交換神経
私だけの、私による、私のための病院で、私は患者を待つ。
目を瞑り、静かに鎮座する私は、外科医である。
本職は悪魔であり、実は魔界の頂点に立つ悪魔サタンであるのだが、今は別の姿で人間の世界にいる。
悪魔は常に楽しそうに悪事を働いているとお思いだろうか?
確かにそういうものも多い。
しかし、私はサタン。
数々の悪魔を管理する立場にあり、自らの欲望を満たすためだけに動けぬ存在であったりするのだ。
もちろん、好き放題やっても私を咎める者などいないのだが、意外と私は真面目なんだ。
それなりの威厳を保つため、それなりの我慢をしていたりする。
というのは建前で、案外自分の振る舞いや環境には満足していたりする。
とは言っても欲望は尽きないもので、物足りないとも思う。
さて、本音はどこにあるのか?
そんなことは大した問題ではない。
真実など本人だけが知っていれば良く、また本人すらも知らないことがある。
ならば本人が開示する真実が、真実であると誰が保証できようか。
と、いうわけで。
「はいは~い! 人間の皆さん初めまして~。外科医の左袒先生です。どうして、外科医を選んだかって? ほら、神の世界では人間の世界を下界と呼んだりするだろう? 下界と外科医をかけてみたのさ! はははははは!」
さて、誰に向けるでもない紹介はここまでにして、どうやら最初の患者が来たようなので、早速診察をするとしよう。
「心が痛むのです」
男は言った。
「おやおや、それは専門外ですねぇ」
ここは精神科ではないのだ。
しかし、この男はここにたどり着いた。
ということは、並の患者ではない。
どこかで悪魔に囚われてしまったのだ。
悪魔の仕業は私にも責任がある。
このまま囚われて何度も業を抱えたまま人生を繰り返すのは苦しかろう。
適切な断罪……もとい、処置をもって解決しなければ。
もう一度、詳しく訊ねる。
「心が痛むことの何が問題なのですか?」
「心だけではないのです。身体も痛むのです」
「はて、どういうことでしょうか? どこか怪我をされていて、それが原因で心も痛めておられる?」
「いえ、そうではないのです。心が痛むと、同時に身体も痛くなってしまうのです。これは何かの病気なのでしょうか?」
なんと、この男。
心の痛みを実際に肉体の痛みとして感じることができるのだという。
「不思議なものですねぇ。しかし、あなたが心を痛めなければ良いのでは?」
「それはできません。私はあらゆる事に心を痛めてしまうのです。今、この時にも世界のどこかでは戦争で苦しんでいる人がいる。そう思うと痛くて仕方ありません」
「なんともお優しい事で」
しかし、その優しさが仇となっているようだ。
こんな優しい青年が、悪魔と契約するようには見えない。
ということは、前世で契約したパターンなのだろう。
今の彼には悪いが、断罪しなくてはならないな。
「どうやら、脳の神経がおかしいようですね。心を痛めた時に働く神経と、肉体の痛みの神経が混線状態の様だ」
「そうなのですか? なぜそんなことに」
決まっている。
これは悪魔と契約した罰なのだ。
きっと来世でも同じようなことが続くだろう。
でも私は優しい。
こんな人間にも救いの手を差し伸べるのだから。
「なぜそうなったか分かりませんが、手術で治るでしょう」
「本当ですか! ありがとうございます」
「少し難しい手術ですが、私にならできるでしょう」
「ええ、そうでしょうとも。私はここに来るまでいくつもの病院をたらい回しにされましたが、ここなら何とかしてくれると聞いてやって来たのです」
「ええ、では早速始めましょう。心配は無用です。麻酔で眠っている間に終わりますからね」
そう言って、彼を手術室へと運んだ。
そして、全身麻酔で眠ってもらったのだ。
「ふむ、やはり」
頭皮を切り開き、頭蓋骨を切開し、脳を観察すると、予想通り。
心の痛みを感じる部分と、肉体の痛みを感じる部分が連動しているようだった。
これは今の人間の医学では分かるまい。
しかし、悪魔で左袒な外科医にはお見通しだ。
私はとても細くて小さいメスを手に持つと、それらの神経をちょちょいと切ったり繋いだりした。
「あれ、これはこっちで合ってましたかね?」
私は途中、どの神経を繋ぎ直すべきか迷ったが、何とか手術は終わった。
「お目覚めのようですね」
「先生……私は……」
ベッドから起き上がった男は私を見た。
その表情は期待と不安に満ちている。
だから私は男の求める言葉を与えた。
それが事実なのだから。
「手術は成功しましたよ」
「本当ですか!」
男の喜びに満ちた顔。
何という愚かな顔だろう。
しかし、これは上々。
この顔がゆがむのがますます楽しみになってきた。
「手術は滞りなく終わり、あなたは無事目覚めました。失敗していればこうはならないでしょう。脳を弄ったのですから」
「ありがとうございます」
「いえ、これが私の使命ですから。さて、これから最終チェックといきましょう」
「最終チェックですか? 私は以前のような痛みを感じることがありません。心の痛みと、肉体の痛みはきちんと乖離しているように思えます。今更確認することもないでしょうに」
「いえ、必要なことです。医師として不備がないかの確認は」
「なんとも素晴らしい! あなたは最高の医師ですね」
男は私を褒め称える。
悪い気はしないな。
「では、問診を。どこか違和感を覚える部分はありませんか?」
「違和感ですか? 頭はすっきりしています。そうですね、強いて言うならお腹が空いています。脳の手術をしたせいなのか、糖分を欲しています」
「そうですか。それはちょうどよかった。私は今チョコレートを持っています。これをあなたに差し上げましょう」
私は机の引き出しから板状のチョコレートを取り出すと、彼に差し出した。
彼はそれを受け取るなり勢いよくその包装を破った。
余程糖分を欲していたのだろう。
「早速いただきます! 本当に何から何までありがとうございます」
男は早口でお礼を述べると、銀紙の中から現れたチョコレートにかじりついた。
その直後、男はその美味しい食べ物に幸福感を感じただろう。
しかし、その幸福感は一気に地獄へと変わる。
「これは……苦い!」
「おっと、私は甘いチョコレートが苦手でね。うっかりしていました。それはカカオ100%のチョコレートでしたね」
一瞬食欲を満たされるも、それは男が望んでいた甘味とは異なっていたのだ。
表情が変わるのも無理はない。
「苦い……はぁ!? ああっ! 痛い! 痛い痛い痛い痛い~!」
しかし、ここまで苦しむものだろうかね?
