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世界の綻び

 この世界は計算によって生み出された仮想の世界である。

  木も水も人も、この星も宇宙も、ある種のコンピューターの計算によって描画された箱の中の世界にすぎない。その事実はもはや否定できない領域まできていた。

 現在、この世界を描画するプログラムの存在が明らかになりつつある。コンピューターが描画する世界の中に生み出されたキャラクターでしかなかったはずの人間は、この世界の設計図を手を伸ばし、自らの手で世界を変え始めていた。

 そして世界の真理に近づいた結果、その綻びが目に見える形で現れ始めている……



「おい! 動くんじゃねえよ!」

 ショッピングモールの端、建物の陰で誰も来ることのないデッドスペースに高校生の集団がたむろしていた。人のあまり来ないその場所で、一人の少年を取り囲み、スマートフォンを向けていた。

「くらえ!」

 カメラを向けながら少年を取り囲み、そのうちの一人が画面に映る少年をタップすると、カメラを向けられた少年自身の体に炎が上がった。少年は体から立ち上った炎にのけ反り、その熱に顔が歪む。

「すげえ、本当に燃えた!」

 炎は一瞬燃え上り、すぐに消えたが、少年がスマートフォンの画面をタップする度、カメラを向けられた少年自身の体に炎が燃え上る。

 画面をタップする度に現れる炎に怯える少年を見て、周りの少年たちが笑い声を上げる。

「すげーなこのアプリ、なんで火がつくんだ!?」

 コンピューターの計算が生み出した世界。その事実の一端がそこにあった。燃えるものがなければ火はつかない。それはごく当たり前の物理法則だ。しかし、ここがコンピューター上の仮想空間であるならば、そういった物理現象すら何者かによって定義されただけものでしかない。その定義を書き換えることができれば通常ではありえない現象を起こすことも可能になる。

「おい、こっちのアプリも試してみようぜ、電撃食らわせるやつ」

 チートコード。

 数年前、この世界の物理法則を飛び越すような不思議な現象を起こせるコードがネット上に流出した。いくつかの手順を踏んだうえでコードを実行すると、指定した座標に火をつけたり、物体をAからBへと何の力もかけずに動かしたり、本来ならは起こりえない現象を起こすことができた。

 起こせる現象は些細なものばかりだったが、この世界が何らかのプログラムによって動いていることを証明するには十分だった。

 人間も仮想空間の中に生み出されたキャラクターにすぎないという事実はただの妄想ではなく現実として受け入れられはじめ、世界に干渉するためのコードも少しずつだが、確実に広がりをみせていた。

「火傷したら可哀想だから今度は水かけてやろうぜ!」

 別な少年が同じようにカメラを向けてタップすると、今度は水が少年の体の前でいきなり弾けた。

「漏らした! こいつ漏らしたぞ!」

 股間が水浸しになった少年を見て皆が笑う。

 そんな様子をナオキは屋上の駐車場からこっそりと眺めていた。

「くだらない……」

 自分と同年代の少年たちが行っているいじめの現場をナオキはただぼんやりと眺めるだけだ。

 この世界が何者かによって作られた世界だという事実にナオキは心底うんざりしていた。目の前に広がる世界がコンピューターの中に存在するのだとしたら、自分自身はゲームの中のキャラクターのようなものだ。

 もしもこの世界がゲームなのだとしたら……

「……クソゲーだ」

 ナオキは吐き捨てるようにつぶやいた。

 この世というゲームはクソゲーだ。死ねばそこでおしまい。大きな怪我をすれば治らない。時間は一方的に進み、努力を怠れば置いていかれ二度と取り戻せない。コンティニューもやり直しもきかない。冒険の旅に出ることなどせず、日々を堅実に生きることこそが最良の選択で、勇者が立ち寄る名もなき村の住人のような、ただのいちキャラクターとして人生を終えるしかない。

 ゲームの主人公ならいじめの現場を目撃すれば助けに行くだろう。しかし助けに入れば怪我もするし場合によっては命だって落としかねない。この『ゲーム』はそうなったら終わりだ。

 このつまらないゲームを無事に終えるには、目の前でいじめが起きていようが、関わらないようにするしかない。

  そんなことを考えながら、ナオキはただぼんやりといじめの光景を眺めていた。

「……助けないのか?」

 誰もいないと思っていた屋上で、背後から急に声をかけられた。

 不意にかけられた声に心臓を掴まれたような驚きで思わず振り返ると見知らぬ男が立っていた。春の陽気だというのにいまだモッズコートを羽織った男はナオキの隣に並ぶと、同じように下で繰り広げられるいじめの光景にぼんやりと目をやった。

