髪を揺らして首を振った。
「人間の文化はまだわからない。クロウから聞いたが、どうやら人間というのは獣人と愛情表現も点で違うようじゃないか」
「まあ、それは確かにあるかもしれませんね。獣人は匂いをつけたり、体を寄せ合ったりするのが主だと本にもありましたが」
「そういうことが俺には少し難しいらしい。だから君が、教えてくれないか。言葉と行為を、君にたくさん教えてほしい」
「っ……」
それって、つまり、抱擁とか手をつなぎ合ったりとか、名前をたくさん呼び合ったりとか。
それから…キス…とか?
無理!絶対に、そんなこと私からできるわけ無い!
だって、顔に醜い火傷跡があるし、彼のように凛々しい男性を相手したことなんて一度もないのだから。
「ダメだろうか」
また捨てられた犬のような目で見てくるので、心がズキズキ痛くなる。
そこで私は、手元にあった『赤ずきん』の本を開いた。一文を指差して、ベオウルフ様に早速教える。
「“狼はおばあさんのことを”」
「シンシアの意地悪」
「ベオウルフ様が先に申し出したのですよ。ほら、ちゃんと文を見て読む!」
嫌がるベオウルフ様に、本をつきつけて読み聞かせてやった。その三角耳がますます垂れて可愛くなるまで。
お父様に救われた気分で、少しホッとする。この人に私が少しでも気を許していると思われては、何だか負けた気分になる。私はそんな簡単にほだされるような性格ではないのだから。
「でも意外と、君から聞く『赤ずきん』はいいな。うん…ぜひとも毎日読んでくれ。父親殿が言っていたように」
耳を抑えて嫌がっていたはずのベオウルフ様が、本を一度読み終える頃にはケロッとしていた。この狼、一筋縄ではいかないというのはお父様もご存知だろう。
なんせ、何百通もの手紙を送りつけてきたタフな狼なのだから。
「毎日ですか。なら『赤ずきん』と『七匹の小ヤギ』と『三匹の子豚』をそれぞ順番に」
「む…狼が悪者の童話ばかりじゃないか。俺のこと、イジメたいのか」
「いいえ。私はただあなたの教育に必要だと思っただけでございます」
我ながら『いばら姫』の異名は性に合っていると思う。誰よりも美しく彼の目に映りたいと心のなかで思いながら、出してしまう言葉にはトゲがある。
これはお父様に似たんだなと思う頃には、微かに笑っていた。
冷たい地下牢では時間がすぎるのも全くわからない。
それでもお嬢様が残していってくれた香りと温かさは、とても優しくて、私の心を癒やしてくれた。
「お母さん…なんて。そんな事言われるの、始めてでしたよ」
私は子供を流してしまってからというもの、夫の両親にも自分の両親にも責められた。子供を産めない体なんだと何度も言われて。
公爵家に来た時、小さな女の子を見て思った。
私よりも不幸で可哀想な子がいるのだ、とひどく安心した。
「でもどちらだったんでしょうね。お嬢様を憎む気持ちか……愛をもっていたのか」
今となってはどちらとはわからない。けれど一つわかるのは、心は雲一つない晴天で、とても澄んでいるということ。加えて、彼女からもらった言葉が胸に刻まれている。
一人、地下牢で笑っていると、階段を降りてくる音が聞こえた。
「公爵様ですか。私、もうどんな罰でも受けますよ。お嬢様のことをずっとだましていたんですから」
長いこと、彼女の隣につきすぎたせいか、もうすっかり彼女の優しさで満たされていることに気がついたのは、つい先程だったか。
ニコニコして正座していると、向こうから声が聞こえた。
「そうか。ならば、死んでもらおう」
「え?」
暗がりの中で鮮血が飛び散る。
ゴトッと首が落ちるとともに、その男は牢屋の中へといとも簡単に入った。
「魔法の区別も知らぬとは、人間とは実に馬鹿な生き物だな」
男は姿を変える魔法を解くと、薄水色の目でその生首を見つめた。
「っお主、加護がかかっとるな!!」
男が凝らした視線の先。床に散ったはずの血はすぐに切り株のように切り落とされた首に戻り始めて、女の首はもとに戻った。
「え?今、何が起きたのですか」
「時間だ。公爵様がお前を呼んでいる」
「は、はあ」
先程、公爵様がそこにいたはずなのだけれど。何だか妙に首が変な感じがする。
と、首元に手をやろうとしたらその手に辺な文様が浮かんでいた。
「これはなんの文字でしょうか」
木の姿から、そのまま形を取ったようなもの。それが先ほど、お嬢様に握られた手に刻まれていて、ほんのりと温かい。かと思えば、その文字は青白く光った後、皮膚に馴染んで消えていった。
十分更生したら、彼女に聞いてみたい。私に刻んだこの言葉は一体どんな言語だろうかと。
使用人は希望と夢を抱いて、牢屋を後にした。




