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暗い世界に、まるで泥のようにつかっている。でも視界は、あのときと同じように青かった。そして、自分の手がまるで自分のものではないみたいに、ぶよぶよした感覚がある。


手を伸ばすと、視界にうつるのは月光に透き通った湖みたいに澄んだ皮膚。


「なにこれ…」


つぶやいた自分の声はグライフ語ではなかった。ゾーヤに向かって叫んでいた言語。

木が木霊して、鳴くような。

誰も理解しようとはできない言語なのに、なぜか自分の耳はそれを頭で処理できていた。

あたりを見渡すと、ところどころにバラが咲いている。雲のように煙がかった足元から、頭をのぞかせるバラの群体は、やはり青かった。


「シンシア?」


声が聞こえる。振り返ると、金髪の美しい女性が立っている。岩陰を静かに縫うようにして、彼女は歩み寄ってくる。私を見ては朗らかに笑いかけて。足元の雲をかきわけるように、長い金髪を引きずりながら、私へと手を伸ばしてきた。


「まだここに来れる年ではないわ。あなたは私の血が半分だもの。もう少し、成長してからここに…待っているから」


フワッと薔薇の香りがした。

血が半分って、どういうことだろうか。誰もが見たら美しいと惚れ込むような容姿をした女性が、笑いかける。待ってるって、私は誰かと約束などしただろうか。

疑問はたくさんあったけれど、“あちら”側に今すぐ戻らなければならない。体がこれ以上は意識が持たないと嘆いている。


融通も効かない体を、右手の人差し指が動いたことでようやく目の前に色が宿った。次に眼にうつっていたのは、もふもふの黒い物体だった。




「っ………あれは、夢だったの?」


妙に自分の体の感触に張り付いていた。ふわふわとしたような、足すら動かさずに移動していたような気がする。雲の中を、まるでヘビが腹ばいになって這うような感覚。それから手の皮膚は見事なまでに自然と同化していた。

あの感覚は慣れていないもので、気味が悪い。誤魔化すように、とりあえずは隣に寝転んでくれている狼の腹に抱きついた。


「ん〜。モフモフね」


狼のお腹は湯たんぽみたいに温かい。毛皮はもうすぐ冬が来るからか、ゴワゴワしているけれど、指を全て埋めれば綿毛に到達できる。黒いもふもふに、頬を擦り寄せながら、腕を回した。


「ワウ」


「約束を覚えておいてくれたのね」


ヴラジミールとゾーヤを無事に追い出せたら、モフらせてくれる。図書館でベオウルフ様の尻尾を触って以来、あの感触が忘れられなくて条件に使ったのだ。

無事に彼らを追い出したら、ゼムリャが狼姿になって、もふもふとナデナデさせてもらうこと。


鼻先を毛皮に埋めて、いっぱいに吸うと森林の臭いがした。爽やかな香りは、太陽をいっぱいに浴びた芝生に寝転んだときにつくものと似ている。


「もふもふ……もふもふね。このままずっと一緒にいたいわ」


「奥様、体調が戻られたそうで。ホッとしました」


ゼムリャが部屋に入ってきた。寝台のサイドテーブルに置かれていた水桶を取り替えると、彼女はニコニコと私を見ている。


「本当、ゼムリャの毛皮ってもふもふよね」


「褒めてくれるなんて嬉しいですが……アタシ、こんな大きい狼になんてなれないんですよね」


大きい狼……うん。確かに、私を頭から飲み込めそうなほど大きな首と、大きなアゴをした狼だ。そのギョロッとした目が、私を見つめて、ペロっと頬を舐めてくる。


あれ?

狼の姿になったときって、鳴き声が獣になる。そもそも言葉を発する時の声帯や、舌の分厚さだって人の姿の時とは勝手が違うのだから当たり前だ。獣人語なんてとても喋れたものじゃないのだけれど。