 しばらくその光景を眺めた後、男はチラリとナオキを見た。男が先ほど口にした、助けないのかという言葉通りの表情がそのままそこにあった。

「数が多い、助けに入ったら返り討ちに決まってる」

「……そうか」

「それにあいつら変なのも持ってるし」

「ああ、あれか……」

 スマートフォンをタップする度に炎が上がるのが見える。

「すっかり広がってるみたいだな、チートコードを動作させるアプリ。困ったもんだ」

 男は面倒くさそうに頭をかいた。

「だが、あんなのは所詮オモチャさ」

 そう言ったかと思うと、今度は男の口元がニヤリと歪んだ。

「せっかくだから見せてやるよ、この世界への干渉の仕方を」

 その瞬間だった、男は身長ほどもある屋上のフェンスをひらりと飛び越した。まるでトランポリンに乗ったかのようにふわりと跳ねてフェンスを片手で乗り越えると、そのまま十数メートルある地面へと落下した。

「なっ!!」

 驚いたナオキがフェンスにしがみつき下を覗き込んだが、男はまるで何もなかったように怪我のひとつもなく地面に立っていた。

 男の存在に気付いた少年たちが男に目をやると、なにやら悶着がはじまった。声こそ聞こえないが少年たちに近づく男に向かって少年たちが怒りの表情を浮かべている。

 そして一人が動いた。拳を握りしめ、一歩、また一歩と踏み出すとその足は加速してゆき、男にその拳を叩きつけようと駆け寄る。

 だがその瞬間だった。駆け出した少年の動きがいきなり止まったように見えた。が、ナオキが目を凝らすとそれは止まったわけではなかった。駆け寄る少年の動きがまるでスローモーションの映像のようにゆっくりと動いている。他の少年たちも体を向き直したり、声をあげたりしているようだが、その何もかもがゆっくりと動いている。

 そんなスローモーションの世界の中、男だけが何食わぬ顔で立っている。面倒くさそうに二、三度頭をかいたが、その動きはいたって普通の速度だ。スローモーションのまま、男にゆっくりと近づいてくる少年の周りを、たった一人普通の速度で動く男はからかうようにぐるりと歩き回ってみせた。そして、少年が手に持つスマートフォンを取り上げると、他の少年たちの元へと歩きだし、スローモーションとなり何の抵抗もできない少年たちから次々とスマートフォンを取り上げる。

 男が取り上げたスマートフォンを無造作に地面へと落とすと、さっきまでスローモーションだった少年たちが急に元の速度に戻った。自分たちの身に何が起こったのかわからず、その場に立ち尽くし、自身の体と男を交互に見て動揺した表情を見せている。

 そんな少年たちの前で男がスマートフォンを踏み潰した。すると我に返った少年たちはようやく自分たちのスマートフォンが壊されたことに気付き、再び怒りの表情で男へと駆け寄ろうとした。しかし今度は男の腕から突然炎が上がった。少年たちがアプリで生み出した炎と同じものに見えたが、すでにスマートフォンは破壊されている。男は自身の腕で燃え上る炎に動揺することはなく、むしろ笑みを浮かべながら腕の炎を眺めていた。そして、腕を前に出すと、炎をまとった指が地面を指し示す。その瞬間、今度は地面にも炎が上がった。男の指の動きに合わせ、炎が少年たちへとじりじり近づいてゆく。その様子に怯えた少年たちの足が再び止まった。そして男が腕を振りかざすと、地面から猛烈な火柱が上がり、辺りが真っ赤に染まった。その炎は一瞬で消え去ったが、少年たちを震え上がらせるには十分だった。怯えた表情の少年たちはいじめられていた生徒を残し、全力で逃げ出していた。

