20
目の前に映る景色がなにもかも青白い。何だか意識も、ほとんど“こっち”にいるような気がしなかった。違う自分が内から出てきたような感覚で、私は何かを言っている。
「■N■■■」
「…は?あなた、何を言っているの?」
「ニ■ド」
黒塗りのような、どこにもない言葉。それでもどこか懐かしい言葉だと思う。そんな言語を私は知らないはずなのに。だって、人には発音すらできないような音だったから。
森の木々がこすれあい、ささやき笑い合うようなかすかな声。
木が鳴く声だ。
そんな音、誰が注意深く耳を澄ませようか。誰もがノイズとして受け取って、脳ではどうでもいい音として常日頃は処理される。どの種族にだって、そんな言葉、理解できるはずがない。
でもそこには確かに言葉があるのだ。今、私が口でささいているような。
枝葉を広げ絡め合う。
それが“彼ら”の文字で。
「な、何よこれっ。杭に……バツ印…?」
無数の☓の印が杭を侵食していた。ベオウルフ様の胸に刻まれていた紫色の鎖ではなく。それは薄水色に光っていて、文字を示していた。
その意味は『打破する力』
そう、本能が訴えている。
「杭なんて、なくなってしまえ!!」
念を込めて叫ぶと、一気に自分が戻ってきた。息も視界も戻ってきた途端に、先程まで自分を支配していた何かが指先から抜け出ていく。流れ出るそれは、杭にまとわりついた☓を巡り、光らせる。
パキッ
かすかな音から始め、それは崩壊を始めた。私が手を離した途端、杖は中心から割れていく。木こりに切られた大木のように、真っ二つになった杭は、ゾーヤの震える手の内に残った。
「く、杭がっ」
「お前は何をしてるんだ!!」
「し、知らないわよ!だって杭は決して破壊できることのない聖物なのよ!?こんなの……こんなの有り得ないわ!!」
そうこうして、ゾーヤの両手にあった杖は粉々になっていく。彼らは一様に驚いていて、互いに言い争っていた。
グレイプニルの鎖がある限りは、ベオウルフ様の力はまだ本調子じゃないから大丈夫だの。杭はフェンリル家に代々伝わっていた、壊れるはずもない神聖物だの。
それが徐々に、互いに責任を押し付け合っていく。
「お前のせいだぞ!こんな汚れた女に聖物を触らせるからだ!」
「知らないわよ!私はただの傷物に、杭を取られるだなんて思ってなかっ」
その時、彼らの言い争いはすぐに止んだ。ひんやりとしたあらゆる生物たちが固まるような気配。首筋を異様に撫でては、大人の獣人すら尻尾を股に挟んで巻いてしまう冷気。
黒い狼はいつの間にか大男に変わっていた。長い黒髪は逆立ち、普段は変わらない表情は、口元に力が集中している。白い牙が見え、彼らは悲鳴を上げ始めた。
「ガルルルルルっ。今すぐ立ち去れ。さもなければ、俺がお前らを食い散らしてやる」
威嚇するベオウルフ様から漏れ出てくる力は、魔力と少し似ていた。絶対的な力の前には、生物たちが息をすることさえ許さないほどの圧迫感。それに怯えた二人は、すぐにドアの方へ駆けていく。
飛び急ぐカモの群れみたいに、彼らはすぐに部屋を出ていく。その後ろ姿を見て、私はクスクスと笑っていた。
「婚約破棄の書状を忘れておりますよ。逃げるのに必死だったんですね」
我ながら勝ち誇った気分だった。何が起きたのかは全くわからないけれど、ベオウルフ様を苦しませる杭はもうなくなった。それが嬉しくて、してやった気分になる。
けれど、よく見てみるとベオウルフ様の胸はまだ紫色に光っていた。鎖のあとは消えることがなく、残っている。
「鎖が」
「杭が壊れたからと言って、鎖がなくなるわけじゃないからな。アレは鎖を縛り付ける物。鎖を壊すための物ではない」
「私のせいですね」
なおも光り続けるその鎖のあとに、罪悪感を抱いていた。
「サインすれば良かったです。最初から、彼らの言う通りにしていれば、あなたが苦しむようなことはなかったのに。今も痛いんでしょう?」
地獄に縛り付ける鎖は、私が下手に彼らを負かそうなんてことを思わなければ発動しなかった。ベオウルフ様を苦しませたのは私だった。
「傷物、『いばら姫』。彼らが言うように、私はよっぽど汚れています。もし彼らが私よりも身分が良く、教養もある方を新たな相手として持ってくるのなら退こうと思っておりました」
「そんなこと絶対に許すわけが」
「ベオウルフ様が許さなくても、私がするんです。だって、片目なんて失明していて酷い傷跡が顔にある令嬢なんて、見栄えがしませんでしょう?」
右頬につけられた火傷跡は、必ず将来の支障になる。これから舞踏会によばれることも、茶会に呼ばれることもあるだろうけど。それには顔を覆うレースかヴェールが必要になってくる。顔を隠さなければ、醜いから。それはベオウルフ様の、辺境伯の妻としては一番の支障だった。
「見栄えなんて気にするものか。俺は君だから」