「ゼムリャが人の姿ってこと………は……この黒い狼は」


黒い毛皮を持つ狼など、そう滅多にいない。カラスよりも艷やかな毛並みと、闇に紛れるのに特化した黒い毛皮は権威と力の象徴。フェンリル家特有の狼の黒い毛皮。

それまで抱きしめていたものが、もふもふと柔らかいものから硬いものに変わっていく。

六つに割れた腹筋に、回していた腕は硬い背筋をつかんでいる。先程まであんな大人しかった狼が、今。

屈強な肉体へと変貌した。


「シンシア。俺もずっと一緒にいたい」


そうやって、白い頬を私の額にこすりつけては、起き上がろうとする私の体を引き留めた。ベオウルフ様は寝台の上であぐらをかくと、そのまま私を膝の上にすっぽり収める。


「きやああああ!!」


もはや悲鳴を上げていた。

だって、起きたら半裸の男の人が抱きしめてきていたなんて。


「もうお嫁に行けません」


「嫁?君はもう、俺のものだ」


「あなたのものじゃありません」


「違う。俺のものだ。シンシアは俺の番で、ああ、そうか。人間のとこでは、“妻”とか言うんだったな」


いつの間にグライフ語を覚えたのだろうか。彼は流ちょうに“妻”という言葉を、わざわざ人間の言葉にした。感心するよりも、首筋に吐息がかかってきて、本能的に身震いする。狼の牙というのは、相当鋭い。人で言うと、犬歯は小指ほどはあるだろう。だから狙われていると感じると、もはや恐怖が勝って、心臓がドキドキ緊張状態になる。


と、思いたい。


このドキドキは決して、彼が後ろから抱きしめてくれるのが嬉しいとかではなくて…


「震えているな。やはり寒いか。君が眠る一週間の間、かなり気候が変わったからな」


「住ごしやすい、とおっしゃったのは誰でしたっけ」


確かに、彼は私と初めて口を交わした日に言っていたのだ。この辺りは住みやすいと。でも思い返せば、ベオウルフ様の過去話にのっているのは激寒な冬の話。バンバンに雪が降り積もって、足はもつれるほど。それでも、獣人は裸で冬の外で過ごせるほど身が丈夫だと聞く。体温が高い彼らにとっては、冬など体調がよっぽど悪くない限り普通の気温。


「これからもっと寒くなりますよね。奥様のために、薪割りは頑張りますよ?」


「ゼムリャ、そういう問題じゃないのよ。寒いのはすっごく嫌いなのよ。だって私、人間だもの」


何だか名セリフを言った余韻になりながら、私はフルフル頭を振った。

寒い日は本当に苦手だ。指先が痛くなるし、鼻先なんて本当にヒンヤリしてたまったものではない。

朝の日は出てくるのが遅くて、早起きするのも一苦労するし。


「そうだわ。私、寒さを避けるために毎年エストレリャ公爵家の別荘に避難するのよ。だから、今年もそうしなくてはね」


「ということは、この辺境伯からワンシーズンはいなくなるってことですか?」


「ゼムリャ、手配を」


と、言いかけた時、後ろにますます重みを背負った。ベオウルフ様が身を傾けて、私の方にベットリとついてくるせいだ。彼は頭の上にあごを乗せてくると、ますますひっついてくる。


「あつっ…暑い!もう少し離れ」


「暑いんだな。なら十分だろう。冬になったら、俺がシンシアをずっと温める。それなら、公爵家に迷惑をかけることもない」


勝ち誇ったように、彼はワシワシと尻尾でシーツにシワを作った。ますます腰に回された腕が体を締め上げてきて、これ以上の暑さは耐えきれそうにもなかった。たぶん、これは彼の高い体温のせいだけではない。私の顔にたまってしまう熱さのせいもあった。


「そ、そんなことできません。ベオウルフ様は『黒天狼の牙』を率いて、魔物討伐に」


「知らないのか?魔物は冬に冬眠するんだ」


しまった………クロウから伝えられていたことを、すっかり忘れていた。

魔物は冬に冬眠する。なんとも不思議なことだが、人の活動によるものや、自然に発生する魔の瘴気にあてられた獣が変貌して魔物となる。それは実に甚大な被害をもたらすが、倒せば素材が手に入って、稼ぎにもなり得る。そしてそれは、辺境伯の稼ぎの一つでもあった。命の危険と年がら年中向き合わなければいけないが、しかし、冬になればそれも休みを迎える。


「冬眠が始まれば、村は『遠吠えまつり』を開催し始めるだろうな。それから雪が酷くなって、外にも出られなくなる」


「ま…まさか」


「君の望み通り、ずっと一緒にいられるぞ」


三角耳がピンと立ち上がり、ますます後ろから聞こえる尻尾が忙しい。ゴクリと固唾をのむ頃には、心の内で嫌な予感が浮かんできた。


これ、もしかしたら。

国から要請される翻訳の仕事がはかどるどころか、かなりの遅れを見せるのではないだろうか。


「むり……無理です。私、寒いのは嫌ですけど、もっと無理です」


「安心しろ。俺がずっとシンシアのことを抱きしめておく。その間に君は、翻訳の仕事を進めると良い」


「それはいいですね!兄様と奥様のために、アタシ、薪割りよりもお菓子作りを頑張っときますね!」


そこは薪割りを優先してくれ。寒い部屋に人間が置いてけぼりになったら、もはや生きる余地もなさそうだ。というか、ゼムリャが優先すべきなのは兄であるベオウルフ様の望みより、主人の私の要望だろうに。


本当……暑苦しい。



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