 目の前で起こった出来事をナオキはただ呆然と眺めていることしかできなかった。何が起きているのか、ナオキの理解を越えた状況だった。

 いじめられていた少年はただ呆然と男を眺めていたが、とにかくこの場から離れたい気持ちは他の少年たちと同じだったのか、軽く頭を下げると逃げるように走り出した。

 そんな様子をただ静かに眺めていた男だったが、屋上に立つナオキの方へと向き直ると笑ってみせた。そしてその瞬間だった、突然、ナオキの背後から声がした。

「どうだ、なかなかやるだろう」

 男がそこにいた。さっきまで数十メートル先にいたはずなのに、唐突にナオキの背後に現れた。

「え……」

 ありえない出来事を前にナオキは一言うめいて固まってしまった。

「なんで? 今まであそこに……」

 瞬間移動としか思えない男の動きにナオキは戸惑うことしかできない。

「混乱してるな」

 男はナオキの様子を楽しむようにニヤリと唇を曲げた。

「まあ別にわからなくてもいいことさ。悪いことをするともっと悪い奴に目を付けられるってことだけ覚えておけばいい……とりあえず、あの妙なアプリには手を出すなよ。じゃないと同じ目に遭うぞ」

 そう言って男はナオキの肩を叩いた。世界がスローモーションになることも、腕から炎が上がることもない。一見するとただの男がそこにいた。

「あ、そうだ。これも何かの縁だから忠告しておこう。このショッピングモールからは離れた方がいい。どうにも雲行きが怪しい」

「雲行き?」

 ナオキは空を見上げてみたが、雲一つない青空が広がるだけだ。

「天気の話じゃない。この空間自体が荒れそうなんだ」

 男の言葉はナオキには全く理解できなかった。

「こう、髪に指を通すとさ、わかるんだよね、指の通りが悪い時は処理が重くなってるんだ」

 男が髪を撫で上げるが、ナオキにはその言葉の意味もわからなかった。

「とにかく気をつけろよ」

 そう言うと、男の体が透け始め、まるで最初からその場にいなかったように消えてなくなった。

「なんだ……今の……」

 幻でも見たような、不思議な感覚だけがナオキの中に残った。




 2




 いつもはそんなことをしないが、ナオキはショッピングモールのトイレで顔を洗っていた。水の冷たさで意識をはっきりとさせてみるが、それでもさっき見た光景がクッキリと浮かんでくる。いじめの現場に現れた正体不明の男、スローモーションになる世界。立ち上る炎。どれもやはり記憶にしっかりと残っており、それは現実に起こった出来事としか思えなかった。

 髪に手を伸ばし、かき上げてみるが特に何も感じない。処理が重くなるといったあの男の言葉の意味はやはりわからない。

 しかし先ほど見た光景は間違いのない現実としか思えなかった。

「もういい……帰ろ」

 ここを離れた方がいいという男の言葉を信じるわけではないが、元々時間潰しで来ていただけで目的もない。ナオキはトイレを出ると、出口へ向かって歩き始めた。

 ナオキの帰る出口は中央広場を通り抜けて向かうのが一番早い。いつものように広場に繋がる通路を歩き始めたが、広場が近づいた時だった。広場の方から悲鳴と共に人がなだれ込んできた。突然の出来事にナオキが咄嗟に壁際に張り付き人の流れを避けると、その横を次々と人が走り去ってゆく。広場まであと一歩というところまで来ていたナオキは、そのただならぬ状況に一体何事かと恐る恐る広場へと顔を出してみた。するとそこには見たこともない光景が広がっていた。

「ボート……」

 空をボートが飛んでいた。見間違いではない、水に浮かんでいるはずのボートが宙に浮いている。それだけではない、視線を落とせば広場の建物や人が、まるでモザイクでもかかったように見えた。人々が逃げ惑い、叫び声を上げるが、それらは粒子の粗い人のようなものに見え、ゲームの中のドットキャラのようでもあった。

「なんだこれ……」

 ナオキは目の前の奇妙な世界に、逃げることも忘れてただ見入っていた。

 上空を飛ぶボートは人々を襲っているようで、逃げ惑う人を見つける度、ものすごい速度で上空から急降下し、人に体当たりを繰り返している。体当たりを食らった人のようなものはそのドットのような体を弾けるように破裂させ、消えてゆく。

 人かもしれない『もの』が空飛ぶボートに次々と『壊され』てゆく様子は人が死ぬ瞬間だったのかもしれないが、その奇妙すぎる光景のせいでナオキにはまるで現実を感じられなかった。

「なんでボートが……」

 広場の中を動き回る人のようなものたちは次々とボートになぎ倒され、広場の中で動いているものが徐々に減ってゆく中、今度は広場の入り口で呆然とたたずむナオキの方へと空飛ぶボートが向き直った。

