その日
その日は朝から嬉しい事ばかりだった。
「イズミル、貴女のおかげよ。
“改訂版、王室規範大法典”が無事に出来上がったわ」
太王太后リザベルがそう知らせてくれたのだ。
イズミルが解呪、解読、翻訳、そして紛失していた
一部の捜索と、多岐に渡って携わってきた王室規範の完成をこの目で見る事が出来た。
「おめでとうございます。
これでどんな血筋の者でも陛下の望まれる方を
妃にお迎えする事が出来ますね」
イズミルが感慨深く新しい規範の書を見つめる。
「……ええ、そうね」
「わたくしが王城にいる間にと、
ご無理をなされたのではありませんか?」
リザベルは微笑みながら首を横に振った。
「そんな事はないわ。貴女がグレガリオを
呼んでくれたおかげで手伝わせる事が出来たもの。
予定よりも早く終わって助かったわ」
「それはようございました」
イズミルは新しい王室規範に目を通す事は
しなかった。
もうハイラント王室の者ではなくなるのだ、
見るべきではない。
リザベルに謝意を述べ、
イズミルはいつも通りに側近室へと向かった。
「おはようございます」
「おはようございます、イズーさん」
「おはようございます」
皆といつもと変わらぬ挨拶をする。
そして皆の手伝いをし、
いつもと変わらぬ一日を過ごした。
イズミルは一つ一つの仕事を
丁寧に、心を込めてこなした。
一つ一つを思い出として心に刻みつけるために。
本日の業務がそろそろ終わろうかという時に
執務室の前でマルセルと行き交う。
「マルセル様、
明日からの視察の準備は整われましたか?」
グレアムの幼馴染にして側近の一人、
マルセル=カストールに尋ねると、
「やあイズー、準備ならもうバッチリだよ。
まぁ今回は二日で帰ってくるような軽い視察だから
そんな万全に備える必要がないんだけどね」
とマルセルが答えた。
「そうなのですね」
「今回はイズーはお留守番だね」
「ふふ、そうです。前回はとんだご迷惑を
おかけしましたわ」
「楽しかったからいいよ。
思えばイズーが来てから楽しい事ばかりだ。
とくに陛下の様子がね」
「陛下の?まぁ例えば?」
「例えばねぇ…「俺がどうした」わっ!
びっくりした!」
マルセルが何かを言おうとしたのだが
途中で突然グレアムの声がして、
驚いてのけ反っていた。
「もー、驚かせないでよ」
「お前が勝手に驚いたんだろ」
「せっかくイズーに陛下の面白いネタを
教えてあげようと思ったのに」
え、何それとっても知りたいわ!
とイズミルは心の中で叫んだ。
「くだらん話をしてないで仕事しろ。
ほら、太王太后宮の侍従が呼んでたぞ」
「え?あそう?了解、ちょっと行ってくるよ」
そう言いながらマルセルはひょいひょいと
向こうへ行ってしまった。
面白ネタ……是非聞きたかった……
と内心しょんぼりしているイズミルに
グレアムが言った。
「イズー、渡したい物がある。ちょっと来てくれ」
「わたくしにですか?」
「そうだ」
そう言ってグレアムが執務室へと入って行く。
イズミルもそれに続いた。
丁度良い、イズミルも執務室に行こうと
思っていたのだ。
でもなにかしら?と思っていると
グレアムがキレイに包装された箱をイズミルに
手渡した。
受け取りながらイズミルが問う
「あの……こちらは?」
「……アルコールが入っていない
チョコレートボンボンだ」
「え?」
思いがけない言葉にイズミルは驚いた。
「チョコレートボンボン、食べてみたいと
言っていたんだろう?それはチョコの中には
フルーツシロップが入っているらしいから
いくら食べても酔っ払わないから安心して
食べられる」
少し照れくさそうにぶっきらぼうに話す
グレアムを見て、
イズミルは箱をぎゅっと胸元に抱き寄せた。
「これを、わたくしのために?」
「……ああ」
「陛下が?」
「他に誰がいる」
「嬉しい……嬉しいです」
イズミルが目を閉じて箱を大切そうに
抱きしめるのを見て、
グレアムは自身の心の方が喜びに満たされる
のを感じた。
「そうか……それは良かった」
「ええ。本当に、ありがとうございます」
ボンボンを貰ったから嬉しいのではない。
(嬉しいけど)
グレアムがわざわざイズミルのためにと
買い求めてくれた事が、
その気持ちが何よりも嬉しいのだ。
イズミルは心から感謝の言葉を告げた。
まさか今日という日にこんな嬉しいサプライズが
待っていようとは。
イズミルはグレアムを見つめた。
心なしかグレアムの耳が赤いような気がする。
きっと照れておいでなのだわ、
ふふ、お可愛らしい。
最初あんなに冷たい目で見られていたのに。
それが今ではこんなにも温かい。
その温かさにもっと触れたいと思ってしまう
欲張りな自分がいる。
側に居られる事に期限があってよかった。
そうでないといずれこの想いはもっと溢れて、
取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。
丁度いい潮時だ。
イズミルはグレアムを呼んだ。
「陛下……」
「ん?どうした?」
グレアムがイズミルの方を見てくれる。
優しい眼差しを向けてくれる。
陛下、わたしはあなたのお役に立てましたか?