「おやおや、どうしましたか?」
「痛い!! 何ですかこれは! 痛いのです!」
その男の転げ回る様ときたら、何と面白いことか。
私は男にその原因を告げる。
「どうやら、苦みを感じる神経と、痛みを感じる神経が混戦しているようですね」
「何ですって!? ああ、痛い。なんてことです! この悪魔め!」
痛みを堪えながら、男は私を罵る。
私が悪魔だって?
何を今更。
「ええ、悪魔ですとも。あなたの望んだように、心と肉体の痛みを感じる神経は治しました。これ以上何を望むというのです?」
「私はこんなこと望んではいない! うぅ……」
「ですが、予測すべきだった。悪魔と契約した時にね」
「私がいつ悪魔と契約したというのです?」
「前世で」
「そんなもの……関係ないではないか!」
男は怒り狂う。
それは痛みによるものだけではないのだろう。
「たとえ前世の契約であれ、悪魔から逃れることは出来ません。しかし、あなたはラッキーだ。前世で払い損ねた代償をここで支払うことが出来る」
「代償?」
「私を楽しませてくださるのであれば、それが代償となるわけです」
男の目には少しだけ希望の光が生まれる。
「何でもやろう! あなたを楽しませるためならば何でも! だから……せめてこの痛みを止めていただきたい! そうすればあなたを楽しませるために……」
この人間は、ここまで来て状況を理解していないのだろうか?
代償を払うといいつつ、私に痛みを止めるよう条件を付けるとは。
だが、私は優しいので、その条件をのんでやろう。
もちろんその条件をのむにあたって、代償が必要ではあるが。
「その痛みを止めればいいのですね。それはなかなか難しいですね。並みの痛み止めでは止めることができないでしょう」
「ではもっと良い痛み止めをください!」
贅沢を言う。
しかし、答えてやろう。
私は白衣のポケットから、錠剤を取り出した。
パッキングされた、錠剤は全部で四つ。
それを見せびらかして言ってやった。
「これは素晴らしい痛み止めです。実に強力です。しかし、人間のあなたには強すぎるかもしれませんよ? それに高価です」
「構いません! 何でも払いましょう! なんでもしましょう! 私はあなたのものとなりましょう! ですからその薬を!」
「結構! そこまで言うのでいたら……」
私はその薬を一錠、彼に与えようとした。
しかし、彼は私が薬を与えると理解した瞬間、その薬をすべてひったくった。
そして、錠剤をすべて手の上に取り出すと、勢いよく口に放り込んだ。
それは何とも不格好で、愚かな様子であった。
「これで、痛みが引くんだ! やった! やったぞ……うひぃい!! あ、ああああああ……!」
薬を口に入れた男は、チョコレートを食べた時以上に顔を歪めた。
それは私が望んだ光景だ。
愚かなものが、愚かな行為で、自身を蝕んでいく。
その愚かさを知った時には、もう遅いのだ。
「痛い!! ああ! 痛い~! うう、うぅ、ひぃっいひぃひひひぃ~、ひぃや~!」
もうその男に人間らしさはない。
それはある意味、人間らしい愚かな結果でもあるのだが。
「知っていますか? 良薬は口に苦しという言葉を。それは強力な薬ですからね。苦みも尋常ではないのです。ほら、痛みは抑えられているはずですよ? しかし、それ以上にその薬は苦い。苦みは痛みを生む」
「ひぃぃ~~!! あがぁ、うううううはぁかかかぐぇ~!」
男は悪魔のような叫びをあげて失神しようとする。
しかし、尋常ではない痛みが、男の意識を引き戻す。
「あははは! 愉快愉快! 御安心なさい。お前はもう二度と、転生してまでその業を引き継ぐことはないでしょう。この世で永遠に生き、永遠に苦しむのですから」
私は幾度となく痛みに狂う人間を眺め、にっこりとほほ笑んだ。
「私のものになると言いましたものね。自分の言葉には相応の責任を持つべきですよ。人間はそれを平気で破るようですが、悪魔はそうもいかないのです。ははは、あはははははははは!!」
病室ではしばらくの間、悲鳴と笑い声が絶えなかった。
さて、次はどんな患者が来るのでしょうね?