 見つけたと言わんばかりに空に浮かんだ奇妙なボートは船首をナオキに向ける。ただの物体であるはずのボートなのに、そこには殺意としか思えない明確で強烈な意思を感じた。

 ナオキが危険を感じるのとほぼ同時にボートがナオキ目がけて突進してきた。しかしナオキはどうすることもできず、腕で顔を覆うことしかできなかった。

「!!」

 顔を覆った直後、体に何かがぶつかるような衝撃が走り、ナオキの体がふわりと軽くなったかと思うと、一瞬、どちらが上か下かもわからなくなった。その不思議な感覚の後、覆った腕の隙間から恐る恐る辺りを見ると、ナオキは広場の中央、時計塔の上に立っていた。

「え……なんで!?」

 先ほどまでナオキが立っていたはずの広場の入り口が見える。そしてその壁にはボートが突き刺さっている。

「大丈夫か?」

 不意に聞こえたその声にナオキはハッとした。先ほど駐車場で会ったモッズコートの男がナオキと同じく、時計塔の上に立っていた。

  あまりの驚きにナオキは思わずよろけ、バランスを崩した腕が時計塔からはみ出すと、くすぐられたような感覚と共にその腕がモザイク状に変わってゆく。

「バカ! 引っ込めろ!」

 男がナオキの肩を掴んでその体を時計塔の真上へと引き戻すと、奇妙な変化をしかけた腕は元に戻った。

「オブジェクト偽装で姿を隠してるんだ、ジッとしてろ」

 男がまた意味のわからないことを言っている。

「見ろ、あいつはまだ俺たちを見つけられない」

 壁に突っ込んだボートは再び宙に浮かび、何かを探すように上空をさまよっていた。

「一体なにが……これは……ここで何が起こってるんですか?」

「さあな、俺だって全てを知ってるわけじゃない。わかるのは辺り一面バグだらけってことと、君がそれに巻き込まれて死ぬ寸前だったってことくらいだな」

「助けてくれたんですか?」

「まあね……」

 しかしそう言った男はばつが悪そうに頭をかいた。

「だが、なんというか助けた直後にこんなことを言うのはなんだが、君はこれから死ぬ。もう助からない」

「え……」

「ボートの体当たりをかわして咄嗟に時計塔まで飛んではみたものの、周りはもうグチャグチャだ。逃げ道がない」

  グチャグチャになったモザイクのような世界が二人を取り囲んでいる。

「さっき腕がピクセル化したろ、今はちょっとしたチートで影響を無効化してるが、いずれここも飲みこまれてあの景色のように人としての体を保てなくなり崩壊する。つまり死ぬってことだ」

「死ぬ……」

 ナオキは死の文字を言葉として発してみたがまるで現実感がなかった。目の前に広がるモザイク状の景色はまるでVRゲームの中のようで、死とは全く結びつかなかった。たとえあの世界に飲みこまれても、ゴーグルを外せば本来の世界に戻るれるような、そんな気がしていた。

「死ぬ……」

「そうだ、死ぬ。だが、死を回避する方法が一つだけある」

 男がスマートフォンを取り出し、ナオキに見せた。

「こいつは改造コードの詰まった端末だ。画面をタップして認証を通せばピクセル化無効のチートが動いて死を回避できる」

 突き出されたスマートフォンを覗き込むと、小さな丸い点が押せと言わんばかりにゆっくりと明滅を繰り返す。

「だが、こいつは認証を通すと他人には使えなくなる。助かった後はしばらく俺の手伝いをしてもらうぞ」

  男が矢継ぎ早に言葉を繋ぐのをナオキはただぼんやりと聞いていた。

「どのみち死を回避するにはこいつを使うしかない。俺としては不本意だがやむを得ない。さあタップするんだ」

  だがナオキはただぼんやりとスマートフォンの画面を眺めるだけだった。

「おい、こいつをタップしなきゃ死ぬんだぞ、それでいいのか」 

「よくはないけど……」

 現実感の無さがナオキの思考を鈍らせていた。自分の身に降りかかった出来事を処理できず、固まることしかできない。

「わかった、言い方を変えよう。君に死なれると俺の寝ざめが悪い。とりあえず俺のために押してくれ、後のことはそれから考えよう」

 ナオキの態度を予想していなかったのか、むしろ男の方が慌てていた。男が周辺に目をやると、宙をさまようボートが時計塔の上を旋回し始めていた。

「まずい、オブジェクト偽装が解ける。こっちに気付いたボートが突っ込んでくるぞ!」

 時計塔の周辺の空間にヒビのような青白いすじが広がったかと思うとその筋に沿って青い火花が弾けた。その瞬間、ボートがその鋭い船首をナオキたちに向け、高速で突っ込んできた。「押せっ! 本当に死ぬんだぞっ!」

