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公爵家から帰って、そう日も経たない頃。辺境伯家の屋敷の図書館の机にて。今日は朝から、ベオウルフ様がグライフ語の勉強に誘ってきた。図書館の机に隣り合って、彼は座ってくると、すぐに詰め寄ってくる。
「暑苦しいのですが」
「もうすぐ夏も終わりだ。そんなに暑くなんてないはずなんだが。熱でもあるのか」
私の額に触れてくる彼は、天然なのか、それとも計画的に私に触れて来ようとしているのか怪しい。とりあえず、その手を無視して竜語の勉強に励んだ。
まず、ラグ大陸共通語は二十五文字のアルファベットと呼ばれる文字からできている。それが、グライフ語で“あ”という発音を“a”と記す。誰もが簡単に使えるように開発されたものなので、私も習得は随分前に無事に終えていた。
次に竜語とは、粘土版にアシの植物を刻むことで生まれた文字。小さな三角が連なっていたり、線でつながつていたりするその文字は、時代によって変化するけれど、基本はグライフ語で読めるものだ。グライフ語の五十音でできた“ひらがな”を使えばいい。
表と照らし合わせながら本を一文字ずつ区切っては、言葉をあてる。
そうして、お父様からもらった竜語の本に挟まれていた、メモ紙を解読してみる。
「しんしあ、げんきにしているか。おまえのかおが、また、みたい」
お父様のメッセージに胸がジーンとなってくる。
「甘い匂いがしてきたぞ。そんなに父親殿に会いたいのか」
「ふふふ、だって私を育ててくれた人ですもの。またグライフ語で懐かしい話に花を咲かせたいです」
「む……なら、俺がグライフ語を頑張るから。また戻るなど、言わないでくれ」
「っだ、だから、暑苦しいです!!」
またギューッと腕を伸ばしてきて抱き寄せてくるベオウルフ様。獣人語は、遠い北から来ているもので、アルファベットと記号は似ているのだが、どうにも舌が回らないと難しいものだ。それに比べて、グライフ語なら簡単に違いないから、習得は早いだろうけど。
彼の張り付いてくる頭を引き剥がそうと必死に抵抗すると、ベオウルフ様はしょぼんと耳を垂らした。
「シンシアが素直じゃない」
「これが素直な反応です」
「でも、俺を突き放そうとする割には、大切にしようとする優しい匂いが漂ってる」
「っ……」
もう完全に彼には私の気持ちなんて筒抜けなのだ。でもこの人が私に対しては少し鈍いおかげか、未だに私が彼に気を許しているなどと調子づかれることはなかった。
とりあえず、掘り下げられる前にと話題をそらした。
「何かわからないことはないのですか。せっかくこうして、朝から勉強をしているんです。聞きたいことがあれば、すぐに」
「これはなんて読むんだ?」
ベオウルフ様が指差すのは、グライフ語の一文だった。カギカッコの中に書いてあるのでセリフらしい。
公用語なら、この大陸の種族全て、人間、獣人、エルフ、竜人、ドワーフに対してもすごく簡単なものになる。言わば、欲張りセットな言語なのだけれど。
「グライフ語から学ぼうとするなんて、かなりハードですけど。それは、“あなたのことを愛しています”………」
「そうか。なら、これは?」
「“どうして私を置いていくの?私はあなたを愛してるのに”……」
「ふ〜ん」
なんだろう。
言わされている、という感じが半端ないのだが。グライフ語の発音を確かめるためにも話してあげているが。ベオウルフ様の黒い尻尾が腰にバシバシ当たってくるほど揺れているし。
「それ、ちょっと変な本ですね。ベオウルフ様のレベルに合わせるなら、グライフ語ではなく、もう少し簡単な公用語から」
「嫌だ。俺はこれで勉強する」
「子供じみたことを言わないでください。グライフ語を学ぶにしても、もっと簡単なものにしませんと。ほら、さっさとこっちに」
彼の手から本を取り上げて、新たに差し込んでやったのは、おとぎ話のものだ。『三匹の子豚』の本は大陸でもいちばん有名な物語。お父様からもらったものと全く同じ、グライフ語のもの。
「グルル!これは……俺が嫌いな本だ」
「馬車では『赤ずきん』をあんなに気に入った顔になってましたのに」
「だって、これはただ豚を食うだけの物語じゃないか。豚など、自然の狼だって食うものなのに。なぜ狼が悪者として取り上げられなければならないんだ」
「なぜって、それは……」
言いにくい。
人間の獣人の差別対する差別によって童話は生まれてしまった。その産物を説明するにはいささか、心が苦しくなる。
「シンシア?」
「とにかく、それを読んで学んでください。『三匹の子豚』ならストーリーも簡単でしょうから」