祖国を救ってくれたあなたへの大恩に、
少しは報いる事が出来ましたか?
わたしがいなくなったら……
少しは寂しいと思ってくれますか?
それらの言葉を
イズミルはこくんと呑みこんだ。
「陛下」
「だから何だ?どうした?」
「ふふ」
「?」
「なんでもありませんわ。
陛下、わたくしはこれで御前を下がらせて
頂きます」
「ん?ああ、もう業務が終了する時間だな、
ご苦労だった」
当然、グレアムはイズミルの言葉の真意は
わからないだろう。
それでもイズミルは続けた。
「陛下の御世が末永く続きます事を
お祈り申し上げております」
「イズー?」
「ふふ、大袈裟でしたわね」
「あ、ああ、そうだな、なんか変だぞ?
今日はゆっくり休め」
「はい、そうさせていただきます。
それでは失礼いたします……」
イズミルはそう言って、執務室を辞した。
だけど部屋の中には
ふんわりとイズミルの残り香が漂う。
イズミルが退室した後で
ランスロットが執務室に戻って来た。
「……陛下?どうかされました?
お顔が赤いですよ?大丈夫ですか?」
「……大事ない」
そう言ってグレアムは椅子を回転させて
背を向ける。
チョコボンボン一つで
あんなに喜んでくれるとは……。
嬉しそうに箱を抱き寄せる姿を見て
たまらない気持ちになった。
とても愛おしいと思った。
そしてそれと同時に胸が苦しい。
そんなグレアムの様子を見ていたランスロットが
何やら口を開きかけたその時、
「陛下……」
ドンドンと疎かなノックも早々に
マルセルが執務室に入って来た。
「陛下!とんでもない情報が入ったよっ」
話の出鼻を挫かれた所為か
ランスロットが呆れた顔で言った。
「マルセル、何ですか?そんなに慌てて…
五月蝿いですよ」
「これを聞いたら君だってそんな澄ました顔で
いられなくなるよ」
その言葉を聞き、
ランスロットが眼鏡をキラリと光らせた。
「ほう……どんな情報か聞かせて
貰おうじゃないですか」
「太王太后宮に引退した元暗部の爺さんが
侍従として働いてるのは知ってるよね?
その爺さんが掴んだ情報なんだけど……
あ、その爺さんとは前々から交流があって、
それで特別に俺に教えてくれたんだよ」
「能書きはいいから早く言ってくださいよっ」
焦れたランスロットがマルセルに言った。
「もう、君は昔からせっかちだよね。
まぁいいや。それがね、その侍従が聞いたところによると」
「よると?」
「イズーは近々今の夫と離縁するらしいんだ、
太王太后様がその手続きで今朝から城を出られているらしい」
「!?」
その言葉にグレアムが
椅子を倒す勢いで立ち上がった。
ランスロットが慎重に聞き返す。
「それは確かな情報ですか?」
「今聞いたところだから裏を取るのはこれからだけど、でも確かに太王太后様は今朝から城に居られない。帰城されるのは三日後だそうだ」
「陛下……」
ランスロットとマルセルがグレアムの方へと
向き直った。
イズーが……離縁?
今の夫と?
そのために働き出したのか?
もっと情報が欲しい。
真剣に考え込むグレアムを見て、
ランスロットは今こそ国王の真意を問うべきだと
思った。
臣下として、幼馴染として、友人として。
「陛下」
「……なんだ」
ランスロットは胸に手を当てグレアムに問う。
「国王陛下、貴方は彼女を、
イズーを妃にと望まれますか?」
そのいつになくランスロットの真剣な眼差しに、
マルセルも胸に手を当て、並び立つ。
グレアムは静かに告げた。
「……そうだな、離婚歴のある者は王家には
嫁げないという法を変えてでも。そして彼女は
妃に相応しくないと曰う奴がいたら、そいつを
切り刻んで瘴気山に放り込んでやりたいと
思うほどには望んでいるな」
「「御意」」
ランスロットとマルセルが同時に首を垂れる。
「明日からの視察にはゲイルと
他の高等官吏を向かわせる」
「承知致しました」
「マルセル、その元暗部の爺さんを連れて来い。
そしてその後、おばあさまを追ってくれ」
「仰せのままに!」
イズーの夫がどのような者かわからないうちは
迂闊には動けなかった。
しかし、離縁の手続きを踏むほどならば、
こちらもただ手を拱いて見ている必要はない。
まだ彼女の本意を確かめてはいないが、
妃にと望んでおきながら
法の所為で無理だったなどという事は
してはならない。
その為にもこちらの環境は整えておかねばならない。
議会が難色を示しても説き伏せるし、
なんなら力尽くで押し通す。
生まれて初めて心から欲した女性を
手に入れるためにグレアムは行動に出た。
しかし、
その日を最後に、
イズミルはグレアムの前から姿を消した。
彼女がグレアムの側で働き出して
あと数日で一年を迎えようとする
そのタイミングで、ぷつりと消息を絶ったのであった。