 突っ込んできたボートの衝撃でピクセル化していた柱が砕け、時計塔は砂糖菓子のようにぽろぽろと崩れ落ちてゆく。

 激しい衝撃の後、ナオキの目に飛び込んできたのは青空だった。ナオキの体は広場の地面に仰向けに転がっていた。ピリピリと痺れるような痛みに右手を見ると、爪や皮膚がピクセル化を始めている。だがパチパチと表面が小さく弾けるだけでそれ以上は広がらない。そして左手には男が差し出したあのスマートフォンが握られていた。

「ぎりぎり間に合ったようだな……」

  青空を遮るように男の顔がナオキの視界を覆った。

「一体……何が?」

「チートコードだよ。さっきガキどもがスマホから火を出して遊んでたろ、その端末にはあれと同じようなのが入ってる……桁がまるで違うけどな」

 男は手を差し出し、ナオキの体を引き起こした。

「ダメージ無効、腕力アップ、痛覚ゼロ、ピクセル化無効……まあ色々コードを動かしてるが、簡単に言ってしまえば今の君は無敵だ」

「無敵?」

「ゲームの改造コードと一緒さ。パラメーターをいじって所持金をマックスにしたり、高いところから落ちても死なないようにしたり、そういうのあるだろ、それと同じ状況に今、君はなってる」

 そう言った男の頭のすぐ上にあのボートが浮かんでいた。

「ほら、ボートが狙ってるぞ」

 男の表情にさっきまでの焦りはなかった。ボートがナオキ目がけて突っ込んでゆく様子をただ眺めるだけだ。

 ボートは問答無用にナオキへ突っ込んでくる。ナオキは思わず体をねじるがかわせる速度ではなく、激しく衝突されたナオキは弾き飛ばされ、十数メートルも宙を舞い、地面に叩きつけられた。

「……あれ?」

 しかしナオキの体は傷ひとつ、痛みひとつ感じず、ただ地面に転がっていた。体を起こして立ち上がってみても、あんな衝突をされたはずなのに体のどこにも傷はなく、痛みもない。

「な、無敵だろ」

 男がニヤリと笑ってみせた。

「一体どうい……」

 ナオキの言葉が終わるよりも早く、またしてもボートがナオキに体当たりした。体は宙を舞い、天地がわからなくなるほどに回転し、地面に叩きつけられる。だが、やはり痛みはない。 そんなナオキを見ても男は何もしない。何度も体当たりをされ、その度に吹き飛ばされる様子を腕組みしながら眺めている。

「痛みはないけど……ないけどこれ……って、またっ!」

 言葉を言い終わるよりも先にまたナオキが吹き飛ばされる。

「さすがに体当たり食らいまくりってわけにもいかないか……」

 男はからかうような笑みを浮かべている。

「さっき言ったがその端末は俺にとって大事なものだ。ユーザー認証を受けて君しか使えなくなった以上、協力してもらうぞ」

「きょ、協力ってなにを……」

「まずはそのボートを倒そう。端末に剣のアイコンがあるだろ、それをタップだ」

 ナオキが握ったままの端末を見ると、確かに剣のアイコンがある。何が起こるのかもわからなかったが迷わずタップした。痛みがないとはいえこれ以上宙を舞うのはまっぴらだった。

「!!」

 ナオキがアイコンをタップした瞬間、スマートフォンから青白い光が伸びた。するどく光るその青い光はまるで剣のようだ。

「そいつはコードブレイカー。不正なコードで動くオブジェクトをぶっ壊すための武器だ。そいつであの糞ボートをぶった斬れ!」

「斬る……」

 そう呟いたナオキにまたしてもボートが突っ込んでくる。ナオキはスマートフォンから伸びた青白い刃をボートに振り下ろした。しかし青白い火花と共に刃は弾かれ、ナオキもそのまま吹き飛ばされた。

「その程度の打ち込みじゃプロテクトは破れないぞ、全力で振り下ろせ」

「全力ったって……くそっ!」

 ナオキは突進してくるボートを紙一重でかわすと、ボートの横っ腹に精一杯の力で刃を振り下ろした。刃が船体に触れた瞬間、ボートから押し返す力ががかかったが、それでも強引に振り切った。すると先ほどとは比べものにならない火花が辺りに飛び散り、ボートを真っ二つにしたような手応えを感じた。