そのまま自主的に勉強させることにして、彼から奪った本を、脇で少し見てみた。題名は、典型的な恋愛モノで、明らかに初級の者が読むものではないほど例えの言い回しが多い文脈だった。
これを読もうとしていたなんて、獣人の性とでも言うべきなのだろうか。無理してでも自分の力を知らしめたいから、彼も難しいものから無理して読むというのを試みたのだろう。
にしても、何度も甘いセリフを言わされそうになったのは解せない。
「そういえば、ベオウルフ様は公用語はある程度は理解できるのでしょう?それなら、公用語から習得を始めてはいかがなんですか。グライフ語なんて、クロウがいるから、後からだって」
「まさか君は、クロウを気に入ってるのか」
「そうですね。クロウはたくさんの言語を知っていますから。竜語のことも彼から少し教わっています。“楔形文字”という文字でできているというのも、彼から教わりましたから」
あの白カラスは、かなり有能だ。ベオウルフ様の力には匹敵しないかもしれないが、頭脳の方で敵う者はいないだろう。
また聞きたいなんて思っていたら、ベオウルフ様はますます不機嫌に目を細めた。その顔が子供っぽくて笑ってしまう。
「ふふふ、そんな不服そうな顔をして、どうなさったんですか」
「俺以外にその匂いをだすと思わなかったから」
「え?」
「実際、どうなんだ。俺のこと、君の中では何番目にいる?」
「何番目と聞かれましても。一番にお父様とヘレナがいるのは不動ですよね」
「グッ……」
彼は苦しいというように唸ると、耳を後ろに下げた。
私はその様子に、ベオウルフ様がショックを受けたとか気を使うよりも耳の動きの方に見入ってしまう。後ろに寝かせたり、ピンと立ったり。
よく動く耳って、どんな感触なんだろうか。
「っっっっ!?」
「意外とふわふわしてて、弾力がありますね。なんか、不思議な感じです。人間のとは全く違いますね」
ピコピコ。手の内で忙しなく動く三角耳が、可愛らしい。そのまま握ったり、少し横に引っ張ったりしていると、ベオウルフ様の目と合ってしまう。
黄金色の目がウルウルとして、その頬は少しだけ赤くて。
「す、すみません。つい触ってしまいました」
上に伸ばしていた手をおろして、慌てて取り繕う。竜語の本に目を向けるふりをすると、腰に回るサラサラとした感触が肘をかすめた。
右隣にいる彼の尻尾が、私の左の腰にまで回ってきているのだ。近づいてくる肩までもが暑苦しくなってきて、仕方ない。
「は、離れてください。そもそも、そんなに近づく必要はないでしょう?私の仕事が進みません」
「もっと近づかなくてはいけない。シンシアは右の目が見えないんだろ。だから俺にだけ、右側は許してくれているんだろ?」
獣人の仲間というのは、弱点を互いに補い合う。私は右目を失明しているから、ベオウルフ様が言うことは獣人の慣習にのっとっているのだろうけど。
さっきから、すごく恥ずかしい気がしてならないのはなんだろうか。それに、彼はもうとっくに気づいているのではないか。私が右側を許しているということ。
「それでは私の右の酷い傷しか見えないでしょうに」
「俺は君のどんな顔でも見たいぞ」
「逆もそういうことになるんですよ。私はあなたの顔を見ることができなくて、不便なんです」
だから離れるか、右側に移動しろと言っているつもりだが。
「…なんでそんなに尻尾が動くんですか」
「だって、嬉しいぞ。顔を見たいなんて…ああでも、左に座ってはやはり、君の右側が心配だ。敵が来ては大変だからな」
敵なんてこんなところまで来るわけがない。左の腰に当てられた尻尾の先がヒジをくすぐってきて、すごくかゆくなってくる。
「えいや!」
「っっ!?」
尻尾を鷲掴みにして、さわさわと手で触り尽くす。翻訳中の注意をそらすものは、なんぴとたりと許さない。そういう気持ちで黒い尻尾を掴んだ。
今度は耳のような弾力はないけれど、羽毛のような毛束と、中の芯をつかんだ感触がある。
「ふわふわ!何ですか、このふわふわ!!」
手が止まらなくなって、もふもふと両手が動く。尻尾の先から中間の方まで。
先の方はサラサラとしているのに、根元の方はもふもふしていていかにも断熱性がよさそうだ。きっと冬になったらマフラーのように温かいものになるに違いない。というか、これはどんな構造でできていて、彼の腰のあたりから生えているのだろう。
そうこうして何分経過しただろうか。すっかり気がそれていた私は、ようやくそこではっと気づいた。
「そうでした、翻訳の仕事を…ってベオウルフ様、大丈夫ですか?」
隣では、机に伏せった彼が腕に顔を埋めていた。