「ベオウルフ様が良くてもですね。周りは違うんですよ。あなたが国境付近の種族差別について良く知っているように、私もこの傷がどれほど非難の対象となるか、良く理解しているんです」
どれだけ、人間にとって一番難しい獣人語を習得しようと。貴族は意見を変えない。『いばら姫』は変わることのないあだ名。
捨て置かれた婚約破棄の書状へと、目を向けた。
「これから社交界に出ることがあれば、きっと知るでしょうから。これはあなたが持って」
彼へと書状を手渡した瞬間だった。婚約破棄の書状は、彼の大きな手の内で、ぐしゃぐしゃに丸められた。雪を丸めるみたいに、その紙は力任せにポイと床に投げられる。
「シンシア、聞け」
突然命令口調になったベオウルフ様は、私の手をつかんだ。逃げる余地も残さないようにするためか、胸の前で繋がれた手は、彼の気迫で覆われる。
まっすぐに見つめてくる黄金色の瞳は、狼達の文化の一つ。
目を合わせることが、真実だということ。
「君は、俺をまた助けてくれたんだ」
「助けた?苦しめたの間違いでは」
「違う。杭を壊し、共にあいつらに抵抗してくれた。嬉しかったぞ」
ベオウルフ様は私の手を、その硬い胸板へと持っていく。人間より一回り温かい体温と、強く波打つ鼓動が、手から伝わってくる。それで鎖は落ち着きを取り戻したかのように、禍々しい闇深い光を失っていった。
「小さいときもそうだったが、君はいつも俺の側にいてくれるな。本当に、それが一番の幸せなんだと、今日も思った」
無表情なベオウルフ様は、かすかに口角を上げた。目の錯覚かもしれないけれど、彼は今一番の笑顔を見せてくれている。表情に乏しい狼が、ほんの少し口角を上げたというだけなのに。尻尾がブンブン横に振っているのも見れて、心がポカポカ温かくなってしまう。
犬が……こっちを見て尻尾を振っているだけのようなものなのに。何でこんなに嬉しいと思うのだろう。
「ふっ……甘い匂い、漂ってきたな」
「っ、あ、あなたが悪いんですよ。いつまで私の手を握って鼓動を聞かせるつもりですか」
乙女の手を無断で握るなんて。それも殿方の体を触らせるという事自体、人間の文化ではかなり非常識なことなのだが。
「鼓動を聞かせるのは、自分を知ってほしい相手にだけだ。だからこれは、シンシアの特権なんだぞ」
「そ、そんなのいりませんっ!」
純粋に言われても、受け取るこっちの身が持たない。指先から力が抜けているというのに、自分の鼓動が相手に伝わってないかと心配になるほどたった。不思議なくらい力が抜けてしまう。
「シンシア?」
「っ…」
声が遠のく。本当、私の顔をこんなにも熱くしたのは彼のせいだと思う。それから膝から力が抜けて倒れ込んで、彼が腕の中に受け止めてくれるのも。全部、全部、顔を熱くさせてくる。
「酷い熱だ…ゼムリャ!早く水を」
「兄様!奥様がどうなさって……って、皆大変です!」
ドタバタと頭上が揺れ動く。まぶたを閉じる直前まで、視界を占めていたのはベオウルフ様のすがりついてくるような顔だった。眉をひそめて、犬歯を見せて食いしばりながら、私の頭を抱えてくる。
そう心配しなくても、逃げはしないのに。もっとも、私が彼から逃れることなんてできようものか。何百通と手紙を送りつけてきた、執着狼とお父様に一泡吹かせたぐらいなのだから。
二人の負け犬は逃げ急ぐ。
我先にと馬車に乗って、すぐに森へと馬をかけさせた。
「あれは何だったのよ!」
「神聖物を壊すなど…有り得ない…」
「あなたでも、わからないの?あんな、あんな青い模様…気味が悪いわ」
ゾーヤは身震いした。無数に杭を☓印で刻んだあの令嬢。その手から文字が流れ出て、知らない言葉を発していた。よく聞こえる狼の耳ですら、聞き取れないもの。聞き取ろうとすれば、本能が拒んで、理解しようとすることすら許されない。
ブルブル震える二人の馬車に、トン、と何かが降り立つ音が聞こえた。ヴラジミールは怪しんで、馬車を一度止めさせると、外に出る。
「……誰もいない。おかしいな」
先程まで確かに気配がそこにあった。鼻を空に向けて嗅いでみると、かすかに植物たちの臭いの中に紛れている。雨の日に訪れる湿ったような臭い。
「気のせいか。雨が降る前兆なら、早く帰らねば」
帰って、また作戦を練らなければとヴラジミールは馬車へと引き返した。
「ふむ、加護の力が思ったより強いな」
馬車よりも何メートルも上にある木に腰掛ける男がつぶやく。ある気配に気づいてここまで来たのは、正解だったと彼は笑った。
「牢屋でも感じたものは、フィーリアと同じか」
そう思うと、彼はますます自分の胸が高鳴るのを抑えられなかった。彼は尖った耳をすっぽり隠してしまうほどローブのフードを手繰り寄せると、また杖を叩いた。グレイプニルの鎖を締める杭と似たような、胸の高さまであるほどの杖をトンと木に叩く。
それだけで、森は静かになり、男の気配もまた、葉がこすれる音とともに消えた。