「やった! って、えっ!?」

 確かに手応えはあった。しかしボートはダメージを受けた様子もなく、またしてもナオキは吹き飛ばされた。

「よくやった!」

「やってないって!」

 ナオキは男の言葉を一瞬で否定した。が、それでも男は何度もうなずいてみせる。

「今の打ち込みであのボートのデータを吸い出した。コードブレイカーが解析を始めたぞ」

「解析?」

「刃を見ろ、少しずつ色が変わってるだろ、その剣はまず最初の一撃でデータを吸い出して、どうすればコードを壊せるか解析するんだ。刃が真っ赤になったら解析完了の合図だ」

 男の言葉に刃を見ると、青白く光る刃はまるでディスプレイのように、その刀身に無数の数字や記号を表示し、その数字がものすごいスピードで流れてゆく。そして刃の青い光が徐々に赤みを帯びてゆく。

「剣が真っ赤に燃え上るまでは我慢だぞ」

「我慢ったって……」

 ナオキはボートの体当たりを食らい、宙に舞い上がる。痛みが無くとも、体当たりを食らう度に視界がでんぐり返るのはたまらない。

「端末の画面に足のアイコンがあるだろ、それをタップしろ」

「足? これか?」

 男に言われるがまま、足のアイコンをタップした。

「俊敏性アップのチートだ。相手をよく見てから動けばかわせるはずだ」

 ナオキ目がけて再びボートが突進する。だか、そのボートをジッと見据えたナオキはその突進をあっさりとかわした。

「え、なんだこれ? すごく体が軽い」

「それでもうあんなボートは怖くないだろ、あとはコードブレイカーの刃が赤くなるのを気楽に待てばいい」

 軽くなったナオキの体はボートの突進を難なくかわす。

「コード……チート……これが?」

 ボートから身をかわせるようになり、思考に余裕が出てきた。いじめの現場を目撃した時にいじめの少年たちがスローモーションになったのも、腕から炎が上がったのも、こういったチートコードを使ってのことなのだろう。そんなものを使いこなすあの男は一体何者なのだろう。

 ボートをかわしながら男に目をやるが、どこにでもいるただの人間にしか見えず、コードとの関係は見えてこない。

「そろそろだぞ、刃を見ろ」

  最初は青白かった刃は、気付けば真っ赤に染まり、炎のような赤い粒子を漂わせている。

「そいつでぶった切れば今度こそあいつもおしまいだ。やれ!」

 モザイクのようになった奇妙な空間に巻き込まれ、戦闘をさせられている自分。めまぐるしく変わる自身の環境に戸惑ったが、今はとにかくあのボートをなんとかしないと終われない。ナオキは真っ直ぐ突っ込んでくるボートを前に、真っ赤に燃える剣を振り下ろした。 

「うぉぉぉぉ」

 雄叫びと共に振り下ろした剣は、さっきあった弾かれるような抵抗を感じず、あっさりとボートを真っ二つにした。二つに裂けた船体は辺りの空間と同じようにモザイク状の粗い塊となり、ボロボロと崩れ落ちてゆく。ピクセル化した粒子は泡立つように小さく弾けながら消えた。それと共にナオキが持つスマートフォンから伸びた刃も溶けるように消えていった。

 そして辺りには静寂だけが残った。

「よくやったな。初めてにしちゃ上出来だ」

 男がナオキの元へとやってきて軽く肩を叩いた。

「一体なんなんですか、これ……」

 ナオキは手にしたスマートフォンをぼんやりと眺めた。

「コードブレイカー。内臓したチートコードで使用者に様々な能力を与えることのできる装置だ。そして、俺は世間に流出した改造コードをそいつを使ってぶっ壊す」

 男がナオキを見てため息をついた。

「……はずだった」

 そう言うと男は残念そうな顔でしゃがみ込んだ。

「人助けとはいえ、俺以外のやつに認証させちゃうなんてなぁ、失敗したなぁ……」

 よほど参っているのか、男は頭をかきむしり、うめき声をあげている。

「とにかく、君がそのコードブレイカーの持ち主になった以上は付き合ってもらうぞ」

「付き合う?」

「ああ、このバグだらけの糞みたいな世界を守るため、冒険の旅に出るのさ」

「冒険の旅?」

「ああ、お前はこの世界を救う勇者だ、頼むぞ」

「勇者? 俺が!?」

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